55:世界は偽物になった
「カバさんが賭けに勝ったのなら仕方がないわ。世界の終わりを受け入れるしかない。でも、もしわたしが賭けに勝ったら――、世界が復元して、一郎がきちんともう一度はじめからやり直したら、カバさんはもう二度と一郎と関わらない。一郎がカバさんと知り合う未来は失われる」
「瞳子……?」
「私はそれをカバさんと賭けたの。だから大丈夫。もう、これで終わりなの。最後なのよ。一郎がこれ以上、手に入らない希望を抱いて世界を彷徨うことはできない。もう繰り返すことはないの」
あっと思った。わたしは初めて気づいた。世界が終わらなかった場合、その後に始まる世界について。
世界が復元して、はじめに瞳子さんを失った過去まで戻っても、カバさんがあり続ける限り、一郎さんには同じ苦しみをループする可能性があるのだ。
カバさんがそそのかすことをやめない限り、一郎さんの地獄は続く。
瞳子さんを失い続ける世界。
考えたこともなかった。
でも。
「――本当に、カバさんは賭けの約束を守ってくれるんですか?」
思わず口に出してしまった。
だって、カバさんは心の機微を持たない高次元の存在。約束を反故にすることに罪悪感もないだろう。浮遊しているピンクのカバのぬいぐるみが、くるりとこちらを向いた。
「お嬢ちゃん。……そうやなぁ。もしワシが賭けに負けて世界が元に戻ったら、一郎に関わっても、もう面白くないやろ。結局、世界は終わらんかったって言う結末を、ワシは知ってるんやからな」
面白くない。それだけが約束を守る理由。
やっぱりカバさんにとって、世界はゲームの盤面でしかない。
でも皮肉なことに、約束を反故にしない理由としては納得ができる。
面白くないことを、カバさんが繰り返すとは思えない。
「大丈夫よ、一郎」
瞳子さんが労わるように繰り返す。彼女はどこまでも一郎さんの未来しか考えていないのだ。
自分の過去を嘆くこともせずに、ただ一郎さんをあるべき道筋へ導くことだけに心を砕いている。
「……違うんだ、瞳子」
一郎さんが瞳子さんから顔を背けて、首を横に振る。
「俺はそんなことを恐れているんじゃない」
「一郎?」
まるで指の隙間をすり抜けていく砂を惜しむような眼差しで、一郎さんが自分の両手を見た。
「――おまえを失いたくない」
手からこぼれ落ちそうな何かをつかむように、見つめていた掌をきつく握りしめる。振り絞るような一郎さんの声が胸に迫った。立ち尽くす一郎さんの前まで、瞳子さんがそっと歩み寄る。
「一郎」
瞳子さんの白い手が、一郎さんが握りしめた両手を包み込む。もう大丈夫だと言いたげに。
一郎さんが顔をあげると、瞳子さんは笑顔を見せた。でも、彼女の目は潤んでいる。
ぐっと胸にこみ上げてくるものがあった。
「ね、もう一度、結婚しようって言ってみて」
一郎さんがハッと目を瞠る。何かを言いかけて、飲み込んだ。
瞳子さんの無邪気な願い。
胸が張り裂けそうになって、わたしはさらに強くジュゼットを引き寄せた。
「今なら良い返事が聞けるかもしれないわよ?」
茶化すような口調で瞳子さんが望む。
競り上がってきた感情が熱をはらんで、溢れ出そうになる。なんとかやり過ごそうと奥歯を噛み締めた。
一郎さんの気持ちは、もう瞳子さんに届いている。
この世界でただ一人、彼が追いかけ続けた女性なのだ。
「だから、結婚しようって、言ってみて」
一郎さんの顔に、悲しみが色濃く滲んだ。瞳子さんの願い。
その先に示された未来。
「……言えない」
一郎さんが耐えられないと言いたげに、顔を背ける。
「言いたくない」
「今まで、あんなに言ってくれたのに」
ふふっと瞳子さんが困ったように笑った。
「わたしはね、今、とても嬉しいのよ。だって、あなたの気持ちを信じられる」
一郎さんが小さく身じろぐ。彼女の導こうとしている筋道は、否応もなく彼を追い詰める。瞳子さんの微笑みを見ながら、端正な顔が悲しげに歪んだ。
哀しみが静かに伝染していく。
瞳子さんの黒目がちの眼から、つっと頰を流れる透明な光。一郎さんがすくうように彼女の涙に触れた。笑みを形どったままの瞳子さんの眼から、幾筋も涙が零れ落ちる。
「っ、瞳子」
微笑みながら泣く瞳子さんの頭を抱えるようにして、一郎さんが彼女を抱きしめた。
少しくぐもっても、なお澄んだ声が打ち明ける。
「一郎の想いを、ずっと本心だと思えないでいた。私はあなたにとって妹みたいな存在でしかないのにって、いつも思っていたから」
「それでいい。……おまえがここにいるなら、気持ちが通じなくてもかまわない」
「うん、でも、もう駄目みたい。私は手に入れてしまったから。この世界は偽物になったのよ」
「偽物?」
「そう、偽物。だって、もし本物なら、私が今一郎の気持ちを信じられるはずがなかった」
瞳子さんの白い手が、一郎さんの背中に伸びる。ぎゅうっとしがみ付くように力がこもった。
じわりと世界が潤み出す。
ツンと鼻の奥が痛んだ。
「あなたが大好きよ、一郎」
一郎さんの顔は見えない。でも瞳子さんを抱きしめる肩が小さく震えている。
「……大好き」
わたしの中にも熱いものがこみ上げてきて、これ以上は抱えきれない。
あっと言う間に世界が滲む。
何も見えなくなる。
瞳子さんの声だけが聞こえた。
「私は、あなたに幸せになってほしい。一郎に生きてほしいの。――わかって」
ひたむきな想いが、一郎さんを抱きしめる。
「瞳子」と呼びかけた一郎さんのかすれた声が、誰のものかわからない嗚咽に重なった。




