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作者: あさな

9/4 誤字脱字訂正しました。

ご報告くださった方、ありがとうございました。

 呪い、だったのだと思う。

 それは、愛、という名のとても強い呪い。


 キャスリン・ヘイワードは幸福な女の子だった。

 国王陛下の弟であるヘイワード公爵を父に持ち、母と兄二人に可愛がられて育った。何不自由ない豊かで静かで満ち足りた暮らし、平民の娘の憧れをそのまま詰め込んだ貴族のお姫様。

 しかし、その幸福は彼女が五歳の時に終わりを告げる。

 国王陛下の次男クリストファー・ローウェル殿下との出会いが彼女のすべてを変えた。

 クリストファーはそれはそれは愛らしい王子だった。第一王子であるルーサー殿下は国王陛下似で幼い頃から武骨ともいえる男らしい顔立ちなのに対して、クリストファーは王妃殿下似で柔らかい印象を受ける。身体もあまり強くはなかったので室内で過ごすことが多く、ほっそりとした体躯と色の白さから女の子と見間違われることもしばしばである。

 キャスリンはクリストファーの遊び相手として王宮に招かれた。

 本来であれば男児の方がよいのだろうが、前述の通り病弱なクリストファーには大人しい女児の方がいいだろうと、同じ年の従兄妹であるキャスリンが選ばれたのだ。ゆくゆくは二人の婚姻をという思惑もあったのだろう。


「まぁ」


 クリストファーと対面したキャスリンは息を呑み、そして次に感嘆した。

 大人にとってクリストファーは「愛らしい」だが、同じ年のキャスリンには「美しく」見えた。これまで見てきたどんなものよりも美しい。

 圧倒される幼女の姿は周囲には微笑ましいものとして映った。


「キャスリンったらクリスに見惚れて。好きになったのね、おませさん」


 皆が思っていたことをはっきりと唇に乗せたのは王妃殿下だった。悪意や揶揄からではなくキャスリンの反応が本当に可愛らしく感じられて告げたのだろう。――ただし、繊細さに欠く発言である。

 美しいものを美しいと思う気持ちは好きとは違う。

 キャスリンがクリストファーを見てこぼしたため息にはそこまでの感情はなかった。絵画を眺める時のように、花に触れた時のように、純粋に美しいと思っただけで、それ以上のものはない。もちろんそこから少しずつ好きという感情を芽生えさせていったかもしれないが、大人たちはキャスリン自身がその過程を辿る前に早計にも答えを突き付けた。幼かったキャスリンはあまりにも無防備に素直にその言葉を浴びてしまった。いや、キャスリンだけではない。クリストファーにもまた同様の楔を打ち込んだ。

 クリストファーは人形のような整った顔を少しも崩すことなく自分を好きだというキャスリンの傍に寄った。

 キャスリンの薄い茶色の大きく澄んだ目がその様子を見つめる。


「君、僕のことが好きなの? ……それじゃあ、一緒に遊んであげるよ」

「……うん」


 クリストファーの表情はやはり動かない。何を考え何を思っているのかわからないまま、キャスリンは差し出された手をおずおずと握った。

 二人の小さな手が触れあった瞬間――キャスリンはクリストファーを好きであり、クリストファーはキャスリンに好かれている――と互いの中でも確かな真実になった。

 これが、すべてのはじまりである。

 はじまりが、いかに大事か。

 恋愛は惚れた方が負け。そうとも知らずに無垢で無知だったキャスリンは、愚鈍な大人たちがお膳立てした入り口を通って恋をはじめてしまったのだ。



 といっても最初二人の仲は良好だった。

 健康上の問題から気軽に王宮から出られなかったクリストファーは同じ年の子と遊んだ経験がなかったのでキャスリンの存在は助けになり、キャスリンもたくさんの本を読み勉学に励んでいたクリストファーの話は興味深く面白かった。まだまだ幼い二人は、性別など関係のない気楽な友人として蜜月を過ごした。

