41:疲労困憊のカバさん
SNSでも拡散されていた動画――一連の次元エラーは、昼過ぎにはテレビのワイドショーやニュースにも取り上げられていた。SNS上では緩やかに収束しつつある話題だけど、情報の盛り上がりに時間差があるのは仕方ない。
テレビで紹介されたことによって再び注目が集まるだろうけど、元凶であるカバさんが大人しくなっているはずだから、人々の関心が逸れるのも時間の問題のはず。
わたしが友人と別れて要塞に戻ってくると、見慣れたリビングのソファセットの上に、ピンクのカバのぬいぐるみが転がっていた。
誰かがここに置いたのか、カバさんが動いていたのか。
「あいつ、人使いが荒すぎるやろ。あ、わしは人とちゃうからカバ使いか」
「わ!」
横たわったぬいぐるみから声が聞こえて、わたしはその場で飛び上がった。まさかカバさんが居るとは思っていなかったのだ。
「カバさん、居たんだ」
「ワシは疲労困憊で休憩中や」
「え?」
起き上がる様子もなく、ぽてっと転がったままカバさんの声だけが聞こえる。
瞳子さんと一郎さんは、どこかで講演があるとかで出掛けている。次郎君とジュゼットもこの部屋には居ないのか、姿が見えない。
「カバさんは何をして疲れるの?」
そもそも実態があるかどうかも怪しい。わたしたちに合わせて人間らしく振舞ってくれている気がするのだ。なぜ関西弁なのかはわからないけれど、体力や気力といった概念は、当てはまらないのではないかな。
わたしはソファに座って、横たわるカバさんを労わるように撫でてみた。光沢のない天鵞絨のような手触り。ふっくらとしたお腹は、少し不自然に膨らんでいる。
「ああ〜、ええわ〜、もっと撫でてや。気持ちええわ」
カバさんが横たわったまま、ずりずりとこちらに寄ってくる。
「カバさんは、どうして関西弁なの?」
「ん? 姫さんの警戒心がゆるむかと思って。方言って、そういう効果があるんとちゃうんか?」
まさかそんな気遣いが働いていたとは。
でも、ジュゼットはカバさんを慕っているようだから、あながち効果がゼロでもないのかも。
お腹を撫でられたぬいぐるみが、うっとりしているのがわかる。
ありえない光景も、見慣れてしまった。ぬいぐるみが動いて関西弁をじゃべることには、もはや何の違和感もない。
「カバさん、世界を荒らすのをやめてくれたんだね。もしかして、また一郎さんに怒られたりした?」
「わしは別に何もしてへんで」
もしかすると、カバさんにとっては日常的な行動になるのかな。この世界を混乱させているとは思ってもいないとか。
「こき使った挙句、全部わしのせいになってるんか。ほんま、ひどい話やな」
ブツブツとカバさんが不満を述べている。カバさんをこき使える人がいるとも思えないけど、やっぱり一郎さんだろうか。カバさんはこの世界では無敵の存在のはずなのに、一郎さんに怒られたりする。二人の力関係はよくわからない。
カバさんのぽってりとしたお腹を撫でていると、ジュゼットが部屋にやってきた。
ゆったりとした部屋着を来て、手には子供向けの本を持っている。
「アヤメ、今日のおやつはなぁに?」
「おやつ?」
どうしようと思ったのは一瞬だった。さっきから視界の端に見えていたもの。ソファの前のローテーブルに、おやつがきちんと用意されている。いろんな種類のクッキーが、飾り皿に盛られてラップがかけられてあった。瞳子さんの手作りっぽい。
あらかじめジュゼットのために用意してあったみたいだ。美味しそう。
「ここに瞳子さんが用意してくれているよ。わたしが何か飲み物を入れてあげる。何がいい?」
「ココア」
「わかった」
クッキーの盛られた皿のラップを外して、ジュゼットがソファにかけるのを横目で確かめながら、わたしは立ち上げる。キッチンへ向かおうと一歩を踏み出した時、背後で声がした。
「ただいま」
次郎君が帰ってきた。心理学科も学院祭の準備を進めているのは同じだ。次郎君の係は当日の青空喫茶のウェイトレスらしい。客引きには最高の人材になるはず。
お化け屋敷のように事前に作る大道具が少ないせいか、次郎君はそれほど頻繁に駆り出されることもないみたい。
「おかえりなさい、次郎君。今からおやつタイムなんだけど、一緒にどうですか?」
「うん。もちろん参加する」
いつもの人懐こい笑顔で、次郎君もソファにやってきた。転がっているカバさんを無造作に掴み上げる。
「乱暴に扱わんといて、わし疲れてるねん」
「おわ!?」
次郎君もカバさんの中身が居るとは思っていなかったようだ。驚いてカバさんを取り落とす。
ポテッと再びピンクのぬいぐるみがソファに転がった。
「投げるなんて、ひどいやんか!」
怒るカバさんをジュゼットが拾い上げて胸に抱きしめた。よしよしと頭を撫でる。完全にぬいぐるみに対する扱いだったけど、カバさんの機嫌はとれたようだ。
「姫さんは優しいなぁ」
「カバさんは可愛いですわ」
なんだかほっこりとした雰囲気になっている。次郎君が「びっくりした」と言って、さっきまでカバさんが横たわっていた場所に座った。