19:傍にいるだけで幸せ
艶のあるしっかりとした声だった。フロアランプの光は淡くて、はっきりとしないけれど、泣いているような様子はない。
(気のせいか、びっくりした)
そっと息をついて、わたしは歩み寄った。
「おはようございます。一郎さん、早起きですね」
「おはよう。少し嫌な夢を見てね。目が覚めてしまったよ」
ふうっと一郎さんがため息をついた。物憂げな様子が大人の色気をまき散らしている。次郎君もいずれこんなふうになっちゃうんだろうか。
わたしはローテーブルを挟んで、一郎さんの向かい側のソファにかける。
「一郎さんでも悪夢を見たりするんですか?」
彼は浅く笑う。
「そりゃ見るよ。あやめちゃんと何も変わらない」
微笑む一郎さんの顔。照明の加減だろうか。すこし白っぽい。蒼ざめて見えるのは気のせいかな。
「一郎さん、顔色が悪くないですか? どこか具合が悪いとか?」
「え? そう? 良く眠れなかったから、それでかな」
「今日は休日ですし、ゆっくり寝直しても大丈夫じゃないですか? 働きすぎじゃないですか?」
大学の講義に、外部での講演。カウンセリング。論文の執筆。有識者としての取材。情報提供や考証。スケジュールの管理は瞳子さんがそつなくこなしているけど、少し助手気分を味わったわたしにも、一郎さんの多忙さは明きらかだった。
今はジュゼットの問題まで抱えているのだから、気が気ではないのかもしれない。
「たまにはゆっくり休まないと、過労死しますよ」
「大丈夫だよ。スケジュールはしっかり者の瞳子さんが程よく調整してくれているから。俺より瞳子の方が大変なんじゃないかな。今はジュゼットのお守りもしているし」
さすが瞳子さん、敏腕助手。きっと一郎さんの助けになりたいという気持ちが現れているんだろうな。昨夜の恋バナを思い出して、切なくなってしまう。
「わたしで良かったら。今日くらいジュゼットのお守りしますよ。別に関わっていても大丈夫ですよね。どうせ忘れてしまうわけですし。一郎さんも瞳子さんもゆっくりすれば良いです」
「ありがとう、あやめちゃん。たしかに、いまさらジタバタしても仕方ないか。ジュゼットを外に連れ出すのも良いかもしれないね」
「大丈夫なんですか? 誰かに会っても?」
「どうせ全てなかったことになるでしょ」
一郎さん、開き直ってしまっているな。でも言われてみればそうかもしれない。
「じゃあ、わたしが学院祭の準備に一緒に連れ出しちゃいます!」
次郎君も引っ張っていこう。本日は瞳子さんと一郎さんに、二人きりでゆっくり過ごしてもらおう、そうしよう。二人きりでいれば、良い感じになるかもしれないし。
わたしは瞳子さんを応援したいのだ。突然思いついた作戦に、胸の内でほくそ笑んでしまう。
でも、気になるのは一郎さんの気持ち。
本当は瞳子さんのことをどう思っているのだろう。どうせ忘れてしまうのだからと、わたしは強気に攻めてみる。
「ところで一郎さんと瞳子さんはいつ結婚するんですか」
突然の直球に嫌な顔もせず、一郎さんは自然に応じてくれる。
「そうだね。俺はもういつでもかまわないけど、……あとは瞳子の気持ちの問題かな」
「一郎さんと瞳子さんは幼馴染ですよね」
一郎さんは「おや?」と眉を動かす。
「あれ? もしかして次郎に何か聞いた?」
「あ、いえ。……瞳子さんに少しだけ」
「へぇ」
悪戯っぽく一郎さんが笑う。
「瞳子、俺の事大好きでしょ」
「えっ!?」
突然言い当てられて、思わずソファから飛び上がりそうなほど驚いてしまった。
まずい。女同士の秘密なのに。ごめんなさい、瞳子さん。
わたしはなんとかごまかそうと試みる。
「い、いえ、それは、わかりませんけど……」
一郎さんが可笑しそうに笑う。
「あやめちゃんは素直だね。大丈夫だよ。昔から、瞳子の考えていることはお見通しだから。……彼女、いろいろ難しく考えているようだけど」
すごい。めちゃくちゃ瞳子さんのことをよく見ている。さすが心理学者。
「い、一郎さんは瞳子さんのことが大好きですもんね」
「そう。あやめちゃんにもわかる簡単なことが、瞳子にはわからない。まぁ、複雑な乙女心ってやつかな。こんなにハイスペックな男、なかなかいないのにね。さっさと素直になればいいのに」
わー、自分で言っちゃった。でも、言っちゃえるだけのイケメンであることは認める。
瞳子さんよりも一郎さんの方が何枚も上手な気がしてきた。
もしかして瞳子さんは一郎さんの掌の上で転がされているんじゃないのかな。
相思相愛の二人。まるで意地っ張りな彼女と、それを見守る彼氏みたいな可愛らしい関係に思えてくる。
「瞳子さんが素直になるまで待つんですか?」
「さぁ、どうかな。いつまで物分かりの良い男でいられるかな。いざとなったら既成事実を作ってしまうかもね」
さらっと恐ろしい事を聞いてしまったような気がする。わたしが固まっていると、一郎さんが声をあげて笑う。
「冗談だよ、あやめちゃん」
一郎さんが言うと冗談に聞こえないんですけど。
「結婚は一つのかたちだけど、俺は今の状態でも十分幸せだよ」
端整な顔に滲む優し気な微笑み。一郎さんが嘘を言っていないことがわかる。
「――だって、彼女は傍にいる」
胸があたたかくなった。
傍にいるだけで幸せ。
なんて素敵な一言だろう。一郎さんをとても大人だと思った。
わたしの憂慮なんて余計なお世話だ。誰も太刀打ちできない。
瞳子さんの幸せは約束されている。そんなふうに思えた。