 この日々が、やがて本当に男女として変容していけば、或いは穏やかな恋となっていたのかもしれない。

 それを壊したのもまた大人だ。

 二人が遊んでいるところを見た者は決まって口にする。


「クリストファー殿下にお相手していただけて幸運ですね」


 クリストファーは王子であり、その妃になるかもしれないキャスリンは幸せ者――大人たちの目から見た事実だった。心から祝福している者もいれば、やっかみから告げる者もいたが、問題はどういう心情での発言かではない。キャスリンがクリストファーに相手をしてもらっているという者はいても、キャスリンがクリストファーの相手をしているという者はいなかった。皆が、キャスリンを下に置いた。相手は王子であるのだから当然といえば当然だが……対等ではない二人。


 それが顕著に現れる出来事が起きた。

 キャスリンが六歳になったばかりの寒い冬の日だった。

 国王陛下夫妻は第一王子のルーサーを連れ隣国へ向かった。クリストファーも行く予定だったが、間が悪いことに前日から微熱が出て大事をとって留守番である。出掛けることが嬉しくて興奮し熱が出る――これまでもあった。もっとずっと小さかった頃こそ泣きわめいて駄々をこねたが、そうやっても連れて行ってもらえないのは学んでいる。寂しいが諦めていた。

 それに今回の留守番はいつもとは違う。キャスリンが見舞いに来てくれるのだという。

 ところが――


「お前なんて嫌いだ! 帰れ!」


 クリストファーはキャスリンの顔を見るなり罵声を浴びせた。

 キャスリンは大泣きした。大好きなクリストファーに嫌いと言われて傷つかないはずがない。わんわん泣いて、廊下へ飛び出し帰りたいと訴えた。帰りたい、もうここにいたくないと。

 思えばこれが最初で最後となる叫びだったのに伸ばした手は空を切り、キャスリンの訴えが聞き入れられることはなかった。


「クリストファー殿下はご気分が悪いのですよ。だからキャスリン様は殿下に優しくしてさしあげなくてはなりません。帰りたいなど冷たいことは言っては駄目です」

「でも、クリス様はわたくしのこと嫌いだっておっしゃった! わたくしに帰れとおっしゃったのよ!」

「殿方は時々そのようなことを言って甘えるのですよ。それを真に受けてはいけません。笑顔で許してさしあげるのです。殿下がお好きなのでしょう? ならば尚更です。それともこのまま帰って本当に殿下に嫌われますか?」


 侍女たちはクリストファーではなく、キャスリンを宥めた。

 でしゃばらず、逆らわず、歯向かわない――淑女としての嗜み、貴族の令嬢として、第二王子の妃候補として必要なものだと諭した。それは一つの事実であるが、クリストファーを叱りつけ不敬となっては困るから、もっともらしい言い分でキャスリンを言いくるめることにした。彼女たちの立場を考えればそれもまた責められはしないが、キャスリンとてまだ幼子、庇護され甘やかされ感情の処し方を少しずつ学んいくべき年齢に、我慢しろと強いるそれがいかほど酷か。

 この時、それでも嫌だと抵抗するべきだったが、大人しいキャスリンに反発する力はなかった。周囲から大切にされ愛されてきた彼女には「嫌われる」――それも大好きなクリストファーに――ことはとてつもない恐怖に感じられた。


「クリス様」


 クリストファーの部屋をもう一度訪ねた。

 不安そうに様子をうかがいながら、まるで自分が悪いことをしたという態度で声をかけた。

 クリストファーも気まずそうにキャスリンを見ていた。彼は愚か者ではない。八つ当たりをした自覚はあったが、どうすればいいのかわからなかった。

 怒っていいはずのキャスリンが心配そうに尋ねてくる姿は奇怪である。


「クリス様……ご気分はよくなりましたか?」

「え?」

「ご気分がすぐれなかったのでしょう?」


 クリストファーは、じっとキャスリンを見つめた。

 薄茶色の大きな目が揺れる様を、じっと。

 

――わたくしを嫌いでなさったわけではないのでしょう?


