夜景とシニシスト
夜中に目が覚めた。あたりはしんとしている。
つけっぱなしにしていた暖房のせいで、喉がイガイガする。何杯水を飲んでも治らない。
鳥も鳴かない静かな夜更け、俺は無性にたばこが吸いたくなって、目が覚めた。
ただ呑むだけではだめだ。冷たい風を全身に浴びながら、たばこが吸いたい。
布団をはねのけた。
ジーパンとシャツを着てダウンを羽織り、チェリーとライターだけ持ってアパートを出た。
駅前の方の空は、夜明けを待つときのそれのように、ぼんやりと火照っていた。
アパートの前には、駅へ向かう道と、その道に垂直に交わる道が伸びていて、俺が選んだのは後者の道だ。俺は、廃ビルに行きたかったのだ。
いくらか歩いたところで、街のギラギラしたあかりに追い立てられるように、道を折れた。
ひたつふたつ廃ビルを通り過ぎ、適当なビルの入り口前の階段に腰かけた。
本と本棚の隙間から、この日記帳を見つけた。
コンクリートの冷気がジーパン越しに染みた。
何年か前、確か7歳か8歳の誕生日に、叔父さんにもらったんだっけ。そのときは1ページしか書かなかったみたいだ。
寒さをこらえながらじっとたばこを吸っていたが、あまりうまいとも感じなかった。
それが1ページめにあるのはなんだか格好がつかないので、そのページだけ破いてしまった。
きっと、風がないせいだ。
これが骨身に軋むような寒さではなく、肌をさらっていく冷たさだったなら、うまいたばこが吸えたはずなのだ。
それでも俺がしばらくの間たばこを吸っていたのは、眠くて疲れていたからだ。変なテンションはしぼんでしまい、家に帰るのさえ億劫になっていた。それに、吸い殻をどうするべきか迷っていた。道に捨てるのは気が引けた。主義思想と言うほどのものではないし、どうせ周りはコンクリートだらけだ。それでも、ポイ捨てするのは気が進まなかった。
今は、勉強を中断して部屋の片付けをしていたところを中断してこれを書いている。
俺の目の前の空気は、俺の呼吸に合わせてピントをきつめたり緩めたりしていた。
ふと、そのレンズが左へと流れた。
きちんと日記をつけるのは初めてなので、何を書けばいいのか分からない。とりあえず、私の隣に今、まるのすけがいる。
風が出てきたのだ。
その風に乗って、かすかな喧騒が、声とコンクリートを駆ける音が近づいてきた。
風上に目を向けると、ビルの角から一人の少女が飛び出すのが見えた。
全長約70センチ、15年程前から身長に全く変化の見られないクマのぬいぐるみだ。
年は15、6といったところだろう。場所、時刻ともに、おそろしく不釣り合いな少女だった。
ここには俺しかいなかったのだから、必然的に、そして一瞬だけ、俺と彼女の視線は交錯した。
強く、勝気な眼だった。
目が取れかかっているし、昔はふさふさだったおなかの毛も、今ではすっかり擦り切れている。
そして、その眼の中に強烈な侮蔑の色が浮かぶのを見た。たった一瞬のうちに、あまりに鮮やかにその感情を受け取った。いや、たたきつけられた。
茫然として少女を見送った背に、ついさっきよりも一回り大きくなったざわめきが押し寄せていた。
現れたのは、殺気立って迫る人々だ。服や容姿だけ見れば、どこまでも普通の人々だった。男も女も混じった10人前後の集団で、1人だけ目立ってガタイのいい男がいた。
それらが俺の前を、俺には目もくれず走っていく中、あの大きな男が、ひときわ大きな影を持った男が、たばこの前で立ち止まった。
「高校生くらいのガキが1人、ここを通らなかったか?」
男は善良そうな顔立ちをしていた。どこがどうとは言えないが、善良な顔だった。
そんな男が、顔をゆがめて俺の胸ぐらをつかみ、ゆすっている。
そろそろ休ませてあげるべきかとも思うが、どうすればいいのか分からない。古着のようにボロ雑巾にしてしまうのは、論外だ。
思わず頷いてしまった俺に、男は噛付くように言葉を浴びせた。
「どこに逃げた?」
ひるんだ俺をみて、男はさらに強く揺さぶった。
今年の合唱コンクールの曲は、非常に最悪だ。
腹が立った。
あの男にも、自分の左手にも。
