37:カバさんのイタズラ
スマホから顔をあげた一郎さんが、ゆっくりと次郎君を見た。次郎君はさらに自分と一郎さんを追い詰める。
「どうして、こんなバカなことをしたの? まさか、このまま世界が狂っていくのを傍観しているつもり? ありえないよね、俺の命と引き換えに、全部が終わってしまうなんて」
「まぁ、待てよ。次郎」
次郎君の深刻さに、はじめて一郎さんが戸惑いを見せた。
「さすがにいくら可愛い弟のためとはいえ、俺が世界と弟の命を天秤にかけるなんて、そりゃないだろ」
「でも、じゃあ、これはどう説明するわけ?」
次郎君が視線でスマホを示す。トントンと一郎さんがスマホの画面を指先でつついた。
「これは世界崩壊の兆しでも何でもない。11Dの悪戯だな。あいつが調子に乗って遊んでいるだけだ。心配しなくても深刻な事態には至らない。あいつはパズルのように次元を弄ぶが、おまえたちが見たカフェの金魚のように、直接動かしたものを、同じ場所に置き去りにはしない。いずれ想定外の歪みも生むが、現れたものはすぐに消える。ここに写っている動画も、おかしなモノはすぐに消えているだろ」
そうかもしれないと、わたしは素直にうなずいた。カフェの金魚も、教室につながったジャングルも、すぐに消えた。消えて元通りになった。
ジュゼットとは違う。あれ? でも、どうして彼女だけずっとここにいるのだろう。
ささやかなわたしの疑問には、すぐに一郎さんが答えてくれた。
「ジュゼットは、あいつが直接動かしたモノじゃないんだろうな。とはいえ、俺たちの手で元の世界に戻せない事もおかしいから、11Dが何かしている可能性もあるけど」
「あ、でも、カバさんならジュゼットを帰してあげられるじゃないんですか?」
「できるかもしれない。でも、あいつはそんなことはしないよ。どうやら、ずっと自分を閉じ込めていた管理局を恨んでいるらしい。だから、世界が歪んだり狂ったりすることを楽しんでいる節がある」
「カバさんは、閉じ込められていたんですか?」
「本人はそう言っているけど……」
信憑性はないと言いたげに、一郎さんが苦笑する。
「じゃあ、次元エラーは復讐みたいなものですか?」
「そうだな。迷惑以外の何物でもないけど。でも、おかげで次郎が死んだ世界をなかったことにできたわけだから、俺は何とも言えないけどね」
たしかに世界を狂わせることを望んでいるのなら、一郎さんの申し出も復讐の一端になる。
「カバさんが言っていたこの世界が滅ぶっていうのは、本当に嘘なんですか?」
「あいつの希望ではあるんだろうな。でも、管理局も策を何も講じないわけじゃないから、破壊側と修復側でイタチごっこみたいになっているんじゃないかな。まぁ理解しようと思っても、11Dと管理局の戦いは次元が違いすぎて理解できないけどね」
一郎さんは可笑しそうに笑う。
「あやめちゃんには次郎のことで弁解のしようがないけど。でも、11Dの言うことは、大半がでたらめだよ。次郎のことだけ思わせぶりなのも面白がっているだけだと思う。二人をそんなに不安にさせるなら、先に話しておけば良かったね。ごめん」
一郎さんに頭を下げられるのは居たたまれない。結局は、勝手に深刻に受け止めていたわたしの早とちりなのだ。
彼は弟の次郎君にも真摯に詫びる。
「次郎にも謝るよ。悪かったな」
次郎君は何か言いたげな顔をしていたけれど、はぁっと大きくため息をついただけだった。一郎さんには戸惑いや焦りが一切ない。本当に何も心配していないのだ。
次郎君にも深刻のなさが伝わったようだった。きっとわたしより覚悟を決めていたはずだから、一気に力が抜けるのも無理はない。
「でもさ、管理局にばれたりしないの? 兄貴がカバさんの力を借りてやったことは、とてつもない違反行為じゃないの?」
「ばれても俺にお咎めがあるとは思えないな。実際に実行したのは俺じゃないし、11Dに出会うことが本来ならありえない話だからな。それに11Dが関わっている限りばれることはない」
「どうして言い切れるわけ?」
「あいつと管理局のイタチごっこは永遠に終わらないよ。それは俺たちの家系が証明している」
「うーん。なんか、兄貴に丸め込まれている気もするけど……」
次郎君は納得いかないという顔をしているけれど、真相を白状しても動じていない一郎さんに対して、これ以上疑うこともできないようだった。
「なんか腑に落ちないんだけど」
「そんなに心配するなら、頻発するエラーについては11Dに文句を言っておくよ。それが収まれば不安もなくなるし、文句ないだろ?」
「――まぁ、そうだけど」
一郎さんは疲労感を漂わせているものの、次郎君を見て笑みを浮かべていた。まるで次郎君の過去について、全てを白状してスッキリしたと言いたげな余裕すら感じる。
「……なんか、気が抜けたらお腹すいたかも」
次郎君の一言で、わたしもようやく気が緩んだ。瞳子さんがハッとしたように立ち上がる。
「じゃあ、ご飯にしましょう。すぐに用意するわ」
「わたしも手伝います」
「あ、じゃあ、あやめちゃんはジュゼットを連れてきて。今日はあやめちゃんたちとのお出掛けから戻って来て、あれからずっとお昼寝していたけれど、さすがにもう起きていると思うから」
「わかりました」
結局カフェで早めのランチをしただけだったけど、ジュゼットには刺激的な出来事だったのだろう。興奮のあとの疲労感ってやつかな。
いったんリビングルームを出て、ジュゼットの休む部屋へと向かいながら、わたしは深刻な事態にならなくて良かったと吐息をついた。
(でも……)
ホッとした心の片隅で、何かがもやもやしている。大切なことを忘れているような、見落としているような引っかかり。
(全部、カバさんの悪戯――か)
何が引っかかっているのかわからないまま、わたしはジュゼットの部屋の扉を開いた。