 目は口ほどにモノをいう。

 クリストファーははっと息を呑んで、そして頷いた。その通りだと、気分が悪かったのだから酷いことを言ったのは仕方ないと、それは自身のしでかしたことを正当化するものだった。狡猾だが、幼い彼にそこまでの自覚があってのことかといえば、おそらくはなかった。謝り方がわからなかったから、つい謝らないで済む選択に逃げたにすぎない。楽な方に流されることで損なわれるものがある。この出来事は、クリストファーの中に歪な影を落とした。

 一方でキャスリンは安堵して笑った。笑いながら舌先に痺れるような痛みが走り、キリキリと何かが軋む音がしたがそれは知らないふりをした。


 以降も似たことが起きるたびに、キャスリンは諭された。


「クリストファー殿下は本気でおっしゃっているわけではありませんよ」

「殿方というのは時々意地悪をしたりするものです」

「きっと照れて冷たい態度になってしまったのでしょう。怒ってはなりません」


 素っ気ない態度をとられるのは辛いが、好きな相手に嫌われることの方が辛い。聞かされた言い分を信じればクリストファーに嫌われていないことになる。キャスリンは傷つけられたことを主張するより我慢する道を選び続けた。

 一つ心を殺すと見返りを求めるようにクリストファーへの執着は強まった。

 膨れ上がっていく執心は、キャスリンの心を蝕んでいった。


 それは、まさしく呪いだった。

 愛という名の、愛されているという名の、呪い。

 

 誰か一人でも、愛されていないと、そんなものは愛でも何でもない、我慢せず自分の尊厳を守れと告げる者がいれば、彼女は救われたのかもしれない。だが、呪いは解かれることがないまま、月日だけが過ぎていった。

  





「先程、クリストファー殿下をお見かけしましたの。目が合うと微笑んでくださったのよ!」

「私なんて今朝ご挨拶しましたのよ。お名前も呼んでくださったわ!」


 十三歳になったクリストファーは健常といえるほど元気になり貴族の子らが通う学院への編入が決まった。一年先に入学していたキャスリンと同じクラスである。

 編入生は珍しくそれが王族となれば注目の的。しかもクリストファーは美貌の持ち主であり加えて話しかけてくる者たちに優しく接した。長らく閉鎖された世界で生きてきた彼には、学校という場所が楽しく、広がっていく交友関係を大切にし、すぐに人気者になった。

 特に令嬢たちを虜にした。

 キャスリンが最有力の婚約者候補であるというのは周知の事実だったが、世話を焼く彼女にクリストファーは素っ気ない。他の学生に親切なぶん目立つ。二人の仲はうまくいっていないのではないか? ならばチャンスだ。令嬢たちは自分の願望も手伝ってそう解釈し、クリストファーへのアピール合戦が開始された。

 その様子を当然キャスリンも目撃する。

 別の令嬢を好きになってしまうのではないかという心配が彼女の心を黒く染めていく。二人きりの日々の中では感じることのなかった激しい感情――得体のしれない獰猛な生き物が蠢いて落ち着かない。キリキリと奇妙な音と、身体中が締め付けられていく感覚にぎゅっと強く目を閉ざす。

 

(クリス様は誰にでもお優しい)

(みんなに平等の笑顔で接していらっしゃる)

(気にすることはないわ)


 胸に両手を置いて呼吸を整えながら、丁寧に現実を押さえていく。

 それでもキャスリンの心は晴れない。


(他の方にはお優しいのに、どうしてわたくしには冷たいの?)