しばらくはただ立っていたが、いつの間にかたばこを落としていたことに気が付き、のろのろと拾った。
すっかり冷え切った吸い殻を指にぶら下げて、ビル街を出るために歩き出した。
メロディや伴奏が気に入らないのではない。歌詞が嫌なのだ。
「この辺で、高校生くらいの少女をみませんでしたか?」
俺が、少女とそれを追いかけていた人々が入っていった路地を教えると、一帯に散っていた警官たちが集まってきて、その道へ向かった。彼らは一様に、額の上に焦りを浮かべていた。
俺は、歩きかけていた道の半ばで、宙ぶらりんのような恰好だった。いまさら何をと思いながらも、警官たちについて行ってみたい気もしたし、早く家に帰って眠りたい気もした。
二つの間で揺れていると、ここに残っていた警官が話しかけてきた。
「人は一人では生きていけない」だって。
「彼女はね、シニシストなんですよ」
彼は、サカイと名乗った。
「シニシスト……ですか?」
「ええ、そうです」
力強く頷きながら、サカイは断言した。
「それで、まあ、いくつか『問題』を起こしてましてね。相手側の親を通じて、自警団にマークされていたみたいです。
ところがですね……」
はいはい、正論ですね。実生活の面では否定のしようもない。けど、もしも精神面について言っているのなら、こんなに人をバカにした言葉はない。
警官は一度そこで言葉を切り、他の警官がそうしたように、あの路地へ向かって歩き始めた。彼は立ち止まったり振り向いたりすることこそしなかったが、明らかに俺がついてくるのを待っていた。
「今日、いや、もう昨日かな? とにかく数時間前に、あの少女の親から連絡が入ったんですよ。『娘が外出したきり、まだ帰ってこない』ってね。それで、この地域一帯の交番を総動員して、彼女を捜索していたんですよ。
販売用の見本の写真が、黒板に貼られていた。うちのクラスが合唱コンクールで優勝したときに撮られたものだ。
確かにまあ、ムッとしていた自覚はあった。
俺たちは、一つの廃ビルの前に立っていた。たくさんの人を飲み込んだ路地の先には、そのビルの入り口しかなかった。
「私はついていけませんが」
そう言って、サカイは胸ポケットからペンライトを一本取り出すと、俺に向かって差し出した。
詩写真の中の私は、顔をくしゃっとゆがめた、不機嫌という言葉よりもっと不機嫌そうな顔を浮かべていた。
サカイはなぜか、どこか照れたような表情を浮かべていた。
自分にもこんな表情ができるものかと、驚いた。
等身大のガラスが何枚も割られていて、そこから中に入ることができた。
中も、ひどい荒れようだった。
ペンライトに照らされて、いくつも倒された観葉植物が見えた。床一面には何かの書類が散らばっていた。
あまりに月が綺麗なものだから、ペンをとった。
普通こういうとき、写真にとるものなんだろうけど、それだとなんだか台無しな気もするので、こっちを選んだ。
階段はすぐに見つかった。
未来の自分のために、少しだけ書き足しておくと、月は隣の空き地(あなたがこれを読んでいるときにそれが残っているかは分からないけど)に浮かんでいたの。すすきの海の上にね、こうぽつんと。まるで一枚の絵みたいに。
うーん、これだけじゃ雰囲気が伝わり切らないな。
屋上へ続く扉の階段の前に、手足を縛られた人々が転がされていた。
三階のフロアから一歩階段に足をかけると、そいつらは強く俺をにらみつけた。
あなたは覚えているかしら?
人をまたぐのは実に嫌な感覚だ。
扉に手をかけると、抵抗のない感触とは裏腹に、大きく軋みを上げて開いた。
あなたの妹が、全国模試で15位を取ってきた日のことを。その日がたまたま彼女の誕生日だったことを。
柵の向こう側に、あの少女が立っていた。それに相対する形で大男が立っている。
周囲では、警官隊と自警団がもみ合いをしていた。
少女の背後には、ビルの隙間から漏れた夜の明かりがあった。
当然、何のプレゼントも用意していなかった私は、自分の部屋に逃げ込んだ。
大男が、柵に近づいた。
どう? 少しは思い出してくれたかしら?
