(10)
比奈さんは普段、残業をしない。
そんな比奈さんが六時を過ぎても起きない。仕方がないので、僕は残業するつもりで顧客提出用のファイルを開いた。しばらく画面とにらめっこするが、隣の比奈さんが気になって集中出来ない。
比奈さんの寝顔を確認するが、全く微動だにしない。ちょっと心配になって、少しだけ近づいて、息をしているか確認する。寝息の音の代わりにふわっといい香りがしてくる。
「比奈さん、帰りませんか?」
そっと耳元で囁いてみると、突然彼女は頭を上げた。危うく頭突きされるところだ。
「……帰る」
彼女は仏頂面のまま、カーディガンを着ようとするが、上下逆さまなのに気づかない。流石に見ていられないので、カーディガンとセーターとコートを着せて、マフラーを巻く。もはや完全に我が子の世話だ。
「歩けます?」
一緒に歩いてみるが、比奈さんの足元がおぼつかない。これではほとんど酔っ払いではないか。
やむなく比奈さんを支えながら会社を出る。比奈さんのマンションまでは、徒歩で十五分程度。暗くなっていて、車が通るのでちょっと危ない。
あの手段を取るべき条件は揃っている。しかし、相手は見た目はともかく成人女性。一応、本人に確認してみなければ。
「もう、おぶっていきましょうか」
比奈さんが無言でこちらを睨む。やはり失礼な発言だったか。後悔していると、彼女はふらふらしながら僕の背後に回り込んだ。
「ねえ、高いよ。しゃがんで」
「ああ、はいっ」
比奈さんがひょいっと僕の背中に身体を預けてきた。途端に心臓がターボモードに切り替わる。
日が落ちているし、背格好からは親子のようにしか見え無いだろう。実際、彼女はやたら軽く、遊び疲れた子供を背負っている感覚だ。
「……ありがとう」
「いえ、お安い御用です」
返事した時には、彼女は既に寝息を立てていた。
比奈さんのマンションに来るのは、これで二度目だ。
今回は正式に招かれたわけでもなく、半ば成り行きだ。まずは、背中ですやすや寝ている比奈さんを起こすかどうかでしばらく悩む。
起こすのは忍びないし、ずっとおぶっていたいという邪な気持ちも襲ってきたり。とりあえず頭を振って、僕の中の邪念を祓う。比奈さん推しとしては、ちゃんとした所で寝かせてあげることを第一に考えねば。
「比奈さん、着きましたよ」
「……鍵、バッグの……内ポケット」
背中の比奈さんが寝言のようにつぶやいた。
首から掛けていた比奈さんの白いバッグ。開けるのが躊躇われたが、そうも言っていられない。
少し前屈みになってバッグを探ると、内ポケットに白猫のキーホルダーを見つけた。エントランスのセンサーに鍵を当て、八階の比奈さんの部屋へ向かう。
比奈さんの部屋のドア前に立ち、もう一度声を掛けてみる。
「比奈さん、部屋に着きましたけど」
「うん……お邪魔します……」
いや、お邪魔するのは僕なのでは。
「入って大丈夫ですか?」
「……苦しゅうない」
何故か殿様みたいになっているが、これは許可されたと取っていいのだろうか。僕は恐る恐る鍵を差し込み、ドアを開けた。
中に入ったはいいものの、家主は未だに眠っている。勝手に寝室に入るわけにもいかないので、比奈さんをソファにそっと降ろす。
改めて見ると、なんと無邪気な寝顔だろうか。僕は心のメモリーにその顔を刻んで、静かに立ち去ろうとした。
その時、僕は一抹の不安を覚えた。このまま僕が帰った場合、誰がこの部屋に鍵をかけるのだ。オートロック式のマンションとはいえ、好ましくない何者かが紛れ込まない保証はない。
寝ている比奈さんを横目に、僕は一計を案じた。推理小説などでは、鍵を使わずに施錠する密室トリックがある。自分のバッグの中を探すと、何に使ったかわからないビニール紐が出てきた。内鍵に紐をかけ、ドアの隙間から外に出して引っ張れば、あるいは。
実際にやってみようとしたものの、ドアの密閉性が高く、そもそも紐が通らなかった。僕には密室殺人は無理のようだ。
諦めて部屋に戻ると、比奈さんが起き上がっていて、とろんとした目でこちらを見ていた。
「起きました? よかった」
やましい事をしているわけではないのに、咄嗟に紐を隠してしまう。目を覚ましたところに、男が謎の紐を持って立っていたら、ちょっとしたホラーだろう。
「じゃあ、僕、帰りますね」
誤魔化しながら玄関に出ようとしたところで、比奈さんの声がした。
「やだ」
比奈さんは少しむくれた顔をして、僕を見つめていた。
「ここにいて」
僕は耳がおかしくなったのだろうか。
比奈さんが駄々っ子のようになっている。
頬を膨らませて僕を見るその姿は、買い物中におねだりする娘のようだ。可愛いが、真意がわからないので反応に困る。
「……推しのお願い、聞いてくれないの?」
「います、いますとも」
小悪魔の上目遣いの魔力が上乗せされて、僕は即、撃沈された。




