1:時任(ときとう)先輩とお姫様
――11D、消息不明。
――HD(高次元)エラー発生。
――警戒レベル ∞(無限大)。
――影響 ∞(無限大)。
わたしはバタバタと大学内の連絡通路を走りぬけた。これだけ広いと在学生といえども、立ち入ったことのない場所がたくさんある。
学生が特殊棟と呼ぶ校舎の標本室を目指した。
目的は人体模型である。模型君と名付けられている、とても精巧な人形。
本物と見まがうばかりの内臓のレプリカが、パズルのように取り外しできるらしい。
時は学院祭間近。わたしの在籍する文学科の出し物は定番のお化け屋敷。仕掛けのために、どうしても模型君が必要なのだ。
「なんか、ちがう学校に来たみたい」
特殊棟に足を踏み入れるのは初めてだった。しんと静謐で人気のないさまはまるで廃墟のよう。
得体の知れない迫力に圧倒されつつ、わたしは標本室を目指す。
「わたくしを一体どうするおつもりなの?」
突然響いた甲高い声に、私はびくりと立ち止まった。
誰かいる。
いや、でも関わりたくない。私は完全無視を決め込んで再び駆けだした。
「いやです! お離しなさい!」
なんだか、只事ではない状況のような気がするけど。
「誰か!」
声が引きつるような悲鳴になった。
駄目だ、放っとけない。
完全無視をとりやめ、助けを求める声に応じるように駆けだす。
「離して! 誰か!」
悲鳴が漏れる教室の扉の前へ、足音を殺して忍び寄った。
什器保管室。
幸い廊下側の窓は透明のガラスで中が見える。わたしは息を殺すようにして中の様子をうかがった。さすがに考え無しに飛び込むほど無謀な正義感は持ち合わせていない。
「誰か来て! 助けて! 衛兵!」
教室の中をのぞいて、わたしはあんぐりする。さっきまでの緊迫感がいっせいに凪いだ。
「あ、なんだ」
演劇部の練習か。
煌びやかな中世風ドレスをまとった少女の後姿が目に飛び込んできたのだ。校内のあちこちで、学院祭の準備が進められている。什器保管室なら、大道具に使用する機材でも物色しに来たのだろう。ついでに演技の復習でも始めてしまったのかな。
ほっと吐息をついて、屈めていた姿勢を正した。犯罪性がないなら、隠れる必要もない。もう一度何気なく教室の中に目を向けると、お姫様役の女性と稽古をしているもう一人の人物と目が合った。
すらりとした長身。王子様役には申し分のない容姿。
だけど。
「え!?」
予想外の人影を見つけてしまい、思わず声がでた。
「時任先輩?」
教室の中でお姫様の腕を掴んだまま、先輩がさっと血相をかえた。
「早坂 !?」 「離しなさい!」
先輩の声と、お姫様の声が重なる。小柄な女性はひどく演技に熱が入っている様だ。時任先輩が演劇部に関わっていた事は驚きだけど、彼の知名度と美貌なら助っ人をお願いされるのもわかる。
私は稽古中にお邪魔をしてすみませんの意味合いで、ぺこりと先輩に会釈をして立ち去ろうとした。
「待って! 早坂!」
先輩の声と同時に、乱暴に保管室の扉が開く。先輩はお姫様を引きずるように腕をつかんだまま、私の進路に立ちふさがった。
「待てよ!」
壁ドンされる。
「見たな?」
「はい?」
突然端整なお顔に迫られて、わたしは棒立ちになる。
近い、近いよ、先輩。その美しいお顔が近すぎる!
「離しなさい! 誰か!」
お姫様の演技はまだ続いている。そういう練習なのかな。あまりにも至近距離に先輩の顔があるせいで、彼女のことを見られない。
「誰か! たすけ――」
「ちょっと黙って!」
時任先輩はお姫様を怒鳴りつけると、トンと首筋に手刀をお見舞いした。くらりと気を失ったお姫様を壁についていない方の手で鮮やかに抱きとめる。
「せ、先輩!?」
気絶させるなんて、これも演技のうちなの? ん? あれ?
お姫様役の人、本当に在学生? 本物の幼女に見えますけど。
「――くそ、まずいことになった」
ぐったりと気を失っているお姫様を小脇に抱えて、先輩が項垂れる。
「えっと」
状況がまったく呑み込めなくなったけど、至近距離で先輩と対峙しているのは心臓に悪い。
わたしはそそくさとその場を立ち去ろうと試みる。
「学院祭の出し物の練習ですよね。サプライズで何かするんですか? わたし、ここで見た事は誰にも話しませんし。人体模型を取りに来ただけですので、すぐに退散しますよ?」
「――……」
項垂れていた先輩が顔をあげてわたしを見た。何かを推し量るような、考えているような眼。
さらりと癖のない先輩の前髪が、鼻先に触れそうに近い。
「早坂」
近い! お顔が近い!
「おまえ、俺のことどう思う?」
「え?」
「嫌いなタイプとか、生理的に受け付けないとか、あるだろ?」
先輩を生理的に受け付けない女子がいたら、わりと真剣にお目にかかりたい。
「先輩は――す、素敵ですよ」
お世辞のほうが戸惑いなく言えたかもしれない。突然、本人に積年の憧れを語ることになってしまい、めちゃくちゃ恥ずかしい。声が上ずってしまい、顔に熱が集中する。
「――早坂」
「は、はい!」
「ちょっと、俺と一緒に来てほしい」
「え? でも、わたし、人体模型を持っていかないと」
先輩はすぐにジーパンのポケットからスマートホンを取り出した。通じた先に端的に何かを伝えて、再びポケットにしまう。
「知り合いに頼んだから大丈夫。俺と来て」
豪奢なドレスを着たお姫様を小脇に抱えたまま、先輩が固まっているわたしの腕を取った。