2:時任(ときとう)教授
時任先輩に連れてこられたのは、特殊棟と同様に、わたしが出入りしたことのない校舎だった。
学生の間では要塞と呼ばれている。
わたしの在学する夢乃宮学院は、多彩な学部、学科を抱える、いわゆるマンモス校だ。わたしは文学科を専攻しているけど、この学院の一番人気は心理学科だった。
臨床心理士、公認心理士の資格取得についての導線があり、排出率も最高峰だ。
出願率も他の学科とは桁が異なるため、心理学科の学生は優秀な生徒が多い。
要塞とあだ名された建物は、教授棟の一つで主に心理学の教授の巣だった。
文学科の私には文字通り要塞で、これまで近づくようなきっかけもなかった。
噂によると要塞は心理学科の生徒も容易く出入りはできないらしい。
一階にサロンのような応接室がいくつもあり、教授に相談がある生徒はそこで対談を行う。
心理学の教授は著名人も多いので、特別待遇になってしまうのも仕方ないのだろう。
「早坂、こっち」
時任先輩はお姫様をかかえたまま、何のためらいもなく一般生徒が使用禁止のエレベーターに乗り込む。
「先輩。ここは私みたいな一般生徒が入ってはいけない場所では?」
「大丈夫。火急の用件だから」
「え?」
時任先輩は、この夢乃宮学院のサラブレットである。
犯罪心理学の権威で警視庁にも信任の厚い理事長を父親に持ち、署名なカウンセラーであり心理学の教授でもある兄を持つ。もちろん本人も優秀で、将来の活躍が期待されている超新星。
時任次郎。
これまた容姿までイケメンなので、女子生徒に黄色い声で騒がれ、ファンクラブでもできそうな勢いの逸材なのである。
「あの、いったいどこに行くんですか?」
「時任教授のフロアに」
「え?」
ええ? あの有名な時任教授?
時任一郎。
先輩のお兄様であることは知っているけど、わたしはまだお目にかかったことはない。あ、でもテレビでは見たことがある。
先輩に負けず劣らず超絶美形で、有識者としてよくメディアにもとりあげられている。
「着いた」
リンと音がしてエレベーターが止まる。どうやら最上階のようだ。一面が真っ白でオシャレなフロア。
全面が硝子張りのフロアを超えると、厳重なセキュリティに守られた扉があった。どうやら顔認証になっているようで、先輩が近づくとあっけなく開く。
「来て、早坂」
「でも、私が勝手に入っては……」
「だから勝手じゃないって。俺が一緒だから大丈夫!」
「は、はい」
おずおずと先輩の後ろについていく。最上階は全て時任教授にあてがわれているのだろうか。
白い空間は不思議と圧迫感がなく、所々、壁面がガラス張りになっていた。外の景色が視界一杯に臨める。
いくつかの個室があるのか、フロアには扉が並んでいる。先輩は迷いのない様子で一つの扉を開けた。
リビングルームのような室内が現れる。潔癖な印象の部屋。でも無機質な印象はない。観葉植物や花が飾ってあるせいかな。テレビボードの横の棚には、ピンク色をしたふっくらとしたカバのぬいぐるみ。とても愛嬌のある顔して、こちらを向いている。
中央のソファセットに人影があった。
「兄貴」
先輩の呼びかけに応えるように、ソファにかけた人影がこちらを振り返った。先輩に良く似た面差し。でも、圧倒的に大人の色気が漂う美形。時任教授だ。先輩とは違い、ゆるく癖のある髪が、窓からの光を受けて輝いて見える。
「おかえり、次郎ーー」
ばっちりと有名人と目が合ってしまい、私はしゃきんと固まる。
「え?」
教授もわたしの存在が予想外だったのか、驚いたように目を見開いた。
「え? もしかして、その子って……」
「兄貴、まずいことになった!」
「おまえついにその子を口説いたの? このタイミングで?」
「違う! 見られたんだよ」
「ん?」
先輩はすたすたと速足にお兄様である教授に近づき、抱えていたお姫様をソファに横たえた。
「回収するときに見られたんだ」
「は?」
教授はよくわからないと言いたげに、もう一度わたしに視線を向けた。ハッとして慌てて頭をさげる。
「は、はじめまして。文学科一年に在籍している、早坂あやめです」
「それは、知っているけど」
「え?」
「ああ、ごめん。礼儀正しい子だなと思って。俺はこいつの兄で時任一郎です。心理学の教授をやってます」
「存じております」
「あ、やっぱりそうだよね」
にっこりと笑う年上のイケメン。本当に本物だ。
でも、教授は想像よりもずっときさくな人なんだな。
「そんなところに突っ立てないで、こっちにおいで。座って、ほら」
ぽんぽんと教授がソファをたたく。
「あ、はい。失礼します」
「次郎、おまえはお茶でも淹れろ」
「は? なんで俺が!」
「あ、じゃあ、わたしが!」
室内の奥にはキッチンまである。このまま住めそうな雰囲気がするし、実際教授にとっては居住空間なのだろうな。
「あら? お客様? 珍しいわね」
ソファを離れようと腰を浮かした時、背後から新しい声が聞こえた。振りかえると、清楚な美女が立っていた。