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 システムエンジニアとして働き始めて三年目。僕の席の隣には、ひとつ上の先輩の比奈さんが座っている。

 小柄な体に、大きな瞳の色白な童顔が乗っかっている。黒髪のショートに、いつも白い髪留めを着けている。年上とは思えない可愛らしい見た目のせいで、最初に会った時には誰かの娘さんが来ているのだと思ったものだ。

 その風貌から、同僚の間では、密かに妖精(フェアリー)などと呼ばれている。しかし、僕の中では彼女は妖精というより、猫だ。


 彼女は、猫みたいなくしゃみをする。


「くしっ」


 僕は、それを聞くたびに、かつて飼っていた黒猫のゴロウのくしゃみを思い出す。音の感じがそっくりなのだ。

 しばらく近くにいた僕は、彼女のくしゃみには法則があることに気づいた。


 彼女はなぜか、毎日決まった時間にくしゃみをする。

 午前十一時五十七分。これは昼休みの三分前なので、お昼時の合図として丁度良い。

 次に、午後五時二十七分。こちらは、定時終業の三分前。

 毎日同じ時間となれば、そこには何か秘密があるはずだ。だが、僕は比奈さんに聞くことは絶対にしない。彼女が意識してしまって、くしゃみをしなくなるのは嫌だからだ。

 彼女のくしゃみは、なんというか、とにかく可愛らしい。ゴロウを連想するせいもあるが、仕事中のひとときの癒しなのだ。

 今のところ、社内で彼女のくしゃみに気づいているのは、僕だけだ。


「くしっ」


 今日もまた、彼女のくしゃみの音が聞こえて時計を見る。

 午後五時二十七分。予想通りで、僕は内心ほくそ笑む。しかし、なぜ決まった時間にくしゃみをするのだろう。不思議に思って彼女を見ると、意図せず目が合ってしまった。

「比奈さん、今日はもうあがりですか」

 急に視線を逸らすのもおかしいし、なるべく自然な体を装って、声をかけた。

「うん、そうだけど」

 話しかけたはいいものの、この先の引き出しがない。比奈さんは仕事上の先輩というだけで、プライベートの事は何も知らないのだ。

「今日は金曜ですもんね。どこか飲みに行かれたりするんですか」

「ううん、わたしは飲めないから」

「僕もなんですよ、奇遇ですね」

 何を聞いているのだ、僕は。彼女が下戸なのは、新人歓迎会の時から知っているではないか。なんなら、そういう話もしたような気がする。

 気まずい沈黙を破るように、終業のチャイムが鳴った。彼女は手早くパソコンを落とすと、カーディガンとセーターの上からコートを羽織って、さらにマフラーを首に巻いた。

「お疲れ様」

「はい、気を付けて」

 比奈さんは一言挨拶すると、手早く部屋を出ていった。彼女の後ろ姿を見送って、僕はため息をついた。


 比奈さんは、昼休みによく眠る。

 彼女は手弁当を手早く食べて、そそくさと席を立つ。歯を磨いて戻ってくると、スイッチが切れたように、すとんと机に突っ伏すのだ。静かな昼休みの空間で眠っていても、寝息ひとつ聞こえない。

 お昼寝(シエスタ)は体に良いという話を聞く。百パーセントいびきをかく自信がある僕には、絶対に出来ない。


 比奈さんは、とにかく寒がりだ。

 季節は冬の始まり。最近は朝からかなり寒くなった。彼女は服をめちゃくちゃ重ね着してくるので、朝はもこもこしている。冬毛になったゴロウの事を思い出したのは、彼女には秘密だ。


 昼過ぎになると、彼女はノートパソコンを持って、窓際のミーティングスペースに陣取る。僕はなんとなく、その理由を聞いてみた。


「その席、お気に入りなんですか?」

「うん。暖かいから」


 その場所はブラインドを上げると、日の光が差してくる。要するに、日向ぼっこを兼ねているのだ。


「熱いお茶でも入れましょうか」

「ううん、大丈夫。熱いの飲めないの」


 どうやら彼女は猫舌のようだ。やっぱり猫っぽい。


 比奈さんは、耳がいい。それはもう、人間のレベルを超えているのではと思うくらいに。


「そう言えば、比奈さんをスーパーで見かけたんだけど」

 給湯室で市原が話しかけてきた。彼女は隣の部署に所属する同期だ。

「カゴいっぱいに買い込んでて、カートを押す姿がめちゃくちゃ可愛かったのよ」

 その光景が目の前に浮かんでくるようだ。きっとそれはお使いを頼まれた小学生のようだったろうな。


「くしっ」


 想像を膨らませていると、いつの間にか比奈さんが隣で僕を見上げていた。思わずぎょっとしてしまう。

「比奈さん、いつの間にそこに?」

「呼ばれたかなと思って」

 彼女は足音ひとつ立てずに接近してくる上に小さいので、しばらく気づかない事が多い。

 地獄耳とも言えるが、そもそも彼女の悪口を言う人間などいない。こういう場合、大概は彼女が愛でられて終わるのだ。


「比奈さん、ちょっと撫でてもいいですか」

「別にいいけど」

「今日も可愛いですねぇ」


 比奈さんは市原に一方的に頭を撫でられている。市原に限らず、彼女を愛でたがる女性社員は多い。

 彼女が抵抗しないのは、まんざらでもないのか、我慢しているのか。とりあえず、僕としてはちょっとうらやましい。


 比奈さんは、出来る女だ。

 表情はあまり豊かでなく、雰囲気はぽうっとしているが、仕事はいつの間にか、きちんとこなしている。なんなら、例の窓際で人の仕事まで先回りして終わらせてしまっている。

 後輩としては、手際が良すぎて、技術的な面ではあまり参考にならない。

「すごい速いですよね。何かコツとかあるんですか?」

「早く終わらせることだよ」


 比奈さんは、人に教えるのがちょっと苦手のようだ。

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