――いいえ、


(いいえ、そうではないわ。わたくしとは気心が知れているからこそ甘えていらっしゃるのだわ)


 のど元まで上ってきた不満はすぐに否定された。

 「一人だけつれなくされる」と嘆くのではなくそこに特別を見出す。危うい発想であるけれどキャスリンには自然なこと。ずっと言い聞かせられ染みついて慣れ親しんだ思考だった。

 確かにそれは「特別」かもしれない。特別とは何もよくされるばかりではない。それでも、こんな寂しい特別を喜ぶなど悲しいと思う。哀れだと思う。彼女にとってクリストファーへの恋心は我慢することとイコールになっていた。

 捨ててしまえばよかったのに。

 素直に不満を膨らませて、クリストファーの冷淡な振る舞いは愛情の裏返しなどではない。きちんと優しくできる人なのにそうはしてくれないのなら、好かれてはいないのだと諦めてしまったらよかったのに。

 キャスリンもそろそろ周囲の者たちに流されてばかりの幼い子どもをやめるチャンスだった。

 けれど、そうはならなかった。我慢していれば、報われる未来があると信じていたわけではない。勇気がなかったのだ。長い時間をかけて持ち続けてきた恋を、失うには勇気がいる。辛かった日々が、何の意味もないただ理不尽なだけのものだったなど、そんなこと受け入れたくない。

 キャスリンは建設的な未来を築くという発想も、手段も、持っていなかった。

 嫉妬、憎悪、苦々しい思い。

 それらを飲み込み、飲み下し、誤魔化し続ける。

 本当に哀れだと思う。愚かな者だとも。

 内側から何かが削がれていく。確実に擦り減り零れ落ちていくものをとめる術もなく、ただ我慢するばかりの日常は、更に三年続いた。






 十六歳。運命は大きく動く。


 クリストファーが特別親切にする令嬢が現れた。

 名前をエミという。

 彼女は異世界からやってきた「聖女」と呼ばれる存在だ。かつて続く干ばつや疫病により国家が危急した際に現れて貧困に苦しむ者たちを救ったとされている。この国が農業と医療に長けているのも聖女の教えによるものである。伝説となりつつあった存在が再び現れた。国王陛下の命で、彼女は手厚く保護されている。

 学院に通いたいと申し出たのはエミからだった。

 不慣れな彼女を助けるのはクリストファーである。国賓を国王陛下の子息が面倒を見るのは当然の成り行きだ。 

 エミはこの国において奔放な娘だった。少々乱暴とも思える砕けた口調で話す。クリストファーのことをクリスと愛称で呼び捨てにする。クリストファーと親しくしている子息たちのこともそうである。婚約者でもない殿方を愛称で、それも呼び捨てるなど淑女にあるまじき態度だ。

 それにエミはクリストファーの機嫌を伺うことなく言いたいことを言う。


「人はみんな同じ。男女平等。それがあたしの暮らしてきた世界のルールなんだから」


 エミは胸を張って、いつだって堂々としている。

 世界が違う。殿方を立てるべきと教え込まれてきたキャスリンをはじめとした令嬢たちと、エミとでは立っているフィールドが。何を常識とし、何を大事とするかを異にし、この世界にはない価値観を貫くエミは、白い薔薇の中に一輪だけ赤い薔薇が混ざり込んだように目を引く。クリストファーもエミを眩しそうに見つめるようになった。彼女から語られる夢のような話ーー鉄製の空飛ぶ乗り物や、何百キロと離れた場所にいる人と話ができる機械ーーに興味を持ったというのもあるけれど。

 だが、エミの振る舞いが許されているのは彼女が聖女だからである。でなければ、たとえ異世界から来たとしても慎みのない態度をすれば無礼千万と処罰されていただろう。

 そのことに子息たちよりも令嬢たちの方が鋭敏に反応した。

 当然である。彼女たちとて殿方の理不尽に怒りを感じることもあったが、感情的になることをよしとはされないからこらえてきたのだ。反論してよかったのならそうしたかったことが山ほどある。この価値観の中で育ち、周囲から圧力をかけられながらも抵抗してきた革命者というなら一目置くのも納得できるが、そもそも好きに言いたいことを言えて生きてきたエミが、ここでも同じようにして、やはりそれを注意されることもなく、素晴らしいと褒められては不快にもなる。何故、彼女だけ特別なのか。何故、特別に許容されている上にその態度を称賛までされるのか。いきなり異世界へ飛ばされたエミには令嬢たちにはわからない不満や不安があるのだろうけれど、そこに同情するよりも不愉快さが勝った。――結果、彼女は令嬢たちからは遠巻きにされる。そうなれば慣れるまでのはずがクリストファーがずっと傍にいることになる。羨望の王子を独占するエミに、他の令嬢の気分はますます害される悪循環。


