僕は今日、結婚してから一度も愛せなかった妻と離婚する
生まれてからずっと、同性が好きだった。
人工的に作られたような美しいサファイアブルーの海を眺めながら、僕はベッドで寝息を立てている博樹の横顔を見る。
正式に結婚が認められ、記念にどこか旅行にでも行こうかとの彼の提案で、海が綺麗な場所を選んだ。
色白で日焼けを嫌う僕とは違い、スポーツ全般が得意で体育会系な博樹は海で泳ぐと張り切っていたのに、ホテルに着いた途端すぐに眠ってしまった。
疲労が溜まっていたのだろう。精神的なものも含めて。
僕は左手の薬指に嵌めた真新しいペアリングに視線を移し、これを購入した時のことを思い出す。
現在は同性婚の認知度も高まりつつあるからか、ジュエリーショップにも豊富な数のメンズペアリングが揃っていた。
僕と博樹は、シルバーリングにそれぞれの誕生石と同じ色のラインが入ったものを選んだ。
周囲の視線がまったく気にならなかったと言えば嘘になるが、それよりも、同じ日にペアリングを購入しにきていた女性同士のカップルが、幸せそうに指輪を見ていた姿が印象的だった。
彼女達は小さなリボンのついた指輪にそれぞれの誕生石の宝石がついた指輪を選んだようで、小柄な女性が「これで一緒になれるんだ」と感激して泣いていた。その横で背の高い女性が、微笑みながら背中を撫でている。
その姿に二人を担当していた店員も瞳を潤ませていたが、僕も胸が温かくなるような、抉られるような複雑な心境になったのだ。
これで一緒になれる。やっと、これで。
それは、僕と博樹も同じ気持ちだった。
「秋斗…」
彼が起きたのかと思って振り返ると、まだ深い寝息が聞こえたので、寝言だったのだと気づく。
僕の夢を見ているのかと、少しだけ照れたような気持ちになった。
エアコンの微かな風で博樹の髪が揺れ、僕は彼を起こさないようにそっと頭を撫でる。
博樹の髪は、あの人の徹底的にケアされた髪とはまったく違って、一本一本が太く、硬かった。
僕は進んであの人の髪に触れようと思ったことはないけれど、風になびく長髪はいつも綺麗で、年齢を重ねてもハリを失うことはなかった。
僕はいつ起きるか分からない博樹を横目に、備え付けられた机で手紙を書くことにした。
別れてしまった、元妻に宛てて。
僕は生まれてから一度も女性を好きだと思ったことはなかったが、自分の両親や兄弟にそのことを告げることはできなかった。彼らは異性と恋愛して結婚することは当たり前という思考だったし、幼い頃は自分の考えがおかしいのだと思っていた。僕はそれまで、隣の席でいつも勉強を教えてあげていた男の子や、同じ図書委員の男の子ばかりを好きになっていた。
でも、友人同士で好きな人の話題になると決まって全員が女の子の名前を挙げるので、僕はいつも「誰も好きな人はいない」とごまかしていた。子供心に、本当のことを話したら疎外されるような気がしたのだ。
だが、小学4年生の頃、僕が女性に嫌悪感を抱く決定的な出来事が起きた。女性に、襲われたのだ。
そのことを知っているのは、世界中で博樹と元妻だけだ。
元妻は馨子という名前で、その名の通り優雅で気品に満ちた人だった。
正直言って、女性と結婚することは両親を安心させるためだったので、まったく愛情を感じていない馨子さんと結婚をすることは申し訳なさがあった。しかし彼女は、僕が性的接触のみならず、キスや手を繋ぐ行為さえ拒んでいたにもかかわらず、何も深く尋ねようとしなかった。
彼女とは同じ大学で知り合った同級生だったが、他の男子学生と違って決して性的な話題を出さず、冗談も言わない僕のどこが良いのか本当に不思議だった。
僕の結婚話がまとまった頃、博樹も両親を気遣ってお見合いで知り合った女性と結婚することになった。
しかし、お互いに関係を持ちながらの仮面的な結婚生活のため、一定の期間が過ぎたらいずれは離婚することは初めから視野に入れていた。
それでも馨子さんを裏切っているという罪悪感が常にあり、僕は博樹と時間を見つけては会うことで気を紛らわせていた。たまたま彼と居酒屋で飲んでいる時に、馨子さんも女友達と来店して声をかけられたことがある。
仕方なく博樹を親友として紹介すると、彼女は穏やかな笑顔で「秋斗さんと結婚する、馨子といいます」と挨拶した。本当なら、博樹と僕が結婚すると彼女に言いたいくらいだったのに。
