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私は今日、結婚してから一度も喧嘩をしたことがない夫と離婚する

 

 私は今日、結婚してから一度も喧嘩したことがない夫と離婚する。


 しとしとと心地よく降る雨が、庭の紫陽花を優しく濡らす。水色の花びらはとても鮮やかで、何の悲しみも知らずに育ったお姫様のように可愛らしい。夫が、一番好きな花だ。


「じゃあ、これは僕が市役所に出しておくから」

 秋斗さんはそう言って、印鑑を押したばかりの離婚届を手にした。

「よろしくね。…今まで、ありがとう」


 私は絞り出すようにして、彼に感謝の言葉を告げる。今言っておかなければ、もう二度と言えなくなるような気がしたから。


「僕の方こそ。馨斗(けいと)も本当に立派に育ったし、優しい人と結婚できた。それは、君が本当に良い母親だったからだと思うよ」

「そんなことない。秋斗さんこそ、良い父親だった」


 一人息子の馨斗は、数ヶ月前に結婚したばかりだ。顔立ちや背格好が秋斗さんに似ていて、周りの人に気を遣うところや、口角を上げて笑う姿が瓜二つだと思っていた。

 できれば兄弟を作ってあげたかったけれど、それは叶わないまま時が過ぎた。時々、考える。もっと執拗にお願いすれば、もう一人くらい子供ができたのではないかと。

 経済的に余裕がなかったわけではない。恐らく不妊だったわけでもない。ただ、秋斗さんが私に触れなかったから、確かめる術はなかったけれど。


 私と秋斗さんは、同じ大学で知り合った。

 皆がバイトと合コンに明け暮れ、毎日がお祭り騒ぎのような状態だった学部の中で、唯一「物静か」という表現が当てはまるような人だった。

 彼は時間があるといつも文庫本を読んでいて、その中の一冊がたまたま読んだことのあるものだったので、何気なく話を振ってみたのだ。


「その本、私も読んだことがある。面白いよね」


 さりげなく話しかけたつもりだったのに、彼は曲がり角から動物が飛び出してきた時のように驚いた顔をした。

 そんなに驚かせてしまったかと思い、私が思わず「ごめん、急に」と謝ると、彼は首を振って、

「あなたも、この本が好きなのですか?」

 と心から嬉しそうに微笑んだ。その瞬間、自分でも信じられないほど心を掴まれてしまったのだ。


 それから、私たちは言葉を交わす回数が増え、一緒に昼食を食べるようになった。

 話題は決まって本のことだったけれど、互いに読書家だったことから、おすすめの本をいつも紹介しあっていた。

 秋斗さんは自分自身の話を進んでするようなタイプではなかったけれど、本のことになると瞬く間に饒舌となった。それも決して押し付けるような言い方ではなく、その本を読んだことでいかに自分の心に温かいものが残り、幸福な気持ちになれたかということを滔々と語った。


 同級生たちの間では、私たちがオープンに交際をしているように見えていたらしい。私は何人もの女の子に「彼と付き合っているんでしょう?」と訊ねられたが、その度に首を横に振った。

 私は彼と休日に待ち合わせてデートをしたこともなければ、お茶に誘われたこともない。会うのはいつも学校の中だけで、彼は決して客人に見せるような笑顔を崩そうとしなかった。


 それでも、会話を重ねる中に私の恋心は否定できないものになっていて、ある時思い切って告白した。

 秋斗さんはひどく面食らったような表情を見せてから、「僕は、つまらない人間だから」と言葉を濁した。

 そんなやりとりを数ヶ月にわたって幾度も繰り返した後、とうとう彼の方から「もしよければ、結婚を前提にお付き合いをしようか」と切り出してくれたのだ。


 私は初めての交際相手に有頂天になったが、彼は冷静さを失わずにいた。恋愛経験が豊富なのかと思っていたけれど、彼は困ったように微笑みながら否定した。


 大学4年になって私も秋斗さんも無事に就職が決まり、両親への挨拶も済ませた頃だ。

 友人たちと遊んだ帰りに立ち寄った居酒屋で、秋斗さんと見知らぬ男性が談笑しているのをたまたま見つけたことがある。


 私は友人に「少し待っててほしい」と告げ、秋斗さんの肩をそっと叩いた。振り返った彼はすでに酔いが回っているのか赤い顔をしていたけれど、すぐにいつもの笑顔を見せて「今、親友と飲んでいたんだ」と目の前にいる男性を紹介してくれた。