「聖女だからといって、少しばかり勝手しすぎではないかしら」

「クリストファー殿下がお優しいのをいいことに、ずいぶん馴れ馴れしいわね」


 ささやかれる悪口。

 ひらたくいえばやっかみだ。

 婚約者最有力者のキャスリンには向けられなかったのに、エミにはあからさまな悪意が向かう。彼女がそれだけ脅威という証。そのことが更にキャスリンを傷つけた。

 ぐらぐらと足元が揺らぐ。


 自分はいったい何なのだろうか?


 キリキリと軋む音がする。何処からかわからない。いたるところから、締め上げる音。

 キャスリンは指を組んだ。強く強く。爪先が白くなるほど。

 願いは浮かばないけれど、何かを願わずにはいられなかった。


 キャスリンの胸中など知ることもない令嬢たちは、不穏な空気がいよいよ高まってくるとエミに注意するよう頼ってきた。国賓のエミに面と向かって発言するのなら身分が必要。学内にいる令嬢の中で一番力のある公爵家の娘のキャスリンに白羽の矢が立ったのだ。

 ノブレス・オブリージュ、高貴なる者は規範となる振る舞いをし、それを乱す者の対処をしなければならない。それが役目の一つ。こんな時ばかりあてにされるのは釈然としないが断れない。キャスリンは放課後に人気のない裏庭へエミを呼び出し対峙した。


「エミ様が異世界から来られたことは承知しておりますが、こちらの世界にもこちらの慣習があります。令嬢の振る舞いとして、婚約してもいない殿方の愛称を呼び捨てにしたり、腕を組んだりする行為は褒められたものではありませんわ。おやめになったほうがよろしいかと思います」


 なるべく穏やかな口調で告げたが。


「何それ? 別にいいでしょ。あたしが望んできたわけでもないのにその上まだ我慢しろって? 冗談じゃない。これくらい普通だし。だいたい、クリスたちが迷惑って言ってたわけ?」


 エミは険のある声音で返してきた。


「い、いえ。そうではなくて……」

「なんだ、違うの。だったらあなたにとやかく言われる筋合いないと思うけど? 勝手に人の気持ちを代弁するなんてそれこそ褒められた行為じゃないじゃん。……あなた、クリスのことが好きなんでしょ。いっつも物欲しげに見てるものね。だから、親しくしてるあたしが気に入らなくて文句言いたいだけ。それをいい人ぶって間違いを教えてあげる優しいあたくしって感じで取り繕ってるつもりなんでしょうけど、嫉妬してるのなんかバレバレなんだよ。みっともない。卑怯な奴。最悪」


 キャスリンは言葉を失った。

 言うように、クリストファーへ接触しすぎなことを不満に感じていたのも事実だが、他の令嬢との関係が悪化し続けるのはよくない。もう少し周囲に気を配り、この国のルールを慮ることも必要ではないか。ここはエミの暮らしていた世界ではないのだから、歩み寄ることも考えた方がいい――忠告は間違いなく親切心だったのに、彼女には全く伝わらず、いい人ぶっていると非難されたのだ。

 何より、物欲しそうにしていると指摘されたことに羞恥した。

 自分は、そんな顔をしていたのだろうか? 

