15:ジュゼットの事情
今日は一日いろんなことがあったな。ベッドに横になり、ふうっと大きく息をつく。
記憶の混乱を整えるためとはいえ、半日ほど午睡をしていたせいで全く眠たくならない。
それに。
次郎君との初めてのキス。
うわー! ぎゃー!っと、ひたすらじたばたしたくなる。
恥ずかしい! でも幸せ!
などと、感情の起伏を繰り返してしまうので、わたしは眠ることをあきらめた。
結局、ジュゼットが戻れない影響で、わたしの要塞での生活はもう少し続く。
ぶっちゃけると次郎君の希望である。一緒にいたい気持ちは同じなので、二つ返事で受け入れてしまった。
もちろんお付き合いをはじめたので、自宅に戻っても次郎君に会う理由には困らない。でも、要塞内で一緒に食卓を囲んだりできる環境は捨てがたいのだ。
ちょっと欲望に素直すぎたかな。
どうせ眠れないのなら部屋を出てみようと、カーディガンを羽織る。要塞内は空調で快適だけど、少し外の空気を吸いたい。
まだ夏が終わったばかりの九月下旬。秋は学院祭準備で賑やかになり、気候も良い時期だけど、さすがに朝夕は冷えるようになった。深夜ともなれば、外は肌寒いはずだ。
外に出ると言っても、一階まで降りるわけじゃない。
要塞の一郎さんのフロアにはバルコニーもあり、通路から出られるようになっている。
ガラス張りの大きな通用口から、わたしはバルコニーに出た。
思っていた通り広い。大学が見渡せる眺望で、どうやらL字型に続いている。
「〜〜〜……」
気のせいかと思っていたけど、話し声が聞こえる。
こんな時間に誰が? と警戒しつつ、角から向こうをのぞくと、設置されたベンチに瞳子さんが座っていた。隣にはしくしくとベソをかいているジュゼットがいる。
ああ、帰りたくて泣いているのかな。
「こんばんは」
わたしは歩み寄って二人に声をかけた。
「あやめちゃん、どうしたの?」
「ちょっと眠れなくて出てきちゃいました。ジュゼットは大丈夫ですか?」
わたしは空いているベンチにかけてビスクドールのように可愛い彼女を見た。
突然知らない世界にやってきて、とても不安なんだろう。
「大丈夫だよ、ジュゼット。すぐにお家に帰れるよ」
「嫌です! わたくしは帰りたくありません!」
びっくりした。励ますつもりが、どうやら逆効果だったみたいだ。
「どうして? 本当に帰りたくないの?」
「帰りたくありません! わたくしはずっとここにいたいのです!」
いかにもお子様らしく癇癪をおこしている様子。それすら可愛いけど、わたしは瞳子さんと顔を見合わせる。
「ジュゼットはどうして帰りたくないんですか?」
「結婚したくないからですって」
「結婚?」
ジュゼットって何歳なの? まだ七つか八つくらいじゃないの? と思ったけど、彼女の世界では普通のことなのかもしれない。
「自分より十五歳も年上の王子様との結婚が決まったらしいの。それで逃げ出したいと思っていた時に、ちょうどこちらの世界に来てしまったみたい」
「こんなに小さいのに……」
政略結婚というやつかな。幼いころから嫁ぎ先が決まっていて、お相手は王子様。まるで少女漫画のような世界。少女漫画なら王子様はイケメンで、ジュゼットが成長するまで見守り、やがて心から結ばれたりするけど、違うのかな。
「帰りたくない、か」
慰めるのも難しい。帰らなくてもいいよ、ずっとここにいても良いよとは、言ってあげられないし。瞳子さんが泣きじゃくるジュゼットを抱きしめて、とんとんと背中を叩く。
「ジュゼット、元の世界にも、楽しいことはたくさんあるはずよ。王子様はとってもカッコよくて、優しいかもしれない」
「十五歳も年上なんて、オジサマですわ!」
「そんなことないわよ」
瞳子さんの膝の上に上体を伏せて、ジュゼットはひたすらだだをこねる。
「楽しいことは、自分が見つけようと思ったら、案外見つけられるものなの」
小さな背中を優しく叩いて、瞳子さんはまるで子守歌を歌うかのように話しかけている。
「ご飯が美味しいとか、おやつが好物だったとか。綺麗な花が咲いているとか。ジュゼットはここに来てからも、そんなささやかなことが、とても嬉しそうだった。だから、きっと、もっと見つけられるはず。王子様の良いところも、たくさん見つけられるはずよ」
優しい声で瞳子さんが宥めていると、やがてジュゼットは寝入ってしまった。
瞳子さんの膝の上で、屈託のない天使の寝顔。涙に濡れた顔を拭っても目覚めない。
「眠っちゃいましたね」
「ええ」
「わたしがベッドまで運びましょうか?」
「ありがとう。でも大丈夫よ。それより、あやめちゃんこそ平気? 今日はいろんなことがあったけど」
いろんなこと。
思い起こした瞬間、ぼっと顔が熱くなる。バルコニーを照らす控えめな照明でも、じゅうぶんわたしの顔色が伝わってしまったらしく、瞳子さんは目を丸くした。
ジュゼットを起こさないように気遣いながら、ふふっと可笑しそうに笑う。
「良いことがあったみたいね」
「や、いえ、別に……」
しどろもどろしてしまう。ああ、見透かされているようで、恥ずかしい。
「羨ましいわね」
からかうような瞳子さんの声に、わたしは好奇心がもたげた。
「あの、聞いても良いですか?」