30:一面のコスモス畑
要塞まで戻り、わたしは一郎さんのフロアに続くエレベーターに乗り込んだ。
何が起きているのかは、わからない。
でも、ジュゼットが現れた時から、もしかするともっと前から、一郎さんや次郎君の関わる世界に異変が起きていたのだとしたら?
少しずつ歪みが大きくなっていたのなら、どうなってしまうのだろう。
もしかして一郎さんは、その件で独りで奔走しているのじゃないかな。
あれほどに疲労感を漂わせていることも、そう考えると辻褄が合う気がする。
考えすぎだろうか。
リンと音がして、エレベータが目的の階層に止まった。
白く無機質な扉が、ゆっくりと開く。
ふわりと懐かしい香りが漂い、広がった。
爽やかな芳香。
「え?」
エレベーターの向こう側に広がる光景に、言葉を失う。
辺りをピンクに染める圧倒的な群生。
地平線まで一面のコスモス畑が広がっている。
「お嬢ちゃんにつなげたったでぇ」
「か、カバさん!?」
いつのまに現れたのか、見慣れたぬいぐるみがエレベーターの片隅からこちらを仰いでいる。身動きできないわたしを促すように、カバさんがノコノコと機内を歩いて近づいてきた。
「何? これ、夢?」
「そやな。夢みたいなもんやけど、お嬢ちゃんにとってはどうなんやろか」
「カバさん、でも何のために?」
とても綺麗だけど、まさかわたしにコスモス畑を見せたかったわけじゃないだろうし。
「こんなことをしたら、この世界に良くないんじゃない?」
すぐそこで、ピンク色の花弁がかすかに揺れている。
「ええも悪いも、いまさらやんか。それにお嬢ちゃんは知りたいんやろ?」
「え?」
「ジローが思い出したことや」
カバさんはニタニタと笑っている。この笑みが悪意の塊なのか、悪気のない笑顔なのかがわからない。
「だから、つなげたったで」
「つなげたって……」
「あんたらの過去のひとつやんか」
「え?」
「あっちこっちになっとったから、ちょっと面倒やったけど、綺麗に集めといたったで」
カバさんが何を言っているのかわからない。
わたしたちの過去?
「ええから、はよおいでや」
カバさんはノコノコと歩いていたけれど、ぴたりと立ち止まると「面倒くさいな」とつぶやいて、ふわりと浮き上がった。
「わ!」
わたしの周りをふよふよと漂いながら、ニタニタと笑う。
「カバさん、飛べるの?」
「ワシはなんでもありやんか」
ニタリとわらうと、縫い付けられている眼を向こう側に広がるコスモス畑へと向けた。
「お嬢ちゃんも見覚えあるんちゃうか? この花畑」
カバさんがふよふよとコスモス畑へと飛んでいく。何が起きているのかわからないけど、不思議と恐れはなかった。
カバさんの言う通りなのだ。
目の前に広がるコスモス畑には、見覚えがある。
地平線までを覆う、壮大なピンクの花弁が一枚絵のように、胸に迫ってくる。
この光景を知っている。
わたしは大きく深呼吸をして覚悟を決めた。
次郎くんが思い出した過去。
「お嬢ちゃん、こっちやで」
エレベータから一歩を踏み出した。
ふわりと、コスモスが香った。
一面のコスモス畑。
秋になると一面がピンクに染まる場所が自宅の近くにある。カバさんが再現したのは、間違いなくその場所だ。
中学に上がってからは登下校のたびに通っていた道。
秋になると、毎朝の登校時に花畑の前で立ち止まっていた。本当は花畑の中を駆け回りたかったけれど、当時のわたしには立ち入る勇気がなかったのだ。
日の傾きから、お昼過ぎであることがわかる。
午前中にはない、気だるげな日差し。
「あれ? 誰かいる?」
ずっと立ち入り禁止だと思っていたコスモス畑に人影が見えた。少し距離があるけれど、目を凝らすと制服をきた少年と少女だった。