 恥ずかしかった、とても。

 それでも、けして視線を逸らしてはならない。それはエミの言っている内容が図星だとみなされるから――堂々と訂正して、本当にあなたのためだと言うべきだった。しかし、キャスリンにはそこまで考える余裕はなかった。朱に染まった頬を見られたくなくて俯いて内頬を噛んだ。

 ひんやりとした風が、吹き抜ける。

 エミはやり込めてやったと満足そうに、ふんっ、と息巻いて去って行った。

 

 だが、これだけで終わらない。

 翌日。朝のホームルーム前、ほとんどの生徒たちが揃った教室の教壇にエミが立った。


「聞いて! 昨日の帰りにキャスリンさんから裏庭に呼び出されて言われたの。男性を名前で呼び捨てたり、腕を組むのはいけないって。ねぇ、クリス。それからみんなも、あたしにそうされるの嫌? 嫌だっていうならやめるわ。でもそうじゃないならもうあたしのすることにあれこれ言われたくないの。だから、ここではっきりさせましょう。正々堂々とね」


 最後の言葉はキャスリンへの当てつけだ。

 キャスリンが人気のない場所に呼び出したのは後ろ暗い気持ちがあるからではなく、エミに恥をかかせないようにとの配慮からだった。こっそりと二人だけの話でおさめておこうと思いやりであったのに、まるで陰で虐めていると誤解されるような言い方をするとは彼女にこそ悪意がある。

 第一、エミは昨日面と向かって言い返してきた。あれであの件は終わったはずではないか。自分が僅かも悪いと思っていない行動を注意されればおもしろくないのはわかるが、更にはこんな形で反論されるとは思わなかった。


「どうかしら、クリス」


 エミは問いかけた。その表情は自信満々である。クリストファーが嫌と言うなど微塵も思っていない。そもそも心配があるならこんな真似はしないだろう。

 

 クリストファーに視線が集中する。

 キャスリンも、見つめた。


 キリキリとまたあの軋む音がする。

 

 クリストファーが立ち上がり、ゆったりとキャスリンを見た。

 こんな風に、向き合うのはいつ以来だろう。

 場違いにも懐かしさが込みあげて、同時に悲しくもなった。


 キリキリと音は止まない。


 たぶん、きっと、予感があったから。

 クリストファーが誰の味方をするか。


「お前は、いったい何の権利があってエミにそのようなことを言った?」


 冷ややかな声が、キャスリンを貫いた。


「わ、わたくしは……」

「私が任されている令嬢に注意をするなど、私を侮辱しているのと同じだ。婚約者ならまだしも、婚約者候補の一人にすぎないお前には関係がないことだろう。どうなるかもわからないのに勘違いするな」


 ざわざわと教室内が揺れた。

 それまでも、クリストファーの態度から察するものはあったが、面と向かって、それも公の場で、キャスリンについてどう思っているかを発言されることはなかった。それが――どうなるかわからない――公爵令嬢で尚且つ年齢も同じキャスリンはこれ以上ないほどふさわしい婚約者となる。申し分ない彼女を問題ありとするならば、それはひとえにクリストファーがキャスリンを気に入らないということだ。


 言葉にされなかったからこそ、信じることができた。

 クリストファーは甘えているだけ。

 彼の態度は愛情の裏返し。

 無理やりにでも、そう思うことは出来た。

 だが。


(ああ、)

(ああ、そうでしたの)

(そうですわよね。わたくしだって本当は……本当は、知って、)


 キリキリと鳴った。

 心臓が、肺が、胃の腑が、身体中が。

 キリキリと締め上げて、どんどん大きくなり、鼓膜が破けそうになって、そして――


 パリンッ


 最後にとても綺麗な音が響いた。




 一瞬、世界が真っ黒に暗転して、次に目を開けた時、私は重力というものを強く感じた。

 

 目の前にはクリストファーがいる。

 私の発言を待っている。

 私の、いや、キャスリン・ヘイワードの、だけれど。

 でも、彼女はいない。彼女の肉体に、彼女としての魂は、もう。代わりに私が表に出たのだから。


 ずっと見てきた。

 それは不思議な感覚だった。いつからだろうか、気づけば当たり前のように、私はキャスリン・ヘイワードの中にいた。二重人格、精神分裂というのとは少し違うと思う。おそらく輪廻転生する際に何らかの不備が起きて前世の記憶を残した魂が混ざり、キャスリンの中で以前の人格が目覚めてしまった。それが私だ。