結婚後、彼女との間に息子を授かった。女性との性的接触は避けられるものなら避けたかったが、これに関しては割り切るしかなかったのだ。
いざ息子が生まれてみると、自分と彼女の半々に似ている部分があり、とても愛おしく思えた。僕と彼女の名前を合わせて「馨斗」と名付け、大切に育てた。
子育ては想像を絶する大変さだったものの、それ以上に子供の成長や、あどけない仕草を見ることで日々の疲れは癒された。馨斗が小学校に上がったばかりの頃、帰りにクラスの友人と捨て猫を2匹見つけ、それぞれ家に連れて帰ってこっそり部屋で飼っていたことがあった。
もちろん、鳴き声や馨斗の不審な動きですぐにバレたが、僕は少々複雑な気持ちになっていた。というのも、自分も幼い頃に捨て猫を飼いたいと親に頼み込んだが、絶対に許してはもらえなかったことを思い出したからだ。
さらに、一緒に猫を拾った友人の親が激怒し、我が家に相談の電話をかけてきたことで馨斗は猫を抱きしめたまま泣き出してしまった。
白と黒の毛が混ざり合ったマーブル模様の子猫はとても可愛かったが、僕は彼女が電話を切るまでの間、泣いている馨斗の頭を撫でていた。
「馨斗、どうしてすぐにお父さんかお母さんに言わないの」
「…ごめんなさい」
「まったくもう。…お父さん、飼ってあげてもいい?」
「え?」
突然の許しに、馨斗の涙がピタリと止まった。僕も驚いたが、「うん。構わないよ」と告げた。
「いいの?この子を飼ってもいいの?」
「ひとりぼっちの猫を、今さらもう一度捨てることなんてできないでしょ。お友達の家にいる猫も、お母さんが飼ってくれる人を探すから、待ってなさい」
その言葉に馨斗は喜んで飛び上がり、子猫を抱きしめた。馨斗と子猫が寝たあと、僕はなぜ飼うことを許したのかと彼女に訊ねた。
「だって、こんな小さな猫が自然の中で生きていくなんて大変じゃない。秋斗さんに反対されたらどうしようかと思ったけど、賛成してくれてよかった。ありがとね」
そう言って彼女は微笑むと、ココアの入ったマグカップを僕に差し出した。結婚祝いに、彼女の友人からいただいたものだった。
「馨子さんは、優しいな」
「そんなことないよ。ただ、子猫を放っておけなかっただけ」
その言葉を聞いて、僕は大学時代に同じゼミの女の子が彼女のことを話していたことを思い出す。
「馨子って、本当に優しいんだよね。困ってる人は放っておけないし、面倒見は良いし。…でもこっちが何か悩んでても、絶対無理には聞いてこないんだよね。何も言わないで、ずっとそばにいてくれるの」
その時はまだ彼女と交際をする前で、彼女のことは顔と名前くらいしか知らない時期だった。
僕は女の子の言葉に、「そうなんだ」とか「良い子だね」とかごくありふれた相槌しか打たなかったけれど、今になってその重みを理解できたような気がした。
馨子さんは馨斗に対しても、決して自分の気持ちを押し付けず、一人の人間として接していた。
彼が友人関係で悩んでいる時もずっと話を聞き、仲間の一人に母子家庭の子がいて、貧困で食事も満足に摂れていないと聞いた時は、親戚がどっさり送ってきた野菜をお裾分けだと言ってほとんど分け与えたこともある。
馨斗とテレビゲームをして遊んでいた友人の一人が、
「お前のお母さんは本当にいい人だよな。俺の母ちゃんなんて、こっちの言い分も聞かないで怒鳴ってばっかりだぜ」
と愚痴をこぼしている姿を見たのも一度や二度ではなかった。
馨斗が中学生になった頃、夕食時に唐突にこんな話をしてきたことがある。
「3年生の担任をしていた男の先生が、次の異動の時期で教師を辞めて、海外で男の人と結婚するんだって」
僕の心臓が凍りついた。つとめて動揺を悟られないように、冷たいお茶を口に含んだ。
僕は彼女の反応が気になって仕方なかったが、彼女は少し驚きの声をあげたあと
「やっと好きな人と一緒になれるんだね。その先生、よかったね」
と言って、おかずのハンバーグに箸をつけた。
「だよな。キモいとか言っている奴もいたけど、外国人の先生が『海外では普通のことだよ』って言ってた。『誰が誰を好きでもいいんだよ』って」
誰が、誰を好きでもいい。
それなら、僕もいつかは博樹と一緒に手を繋いで歩いても、許されるのだろうか。
こそこそせず、日中でも街中でも、変な目で見られることはなくなるのだろうか。
「母さんさ、もし俺が男の恋人を連れてきたらどうする?『この人と結婚します!』って言ってさ」