 私は彼の友達についてもほとんど知らず、一人でいることが好きなのだと思い込んでいたので、内心驚きつつも挨拶をした。


 秋斗さんの親友は中学時代からの仲で、他大学に通っていると教えられた。

 とても背が高く筋肉質で、何か外で行うスポーツに励んでいるのか肌は健康的に日に焼けていた。


「初めまして。秋斗の親友の冴島です。いつも秋斗がお世話になっています」


 丁寧に頭を下げられ、私も慌てて会釈した。

 話の流れで、秋斗さんが「ゆくゆくはこの子と結婚するんだ」と告げた時、冴島さんは目を細めて頷いた。


「おめでとう。馨子さんが一緒になってくれたら、秋斗も安心して暮らせるな」

「いえ、私の方が秋斗さんに頼りっぱなしなので…」

 私が謙遜すると、冴島さんはジョッキに残ったビールを飲み干して微笑んだ。そして、

「秋斗が結婚、ねぇ」

 と、感慨深げに呟いた。


 苦楽を共にした友人が、伴侶を得て人生を歩む。それはとても喜ばしいことだけれど、ほんの少しだけ寂しさが伴うものなのかもしれない。私は姉の幼馴染が18歳で妊娠し、突然結婚して県外に引っ越した時のことを思い出した。姉はお祝いの品を送ったり悩み相談に乗ったりと忙しそうにしていたが、彼女が地元を去ったあとは、しばらく誰とも遊ぼうとしなかった。そして一言、「死んだわけでもないのに、喪失感ってあるんだね」とぽつりと私に言ったのだ。


「冴島さんも、私たちが結婚したらぜひ遊びにいらしてください」

 私が場の空気を和ませようと提案すると、彼は「ありがとう」と笑顔を見せた。

 後日、秋斗さんと二人で食事した帰りに、何となく言葉を交わさずに夜道を歩いた。時々横を通る車のヘッドライトが、眩しすぎるくらいだ。


 あまりにも無言が続いたので、

「この前紹介してくれた冴島さんは、秋斗さんが結婚するっていうことが、随分意外そうだったね」

 と話すと、彼は一瞬歩みを止めてから、小さな声で

「僕は昔、女性といろいろあったから」

 と、言いづらそうに口にした。


 彼は私が聞きたそうにしていることを察してか、「気分の悪い話なんだけれど」と前置きして、自分の過去について口を開いた。

「僕が小学生の頃、地元では精神状態が少し不安定だと噂されている女性がいたんだ。あれは、小学4年生の時だったんだけど、当時僕は学習塾に通っていて、出された課題が終わらなくて帰りが他の子より遅くなってしまったんだ。

 …その時は秋も深まっていたから日が暮れるのが早くて、辺りは真っ暗だった。僕は近道をしようと公園を通ったんだけど、そこにコンクリートでできたトンネル型の遊具があって、その前に例の女性が立っていたんだ。茶色のトレンチコートを羽織って、素足のまま。」


「目を合わせなければ大丈夫だろうと思って足早に通り過ぎようとした時、その女性に腕を掴まれたんだ。そのまま僕はトンネルの中に引きずり込まれて、もう恐怖心で言葉も出なかったよ。そして驚いたことに、彼女はコートの下に何も着ていなかったんだ。暗くてよく見えなかったけれど、彼女は大声で自分の身体に触るよう何度も強要した。」


「僕はパニック状態だったから一刻も早く逃げたかったんだけど、彼女が僕の手を強く掴んでいて、無理やり自分の身体に触れさせたんだ。その瞬間、僕は渾身の力を振り絞って彼女を突き飛ばした。彼女が低く呻くような声を出したから、きっとコンクリートの壁に頭を打ったのかもしれない。でも、構っている余裕はなかった。」


「泣きながら走って帰宅した僕に、両親はとても驚いていたよ。当たり前だよね。何度も何があったのか

 と聞かれたけど、答えることはできなかった。

 その女性はその後も奇行を重ねて、僕と同じ被害に遭った子が大声で助けを呼んだことから捕まって、然るべきところに入院することになった。」


「 でも、それを聞いても僕は安心できなかった。もう全ての女性が恐怖の対象でしかなかった。

 中学は家から離れた私立を受験して、勉強に専念しようと思った。でも、たまたま地元が一緒の同級生が昔の話として、その女性の噂をクラスメイトたちに面白おかしく話していたんだ。『襲われた子の中にはそれで初体験を済ませた男児もいる』とか『女から誘ってきたんだから、暴行したって罪にはならない』とか、耳を塞ぎたくなるようなことばかり。