 そして、たぶん私が私として生を謳歌していたのはエミのいた世界と同じだ。彼女の絵空事のような現実離れした話――空飛ぶ鉄の塊は飛行機だし、遠く離れた相手に声だけでやり取りが出来るのは電話だ――を把握できたから。

 エミが異世界トリップしたのなら、私は異世界転生した。

 でも、長らく私の人格が表に出ることはなかった。

 私は、キャスリンの中で、彼女を見守ってきた。

 苦しい恋をしてきたことの、そのすべてを。

 


 呼吸をすると喉に空気が通る。うまく声を出せるか不安があったが。


「出過ぎた真似をして申し訳ございませんでした。エミ様も……この国で暮らしていくならば必要なことかとお伝えしましたが、わたくしが浅はかでございました。どうぞ、お好きなようになさってください。今後、一切、わたくしが口をはさむことはいたしません。本当に申し訳ございませんでした」


 言い終え、私はクリストファーとエミを交互に見た。

 そして、深々と頭を下げる。


 

 雁字搦めにされた、哀れな恋だった。

 呪いのような、悲しい恋だった。


 もし、彼女と話すことができたら――言っても詮無いことだけれど、話すことができたなら、私は彼女にかけられた呪いを解いてあげたかった。もっと幸せな、もっと楽しい、そんな恋があると教えてあげたかった。

 公爵令嬢の身では自由恋愛など難しいけれど、それでも他にあったはずだ。

 けれど、当の本人は少しもやめようとはしない。

 人は成長する。その中で自分に必要なものを見分ける力を身に着ける。でも、キャスリンはいつまでもこの恋にしがみついた。そういう風に追い込まれてしまった部分もあるけれど、抗おうとしないことが歯がゆくもあった。

 どうして、どうして。

 もうやめた方がいい。

 次第に私は苛立ち、それから呆れもした。そうしながらも、何処かでは羨ましくもあった。かつての私の人生にはない一途さは眩しかった。複雑な思いで、見守った。

 でも彼女はいなくなった。

 恋に破れて、消えてしまった。

 私は、あなたを、キャスリン・ヘイワードを、好きだったのに。



 ぜんぶ、おわった。

 もう、すべて、おしまいだ。



 たっぷりと時間を取って顔を上げる。

 教室内は不気味なほど静まり返っていた。私は周囲を素早く眺めて、それから再びクリストファーを見た。

 おしまいだから、言っておかなければならない――キャスリン・ヘイワードのために。


「最後に一つ。クリストファー殿下。五歳で初めてお目にかかってから、今日まで、ずっとお慕い申し上げておりました」

 

 クリストファーがキャスリンに告げなかったように、キャスリンもクリストファーをどう思っているか言葉にして告げることは一度もなかった。けれど、彼女は、ずっと、ずっと、どんなときも、何があっても、貴方を好きでいたのだと。


 貴族の令嬢としてあってはならない振る舞い。公衆の面前で、振られた相手に尚好きであったと告げるなど恥の上塗りである。

 きっと、しばらくは噂の的になるだろう。

 それでもいいと思ったのだ。

 恥をかくなど大したことではない。誰にどんな風に見られてもかまわない。それよりも残したかった。そうすることで守ってあげたかった。――彼女の恋を、ここに恋があったことを。


 これが、私ができる唯一の弔い。


 こうしてキャスリン・ヘイワードの長い長い恋は終わり、残された私は彼女に成り代わって生きていくことになった。






 

 









 取り返しがつかないことを、私が生きていた世界では後の祭りという。



 新しい日々は少しばかり大変だった。

 キャスリン・ヘイワードの中で彼女の暮らしを見守ってきたが、実際に彼女として生きるとなると慣れるまで時間を要した。知識としてあるのと経験してみるのとは別というやつで、たとえばカーテシーという挨拶はなかなか筋肉を使うのだなとか、身体のラインを美しく見せるためのコルセットが思っているよりきつくて食事をとるのに苦労するとか、そういう細々としたことは味わってみないとわからないものだ。