二人は同じくらいの年だろうか。少女の制服は馴染みがある。わたしが通っていた中学の制服。異なる少年の制服にも見覚えがある。
悪夢に出てくる次郎君のそっくりさんが着ている制服。
わたしは二人に目を凝らす。
「あれは、もしかして――」
「そうやで、ジローや」
カバさんは迷うことなく、二人に近づいていく。
「カバさん、そんなに近づいたら見つかるよ?」
「大丈夫やで、向こうからワシらは見えへんわ。のぞき見してるようなもんやからな」
のぞき見? ジュゼットのように実態を伴う次元エラーとは違うということなのかな。
わたしはコスモス畑から、自分の体に目を向ける。
「わ!?」
コスモスを踏みしめているつもりの足から、まっすぐに茎が伸び、花が咲いている。折れること倒れることもなく私の体とコスモスが交差しているのだ。
幽体みたいなイメージだろうか。でも姿が透けて見えたりはしない。
コスモスとわたしの体。
どちらもはっきりと映っているのに、互いが干渉しないのだ。
不思議な状態だった。
少し戸惑いを覚えながらも、わたしはカバさんを追いかけた。
「えっ?」
再び少年と少女に目を向けて、立ち止まってしまう。
次郎君のそっくりさんと、もう一人の少女は――。
「わたし!?」
コスモス畑に立ち入っていた二人は、次郎君とわたしだった。
どういうことだろう。どうして次郎君の過去にわたしがいるのだろう。
ためらうことなく近づいたカバさんに二人は気づかない。わたしも思い切って近くまで駆け寄った。
「毎日、お花を見に来てるの?」
中学生のわたしが次郎君に問いかけている。比べてみると、目の前のわたしよりも次郎君の方が年上の感じがした。次郎君はわたしにとって二つ年上。中学時代に遡っても、変わるはずがない。
でも、わたしは大学に入るまで、次郎君と出会ったことはないのだ。
あの悪夢の中以外では――。
「べつに、花を見に来ているわけじゃないよ。ただの暇つぶし」
次郎君は無造作にコスモスを手折る。どこかなげやりな態度だった。
「おまえも、いちいち声をかけに来るなよ」
「えっと」
幼いわたしは俯く。なぜかこの後の展開がわかるような気がした。
目の前の自分に、居たたまれない気持ちが芽生える。
「あの! 今日はお友達になってもらおうと思って」
やっぱり!? やっぱりそう言っちゃうんだ、もう一人のわたし。
なぜだろう、すっごく恥ずかしい。まだ幼い次郎君の顔を、わたしまで直視できない。
「はぁ? 何それ」
「え? だ、ダメですか?」
うう。恥ずかしすぎるけど、頑張れわたし! と思わず応援してしまう。
「わたしは早坂っていいます。早坂あやめです。近所に住んでいて、このコスモス畑はわたしの部屋から見えるんです。そしたら、毎日人影が見えるから、気になって、それで」
どういう展開だろう、これは。
たしかに自宅のわたしの部屋から、このコスモス畑は見える。
開花時期には、いつも素晴らしい光景を楽しませてもらっている。
でも、次郎君のことは全く記憶にない。本当に過去なのだろうか。カバさんの悪戯のような気がしてきた。
「だって妖精さんは、学校に行っているのかなって」
「……妖精さん?」
次郎くんが不可解な顔をしている。
「あ! わ! あの……」
まっかっかになってうつむくわたし。
ああー! 恥ずかしさが伝染してくる。手に取るようにわかってしまう。絶対に心の中で次郎君のことを妖精さんって呼んでいたんだ。
きれいなお顔をしているからね、次郎君は。
わかる! 妖精さんって言ってしまうわたしの気持ちが、痛いほどわかる!
こんな美少年が花畑の中にいたら、妖精さんにしか見えない。