 僕はすっかり意気消沈して、学校を辞めたくなっていた。そんな時、同級生たちを窘めて、僕に話しかけてくれたのが冴島だったんだ。」


「『被害者の気持ちも考えろ。それに、女性だって辛いことがあって精神を病んでしまったんだから、笑い者にしたらいけない』と。

 僕は目から鱗が落ちる思いだった。こんなに優しい人がいるのかって。」


 「冴島はクラスで浮いていた僕のことを気にかけて、何かと話しかけてくれるようになった。そこから僕も話せるようになって、いつしかお互いが親友だと思えるまでになった。

 冴島には、本当に感謝している。大学は離れ離れになってしまったけれど、僕にとってはかけがえのない大切な友人だよ」


 そこまで一気に話し終えると、秋斗さんは近くの自動販売機で缶のお茶を二本買い、一本を私に差し出した。

 私はお礼を言って缶のプルトップを開ける。パカッと、小気味良い音が響いた。

「私、秋斗さんのことを、何も知らなかったね。ずっと一人で抱え込んで、辛かったよね」

 やっとの思いでそれだけ口にすると、急に涙がこみ上げてきた。私は涙声が彼に悟られないよう、勢いよくお茶を飲む。

「冴島は、僕の過去も知っているんだ。高校に上がる前、勇気を出して話してみたんだよ。そうしたら、『今まで誰にも言えなくて辛かったな』って、言ってくれたんだ。正直言って、馨子さんにも引かれると思っていたから、そんな風に言ってもらえてびっくりした」

「引いたりしない。私は、あなたが好きだから」

「…ありがとう」

 夜空を見上げると、そこにはとても大きな満月が浮かんでいた。まるで、秋斗さんの心の傷を癒すように、優しい光で。


 秋斗さんの過去を知った上で、私たちは大学卒業後に入籍した。でも、彼は驚くほどに私に触れようとはしなかった。

 性的なことはともかく、キスや抱擁、手を繋ぐことさえ、私たちは未経験だったのだ。

 それでも互いの両親は孫を望み、私も彼との子供が欲しかった。幾度となくオブラートに包みながらお願いを重ねると、ある夜、彼は意を決したように私を抱いた。


 それは諦めと致し方なさに溢れた抱き方で、彼は行為の最中、何度も歯を食いしばるような声を出していた。私は彼の背中にしがみつきながら、頭の中には例の女性が浮かんでは消えた。

 ほどなくして妊娠が分かると、秋斗さんは私を気遣い、家事を積極的にこなしてくれた。馨斗が生まれてからは激しい夜泣きにも文句を言わずにあやし続け、時間のある限り私にゆっくり眠るようにと言ってくれた。


 子供のいる友人知人と会話すると、多かれ少なかれ夫の悪口はつきものとなる。特に夫が育児に協力的でないという不満は誰もが口にしていて、私だけがいつも「そんなに冷たい夫がいるのか」と驚いてばかりいた。

 私が育児に悩んで泣けば、彼は一晩中でも話を聞いてくれた。でも、決して私の背中を撫でたり、抱きしめてはくれなかったけれど。


 馨斗が成長してから、秋斗さんは出張で度々県外へ行くことが増えた。いつも馨斗や私が喜ぶお土産をどっさり買ってきては、「いいところだったから、今度は家族旅行で行こう」と提案し、長期休暇のたびに旅行に連れて行ってくれた。

 その間に冴島さんも結婚したが、数ヶ月に一度は二人で飲みに行き、日付が変わる前に帰宅していた。

 私は秋斗さんが求めてくれないこと以外、結婚生活に何の不満もなかった。


 そして時が過ぎ、馨斗も職場で素敵な女性と知り合って結婚することになった。私も夫も大喜びで歓迎し、結婚式では涙が止まらなかった。

 息子夫婦が新婚旅行に旅立った頃、仕事が忙しかった夫が珍しく寝坊し、身支度もそこそこに会社へと向かって行った朝。掃除しようと掃除機を持って訪れた私は、彼の部屋にあった金庫の扉が少しだけ開いていたことに気づいた。何が入っているのか聞いたこともなかったが、普段から仕事に関する重要書類が多かったため、閉め忘れたのだろうと思った。

