53:潮時は突然やってくる
身支度を整えてからリビングに向かうと、瞳子さんがお弁当を作っていた。
食卓の上がいっぱいになるほど、オカズに溢れている。
卵焼きに唐揚げ、ウインナー。ポテトサラダ。肉巻きベーコン、ブロッコリー。一口ハンバーグ。筑前煮。瞳子さんは生き生きとした様子で、三段の重箱にオカズを詰めている。
「おはよう、あやめちゃん。今日はみんなで海に行きましょう!」
「海、ですか?」
食卓の椅子にかけて、ジュゼットがお弁当の残り物で朝食をとっていた。お皿の上にこれでもかと握られたおにぎりの一つを手にとって、もそもそと頬張っている。
次郎君とのデートは取りやめかなと思いながら、わたしも隣に座った。
「でも、一郎さんと瞳子さんはお仕事があるんじゃ?」
「全部キャンセル!」
「ええ?」
突然の暴挙だ。いったいどうしたんだろう。
「一郎には気分転換が必要よ。私も伝えておきたいことがあるし」
お弁当の様子から、瞳子さんの意気込みが伝わってくる。
さすがに彼女にも、最近の一郎さんの様子に何か感じることがあるのかもしれない。何も知らなかった頃は、わたしも一郎さんの睡眠不足による疲労感は気になっていたけれど。
一郎さんの抱える問題を知ってしまった今となっては、全てが結びつく。
「あやめちゃんもおにぎり食べる?」
「あ、はい」
差し出されたおにぎりを受け取って、隣のジュゼットを見ると目が合った。綺麗な青い目には戸惑いが浮かんでいた。ご飯を食べている時に、そんな顔をしているのは珍しい。
おにぎりの具に何か変わったモノが入っていたのかな。
わたしがジュゼットに声をかけようとすると、瞳子さんに「ところで」と新たに話を振られた。
「さっき次郎君があやめちゃんの部屋から出てきたんだけど……」
あ! それは!
「べ、別にやましいことはしてません!」
瞳子さんはわたしを見ておかしそうに笑う。
「あら、そうなのね。それは残念」
残念ってどういうことですか? と思いながらも顔が熱くなる。
「それはさておき、実は昨夜の二人の話、ちょっと聞いちゃった」
あまりにも自然に告白されて、すぐに深刻さに気付けなかった。
「昨夜の話って……」
頭の中で意味が伴うと、火照っていた顔からサッと血の気が引く。
次郎君との昨夜の会話を聞かれていたら、非常によろしくない。でも、瞳子さんの様子には全く深刻さがないから、何か別のことなのかもしれない。
焦りは禁物。動揺をやり過ごして何を聞くべきかと考えていると、背後に気配がした。
「瞳子さん、海に行くの本気なんだ」
次郎君も食卓にやってきた。わたしの背後からおにぎりに手を伸ばす。
「俺もこれ食べていい?」
「もちろん」
次郎君も瞳子さんもいつも通りに見える。さっきのは聞き間違いだったのかな。深刻さを計り兼ねたまま、わたしは気持ちを奮い立たせる。
このまま聞き流すわけにもいかない。崖から飛び降りるような覚悟で話を戻す。
「瞳子さん、昨夜の話ってなんですか?」
重たくならないように、できるだけさりげない様子を装ったけれど、声がうわずってしまう。
瞳子さんがふふっと笑った。
「もちろん一郎が私のためにやらかしている話よ」
ガンッと頭を殴られたような衝撃だった。思わず背後の次郎君を仰ぐと、時間が止まった世界にいる人のように固まってしまっている。
「わ、わたくし……」
隣でジュゼットの泣きそうな声がした。
「トーコに夢の話をしてしまいました」
打ち明けた直後、おにぎりを手にしたまましくしくと泣き出す。
「ジュゼット、泣かないで。あなたは何も悪くないのよ」
瞳子さんが私と次郎君を見る。
「昨夜二人が話していたことを確かめるつもりで、私が強引に聞き出したの」
すぐに言いつくろうべきなのに、何も言葉が出てこない。
「昨日、ちらし寿司を食べながら泣くあやめちゃんとジュゼットのことが気になって、夜にあやめちゃんの部屋に様子を伺いに行ったの。何かあったのかしらって」
「あ――」
最悪だ。全然ごまかせていなかった。とんでもないミスをしてしまった。
「あやめちゃんも、そんな顔しないで」
「ち、違うよ。瞳子さん。俺が昨夜あやめと話していたのは、カバがいたずらに見せてきた夢の話で……」
次郎君がすぐに取り繕ってくれたけど、瞳子さんは横に首を振る。
「大丈夫、次郎君。不思議な話なんだけど、私はとても納得できたの」
「納得って……」
「あのね、きっと私が何も言わなくても、一郎は間違えないわ。でも、私はわかって良かった。感謝したいくらい」
瞳子さんは良かったと言いたげに微笑む。
「だって、これでずっと一郎に伝えたかったことが伝えられるわ」
瞳子さんは笑ってくれるけれど、どんな理由があっても、感謝なんてできるはずがない。
納得なんて、できるはずがないのに。
しんとリビングが重苦しい空気になる。ジュゼットの嗚咽だけが響いた。
息苦しさに喘ぎそうになった時、背後で扉が開く音がした。
「瞳子、今日の予定は……」
一郎さんが仕事に行く身支度で現れる。まだネクタイはしていないけれど、ワイシャツにスーツのパンツを合わせた格好だった。
彼は食卓の異様な空気を感じ取ったのか、一瞬動きを止めてから、ゆっくりと歩み寄ってきた。
次郎君が絶望的な顔をしてうつむいている。
瞳子さんが笑顔で一郎さんを迎えた。
「おはよう、一郎。今日はみんなで海にピクニックよ」
全てを察したのか、一郎さんがすぐにうつむいている次郎君を見た。胸ぐらを掴み上げる勢いで、次郎君に迫る。
「おまえ! まさか!」
次郎君は何の言い訳もせず、殴られる覚悟で硬く目を閉じている。
「違うの! 一郎」
すぐに瞳子さんが次郎君をつかむ一郎さんの腕をとった。
「一郎がいちばんわかっているはずよね。時間の問題だって」
「――瞳子?」
一郎さんが次郎君を離すと、瞳子さんは困ったように笑った。食卓の隅にあったテレビのリモコンを手にとる。
「コレを見て」
瞳子さんがテレビの電源を入れる。
ざざざっとノイズが漏れてくる。現れた映像は砂嵐だった。
「もう潮時でしょ、一郎」
世界が終わるまでのカウントダウンは続いている。
時間が経つほど、加速的に壊れていく世界。
カバさんの力をもってしても、限界がきているのだ。
「もう時間がないの。そうよね、カバさん」
「……そうやで」
聞き慣れた声がする。振り向くと、ピンクのカバのぬいぐるみが浮遊していた。