「そりゃ、『分かりました』って言うでしょ」
「えー!やっぱ、反対しないんだ」
「好きな人と一緒にいるのが一番だからね。息子が選んだ人なら、間違いないでしょ」
彼女と馨斗は楽しそうに談笑を続けたが、僕は涙を堪えるのに必死だった。
こんな形じゃなく、馨子さんと出会えたらよかったのに。
僕は博樹が好きなんだと彼女に伝えて、「そうなんだ。頑張ってね」と応援してほしかった。
もしも僕たちが付き合う前に友達になれていたら、「馨子は何も言わないで、ずっとそばにいてくれる」という言葉を、先に聞いていたら。
僕は彼女と恋愛関係になることも、結婚することも、絶対になかったと言い切れる。
彼女が男だったら、僕は間違いなく好きになっていただろう。
でもそれでは、馨斗が生まれることはなかった。
そう思うと、何が正しくて何が間違っているかなんて、本当に分からなくなる。
ただ、この先40年も50年も夫婦生活を続けることは断じて無理だった。
そして僕は馨斗が結婚したあと、博樹と海外で起業すると言って彼女に離婚してほしいと告げた。
彼女は泣くことも怒ることもせず、承諾してくれた。
離婚までの間、僕は海外移住の手続きや起業の準備で慌ただしく過ごしていたが、内心ではこれからの生活を考えて浮足あっていた。
さらに言えば、自分を愛してくれない男とはさっさと別れて、彼女には新しい恋を見つけてほしいとの身勝手な願いもあった。
事実、馨子さんは実年齢よりもかなり若く見えており、子育てが一段落してからはアンチエイジングや服装、髪型にもかなり気を配っている様子だった。僕は美容のことなどまったく分からなかったが、みっともなく見えないように白髪染めだけは小まめに行い、清潔感があるように見せるため身だしなみにも気をつけていた。
離婚届を提出する日、彼女は少し虚ろな目をしていたが、「ねぇ、聞いてもいい?」と小さな声で僕に訊ねた。
「…何かな?」
「冴島さんの家族は、どうなるの?」
博樹の名字を出されたことで僕はしばし沈黙したが、彼女の目をしっかりと見ながら
「向こうも離婚するよ。僕と冴島は、夢が同じだったからね。それにあいつの家は、前から不仲だったらしいし」
と言った。
彼女は納得したように頷いて、玄関先まで僕を見送ってくれた。
最後に握手しようと言われたが、僕は拒んだ。
これまでの生活を思えば、握ってあげるべきなのだ。彼女はともに苦楽を乗り越えてきた存在であり、馨斗という宝物を生んでくれた偉大な人なのだから。
でも、できなかった。恋愛感情を抱いていない異性の手に触れるということは、無駄に期待させてしまう可能性があるから。
彼女に宛てて書いた手紙にはこれまでの感謝を多く綴ろうと思っていたのに、気づけば懺悔の気持ちばかりとなっていた。
でも、仕方がない。裏切ってしまったのは、本当なのだから。
離婚してから、一度だけ街中で彼女との共通の知人に会ったことがある。その人は馨子さんの仲の良い友人の一人だったので攻められるかとも思ったが、案に相違して「これから頑張ってね」とだけ言われた。
「でもね、これだけは分かって」
「何?」
「馨子があんなに美容に気を遣っていたのは、秋斗くんに綺麗だって思われたかったからだよ」
それじゃ、と手を振って、その姿は雑踏に飲まれる。
自分が愛している人の心が得られず、それでも失いたくないあまりに彼女は懸命だったのだ。
そんなことにも、僕は気がつかなかった。
自分を守るのに、必死すぎて。
あの時、「ねぇ、聞いてもいい?」と言った彼女は、本当はこう訊ねたかったのではないか。
「もしも私が男だったら、愛してくれた?」
と。
博樹が気だるい声をあげてベッドから起きたので、僕は慌てて便箋を片付けてバッグにしまった。
「やっと起きた?」
「ああ、寝すぎた。何か飲むものはあるかな?」
「ミニバーにスパークリングワインがあるよ」
博樹は昼間であるにも関わらず、グラスにワインを注いで飲み干す。立派な喉仏が上下するのは、とても美しかった。
「秋斗、何だよ?」
僕は彼の首筋にそっと口付けると、彼はくすぐったそうに微笑んで口元を拭った。
きっと彼女は、僕の心を全て見抜いていたのかもしれない。
でも優しい人だから、何も言わずにいてくれたのだ。
「誰が、誰を好きでもいい」
僕はその言葉を思い出すと、菫色になりかけた空を見て、博樹の手を握った。