少女は飛び降りた。
救急車のサイレンが少女を運び去った。
警官隊が自警団を捕えて連行していく様子を、邪魔にならないよう屋上の角に立って眺めていた。
警官らがちらちら俺に目をやる。目が合うのは嫌だったので、それに背を向けた。
湿った風を鼻に感じて空を見上げると、月が雲に隠れていた。一雨降るかもしれない。
たばこを取り出して、火をつけた。
何度、空の右腕に目を落としたことだろう。体感的には、ずいぶんと長い時間が経ったように感じる。
何の物音もしなくなったので、誰もいなくなったものと思って振り返ると、サカイが立っていた。
彼は俺の隣まで来ると、「どうです? 一本」と言って、たばこを勧めてきた。
なにか高度なイヤミなのかと思ってまごついていると、「冗談ですよ」と言ってたばこをひっこめた。彼自身は吸わないのか、抜き取った様子は見えなかった。
俺が気付いたことに気が付いたのか、サカイは言い訳がましく言った。
「家内がうるさくてね。禁煙中なんですよ」
「禁煙中なのに持ち歩いてていいんですか?」
「いや、なに、ライターを持たないようにしてるんです。『ライターを持たないならいいだろうと妻に言ったら、あいつ妙な顔をしてましたがね」
「それはそうでしょうね」
「だから、こうやって人にたばこを勧めて、人が吸ってるときの、その、なんて言うんでしたっけ。そうそう、副流煙。そいつを吸うのが、数少ない楽しみの一つなんです」
そう言うと、サカイは胸いっぱいに息を吸い込んだ。つくづく、変な人がいるもんだ。
「それからね、」
ほっと息を吐いて、続けた。
「あの少女、一命をとりとめたみたいですよ」
この日記に書くまでもなく、私はこの五日間の出来事(より正確には、たった一日のこと)を忘れないんじゃないかな。今までの人生でも、五本の指に入るくらいに怖い体験だったから。
修学旅行の行き先は、京都やら奈良やら広島やらの、まあひとくくりにしてしまえば、西日本だった。
中学の時にも行ったから「またか」と思ったけど、別に寺社は嫌いではないし、しいて言うならば自由行動で班の行き先を決めるときに発言権がないわけだから、ようするに退屈だった。それはまあいい。
集合場所は、私がまだ行ったことのない駅だった。その上私はスマホは持たないし、軽度の方向音痴と来ている。当然、迷いかけた。
結果は、学年の中ではかなり遅い方ではあるが、まあ何とか遅刻せずに間に合った。それで、ほっとした。
何でもないことだけど、これが結構重要な意味を持っていたんじゃないかと、今の私には思えるのだ。
私が修学旅行を嫌うのは、一人になれる時間がないからだ。「修学旅行で一番楽しかった思い出は?」と訊かれれば、私は一瞬の迷いもなく「トイレに行ったとき」と答えるだろう。
最終日までは、ごくごく普通に進んだ。そこに訪れた人なら、誰でも体験できるようなことばかりだ。順調に進み過ぎたのだ。
五日目、嵐山での観光を終えてバスに乗ったときに、ふと窓ガラスを見ると、愛想笑いのようなものを浮かべた私が映っていた。
多分これは、一人で生きることを最上の美徳として生きてきた人にしか分からない恐怖だ。
6階の待合室は、ロビーと一体化していた。ソファには、何組かが座っている。
その中に、『伊藤』と書かれた面会者カードを下げた二人組を見つけた。母娘だろう。品の良い身だしなみをした中年の婦人と、中学生くらいの少女だった。
「あの」
ここをのがしたら、自分は声をかけずに帰るはずだ。
今日、近所の橋を歩いているときに考えた。
自分に考える間を与えずに、声をかけた。
ロビーにいた人々は、いっせいに顔を上げた。あの少女の母親と思わしき人婦人もその一人で、俺と目が合って初めて自分が声をかけられたのだと気が付いたようだった。
彼女は「はい」と答えて俺を見た。その顔はひどくやつれていて、全体に翳った印象を受けた。
「伊藤アリスさんのお母さんでいらっしゃいますか?」
瞳がちりぢりに揺れた。
綺麗ごと、または友情の信者が好む『人の温もり』は、何を証明するか? あるいは、冷たさは?
