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次元境界管理人 〜いつか夢の果てで会いましょう〜  作者: 長月京子
第十二章:カバさんの嘔吐

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54:もう終わりにしたい

「11D……」


 一郎さんの声に苛立ちが滲んでいる。


「いったい、どれだけ人を(あざむ)けば気がすむつもりだ」


 カバさんがふよふよと辺りを漂い、瞳子さんの近くで動きを止める。


「ワシは面白そうなことにしか興味がないねん」


 ガハハと耳障りな笑い声が響く。


「おまえ……」


 唸るような憎しみのこもった一郎さんの声にも、カバさんは全くひるむ気配がない。


「ワシはこのお姉ちゃんと賭けをしたんや」


「なんだと?」


 カバさんと瞳子さんが賭け? 昨夜のうちに瞳子さんはカバさんにも事情を聞いたのだろうか。

 じっとカバさんを睨んでいた一郎さんが、ゆっくりと瞳子さんに視線を向けた。


「本当よ、一郎」


 迷いのない瞳子さんの様子に、一郎さんが戸惑っている。

 わたしも次郎君もジュゼットも、じっと固唾を飲んで見守ってしまう。

 瞳子さんは、全てを知っているのだろうか。


「――おまえ、そいつの言ったことを信じているのか?」


 わたし達の危惧していることを裏付けるように、瞳子さんは頷く。まっすぐに一郎さんを見ていた。


「もうごまかさないで、一郎。私は全てわかっているの」


 昨夜わたしがこらえきれずにジュゼットと泣いてしまったのが発端だ。自分のせいだと思うと、胸が苦しくなる。一郎さんがもっとも避けたかった道筋へ導いてしまった。


「一郎のしてきたことも自分のことも、ぜんぶ知ってる」


 自分の悲劇に嘆くことも取り乱すこともなく、瞳子さんの声はしなやかだった。

 事情を知って、どうしてそんなに毅然としていられるのだろう。


「わたしがどうするべきか。答えはもう出ているの」


「答え?」


「そう。……何も迷わなかったわ」


 瞳子さんは微笑む。戸惑いも不安もない、いつもの笑顔。彼女は浮遊しているぬいぐるみに目を向けた。


「だから、ぜんぶを知った上でカバさんと賭けをしたの」


「賭けって……」


 一郎さんの戸惑いが、わたしと次郎君にもわかる。

 瞳子さんはいつもと変わらない様子で、まるで他愛ないことを話すような調子だ。


「カバさんは、一郎が世界を終わらせることを望んでいる。でも、私は一郎がこれからの未来を選ぶことを信じているわ」


 一郎さんが瞳子さんの真意を推し量るように目を(すが)めた。


「一郎は世界の終わりを望んだりしない」


 瞳子さんのはっきりとした答え。逸らされない視線に、強い気持ちがこもっているのを感じる。わたしにも全てを受け止めた瞳子さんの覚悟が伝わってきた。一郎さんに伝わらないはずがない。


 眉間に皺を寄せて、一郎さんは瞳子さんの視線から逃げるように顔を伏せる。やりきれないと言いたげに、癖のある髪をくしゃりと手でつかんだ。


 瞳子さんの気持ちを感じて、もうごまかせないと思ったのだろう。一郎さんが諦めにも似た自嘲的な笑みを浮かべる。

 とても哀しい微笑みだった。


「俺は、――もう終わりにしたい」


 苦悩に満ちた声。

 瞳子さんから目をそらしたまま、一郎さんが初めて偽りのない自分の思いを口にした。

 次郎君が苦しげに一郎さんの横顔を眺めている。


 誰にも何もいえない。

 瞳子さんを失い続ける世界。


 昨夜、次郎君が教えてくれた。七年前の鉄骨の落下事故以外にも、繰り返してきた数々の最悪な結末。

 そして、藁をもすがる思いでつかんだ最後の希望は、最悪の絶望だった。


 瞳子さんの死を欠いた世界は、崩壊して終わりを待つだけ。

 望んだ未来は、決して手に入らない。


「ほらな、お姉ちゃん。イチローは終わりを求めてるねん」


 勝ち誇ったようにカバさんの声が高揚している。恐れと嫌悪がわたしの中に渦巻いた。


「なんべんもなんべんも繰り返して、疲れてもうたんや。もう楽にしたり」


「――兄貴は、おまえのゲームの駒じゃない!」


 我慢ならないという激しさで、次郎君がバンっと食卓を叩いた。カバさんを責める気持ちは、わたしも同じだ。

 カバさんはひどい。あまりにも理不尽で残酷だ。


「おまえのせいで、兄貴がどれだけ苦しんできたか! おまえのしたことは最低だ!」


「そうや、最低や。だから何やねん?」


「おまえ!」


「ええやんか、別に。世界がなくなったら、はじめから何もなかったことと同じやろ」


 世界の終わりが瑣末なことのように、カバさんの態度には深刻さがない。わたし達との温度差に、苛立ちを通り越して眩暈を感じた。


 カバさんとわたし達は、決定的に違うのだ。同じように言葉をかわせても本質が違う。だから、彼には次郎君の怒りがまるで伝わらない。一郎さんの苦しみも、わたし達の悲しみも。


 絶望するわたしたちの気持ちが、全く伝わらない。

 高次元の存在。今さらになって改めて思い知る。底知れない恐れを感じた。

 一郎さんがうつむいたまま呟く。


「俺は、瞳子を失う世界を見たくない」


 声には諦めがあった。


「……もう、たくさんだ。世界が終わるその時まで、瞳子がそばにいればそれで良い」


 彼の抱える奈落に巻き込まれる。一郎さんの底の知れない絶望に触れた気がした。

 一郎さんが頑なに心に秘めてきた願い。

 もう希望を求めることに疲れてしまったのだ。


 次郎君がぐっと唇を噛んで黙り込んでしまう。ジュゼットがしゃくりあげるようにして泣き続けていた。わたしもたまらない気持ちになって、ジュゼットの小さな肩を抱きよせる。

 瞳子さんが、次郎君の目の前で浮遊しているカバさんの尻尾に指をかけて、そっと引っ張った。


「カバさん、賭けはまだ終わりじゃないわ。残念ながら、一郎はそんなに弱い人じゃないのよ」


 絶望を繰りかえして希望を失った一郎さん。

 際限のない繰り返しで思い知った。希望は否定され続ける。世界は瞳子さんとの未来を認めない。だから、最後の時まで一緒にいることを願っている。


(もしも明日世界が終わるなら、好きな人と一緒にいたい)


 わたしには一郎さんに間違えているという資格がない。勇気もない。

 でも、瞳子さんは信じている。決して、一郎さんが間違えないこと。

 これからも、世界が続いていくこと。

 自分がいなくなっても、一郎さんの未来が続いていくことを。


「ね、一郎」


 呼びかけに答えるように、ゆっくりと顔をあげて一郎さんが瞳子さんを見た。

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