 その日の夜、帰宅した夫は疲れ切った表情を浮かべて「話がある」と言い、私は離婚を言い渡された。

 25年の結婚生活に、終わりが近づいていた。


 夫がだいぶ前から、冴島さんと海外で起業しようと話し合っていたらしい。それは夫の長年の夢でもあり、今しかチャンスはなく、一から人生をスタートしたいとのことだった。


 周りには、私に内緒で勝手に起業する計画を立てて、海外への移住を強要したと話していいと付け足して。

「本当なら、もっと早く馨子さんに言うべきだったんだと思う。50代にさしかかろうという時にこんなことを言われて迷惑だと思うけど、慰謝料も多く払うし、この家も渡す。…僕にはやっぱり、向いてなかったんだと思う。女性と、一緒にいるということが」


 そんなことを真面目な顔で言われ、私はどうしていいのか分からなくなってしまった。スカートの裾を強く握り、

「ちょうどよかった。私も、そろそろかなって、思っていたから」

 と、心にもないことだけを口にした。

 結婚してから一度も喧嘩をしたことがなかった私たちの離婚に、周囲は驚きを隠せない様子だった。馨斗からも強く説得されたものの、夫は「父さんは、自分の夢のために生きたいんだ」と言い切り、しぶしぶ納得させた。


 離婚届に判を押す日は、雨が降っていた。保証人の欄にはすでに署名がされていて、あとは私たちがそれぞれサインをして役所に提出すれば、完全に赤の他人となる。


「ねぇ、聞いてもいい?」


 達筆な彼の文字を眺めながら話しかけると、「何かな?」といつも通りの穏やかな声が返ってくる。

「冴島さんの家族は、どうなるの?」

「…向こうも、離婚するよ。僕と冴島は、夢が同じだったからね」

 夢が、同じ。

「そっか」


 私は相槌を打ち、夫の私物が減った部屋を眺めた。

 彼は離婚届を書き終えると、素早く荷物をまとめて立ち上がる。私は玄関まで見送りながら、そっと右手を差し出した。


「どうしたの?」

「最後に、握手でもしようかと思って」

 彼は大きく目を見開いたあと、「一生会えなくなるわけじゃないから」と言って、やんわりと私を拒否した。

「じゃあ、行くね」

「うん」

 静かに、扉が閉まる。

 雨の音と同じくらい、耳に馴染む静かな音だった。


 しばらくして、家に秋斗さんからの手紙が届いた。

 別れたばかりなのに、むせ返るほど懐かしい筆跡を目にした瞬間、危うく涙腺が崩壊しかかった。


 手紙には、こう綴られていた。

『馨子さんへ

 長い時間を過ごしてきたのに、こんな形で裏切ってしまったことを本当に申し訳なく思う。

 でも、僕は君と出会い、馨斗が生まれたことを心から嬉しく感じているよ。

 馨子さんは僕が出会った女性の中で誰よりも優しく、良い母親だった。僕は人として、君を尊敬しているんだ。

 しばらくは海外で過ごすけれど、何かあればいつでも連絡してほしい。馨斗に子供が生まれたら、一緒に会いにいこう。

 重ねてになるけれど、僕はもっと早く、君を解放するべきだった。そうすれば、普通に女性を愛せる人と再婚して、もっと幸せになれたはずだよね。

 全ては、僕の心の弱さが原因だと思う。君に許してもらえたから、ここまで一緒にやってこれたんだ。

 これからは、自由に生きてほしい。離婚はしたけれど、君の幸せを誰よりも願っている。君は一生、僕にとって大切な存在だよ。

 では、身体に気をつけて。

 秋斗』



 私は本当は、知っていたのだ。

 彼の部屋を掃除した時、開いていた金庫の中には私書箱宛の手紙が大量に入っていて、その全てが冴島さんからのものだった。彼と冴島さんは中学生の頃から互いを心のパートナーとしていて、配偶者と別れたあとに、海外で本当のパートナーとなる計画を立てていたのだ。


 ずっと、秋斗さんに「好きだ」と言ってほしかった。一度でいいから、言ってほしかった。

 彼の愛を欲しがって、早々に捨てられることが怖かったのだ。


 私は立ち上がると、秋斗さんが庭に植えた紫陽花に目をやる。もうほとんどが枯れていて、今にも朽ちてしまいそうだった。

 彼はこれから、本当の幸せを掴めるのだろうか。それなら、私はこれから幸せじゃなくてもいい。

 多くのものに傷つけられ、縛られてきた彼が幸せなら、私はもう何も望まない。

 私は涙を拭うと、手紙を丁寧に折りたたんで封筒の中にしまった。

 部屋は、私一人で暮らすには広すぎると今、知った。

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