あの少女の母親とは思えないくらい、かわいそうなくらいに弱々しい光を持った目だった。
「はい、そうですが……」
彼女らの表情には、怪訝さと怯えがありありと表れていた。
「俺は、…私は、実は、娘さんが事件に遭ったとき、その場所にいたんです。見ていたんです。それで、その時、何もできなくて……」
「何もできなかった」なんてのは、どこまでも卑怯な言葉だ。蜘蛛の糸は、左手に絡まったままだ。そもそも、罪の意識からここに来たのに、それでも、言えなかった。
「そうですか……」
母親の方は、ほっとしたような、どっと疲れたような、そんな顔をしてうつむいた。
このソファの前にだけ、気づまりな空気が降りた。
場に詰まった空気を押し流すように、もう一人の少女が口を開いた。
「あの…。お姉ちゃんは、その、飛び降りる時、…。どんな表情を、していましたか……?」
何と答えればいいのだろうか。「笑っていた」。それでいいのだろうか。逆光で、あるいは暗くて、よく見えなかった、と言うこともできる。でも、これ以上嘘を重ねることはしたくなかった。
「彼女は、笑っていたよ。大胆不敵に、笑っていた」
少女は、迷うそぶりを見せていた。ゆっくりと噛みしめるように、その意味を消化していた。
彼女は立ち上がると、ついてきて、と言う風に、手を返して見せた。
母親をここに残したままでいいのか、と目で訊いてみたが、返事はなかった。伊藤アリスの母親は、何のアクションも起こさない。
俺は、少女の後を追った。
いくつかの角を曲がった先、廊下の突き当りの暗がりで、少女は立ち止まった。そこには、車いすや松葉づえが置かれていた。
少女は、ポーチから一冊の手記を取り出した。
前者は自分の冷たさ、後者は自分の温もりだ。
「これは、姉の日記です」
私は、冷たさが欲しい。
それをそのまま、こちらに差し出した。
俺が手を伸ばせずにいると、少女は続けてこう言った。
「訳は訊かないでください。私も、どうしてこれをあなたに渡そうとしているのかよく分からないんです。でも、きっとあなたも読むべきだから」
言われるままに、手記に触れた。しかし、少女の方は手を離さなかった。
「あなたは、嘘、ついてますよね?」
手記を持つ手が凍り、それが全身に広がった。
「でもいいです。それは別に、私にはどうでもいいことだから」
少女はゆっくりと手を離した。俺は、手記を落とさないために、もう片方の手で支えなければならなかった。
「たぶん、明日も明後日も、私はこの病院にきます。その時に、返してください」
そう言うと、少女は俺を残して去って行った。
俺は結局、彼女に何も言えなかった。
人差し指だけ離して手記を持つ左手が、強く意識された。
一度アパートに寄ってから、日記だけ持ってあの廃ビルに向かった。
田中から、「駅前に来てくれ」という電話があった。
これを読むには、そこしかないと思った。
家の電話番号まで調べて、全くごくろうなことだ。
空はまだ明るかったが、街頭はすでに熱を帯びていた。廃ビル街に対して平行に伸びる道を通る人間は、買い物帰りの主婦がその多くを占めていた。
いつものように、一笑に付してしまってもいい。
夕日を存分に吸った廃ビル街には、真夜中に見たそれとは違った印象を受けた。暗くて見えなかった場所は、埃っぽい光にさらされて、大昔の遺跡を思わせる風格だった。あのビルとて、例外ではない。
だけど、今日はいかにも寒そうな空だ。行こうと決めた。
ビルの屋上からは、夕日そのものは見えなかった。ただ、夕日に照らされた空が美しかった。
ざらざらと古びた日記帳の肌を指先に感じながら、柵にもたれた。
いつかのように、いやに月の明るい夜だ。
紅の空には、