 それでも一月もすれば大方のことはこなせるようになった。


 懸念していた噂は意外と私へ同情的なものとしてささやかれた。

 まずエミの教壇での発言だが、嫉妬にかられたキャスリンがエミに嫌がらせをした結果、クリストファーに叱責されて振られたのだという風に面白おかしく触れ回られるかと思ったが、きちんと内容を理解し、二人きりで話をした意図も伝わり、むしろ逆恨みして自分が正しいと言わんばかりに断罪しようとしたエミが滑稽だとされた。それには、エミを注意するよう頼んできた令嬢たちの援護もあったのだろう。自分たちのせいでキャスリンがあんな形でクリストファーに否定されてしまったという罪悪感が、これ以上の笑い者にさせるわけにはいかないと罪滅ぼしの気持ちを生んだのだ。


 クリストファーについても、がっかりしたというのが多くの者たちの意見だった。

 これは後になって知らされたのだが、どうやらエミの態度については王宮からも難色を示す声が高まっていたらしい。

 エミはいかに自分がいた世界がこの世界よりも文明が進んでいるかという話――飛行機や、電話など――をするが、それを作り出す知識はない。絵に描いた餅は食べられない。彼女は空想を話すだけの、何の役にも立たない少女だった。それでも、せめて礼儀正しさでもあれば、伝説の聖女のように異世界から来たという事実を重んじ大切に扱われただろうが、いかんせん彼女は謙虚さがない。「聖女」の称号は返還させるべきだという者まで現れた。その話を知り、クリストファーは回避するため態度を改めさせようとエミに切り出すタイミングを計っていたそうだ。

 そこへ、先にキャスリンがエミを呼び出した。

 クリストファーは不甲斐ない自分への当てつけのように感じた。


「ですから、殿下はけしてキャスリン様をお嫌いであんな風に非難したのではないのですよ。キャスリン様も、もう少し時期を見て下さったら、きっと殿下がすべてを解決なさったのでしょうに」


 あの日の出来事を知ったクリストファーの従者たちが、いつものようにフォローという体裁をした、その実キャスリンを悪者にする言い分を伝えてきた。こんな無茶苦茶な話でも、キャスリンだったら自分のタイミングの悪さを責めていたのだろうと思えば悲しくなる。

 わかっている。

 彼らの言っていることは本当だろう。

 クリストファーは何もエミが正しいと思っていたわけではない。ただ、自分がするべきことを先にされてプライドが傷ついたのと、あの場でキャスリンの肩を持てばエミは反発して何をしでかすかわからないから、とりあえず場をおさめるためにキャスリンを責めた。

 ずっとそうしてきたから、キャスリンを踏みにじることを今回も許されると思った。

 周囲の重圧、キャスリンの弱さ、クリストファーの傲慢さ、すべてが絡み合い長い年月をかけて積み重ねてきた関係を信じ切って甘えた。

 でも、彼女はもうたえられなくなった。

 彼は、踏み越えてはならない線を越えたのだ。



 そして、その線を越えたことに気づいたのだろう。



「キャスリン」

「……はい、クリストファー殿下。何かご用でしょうか」


 放課後、声を掛けられた。

 クリストファーの探るような眼差しを私は見つめ返した。


「……あ、ああ。明日の茶会にはくるのか」

「はい。王妃殿下よりお招きを受けておりますので」

「そうか」

「お話がそれだけでしたら、これで」


 背を向けて歩き始めても、見つめられているのを感じた。

 追いすがるような、そんな気配。


 これまでキャスリンが茶会に参加するかどうかなど聞いてきたこともないのに、あの日以来ずっとこんな感じで、話すきっかけを見つけては声をかけてくる。

 まるで、キャスリンがきちんとそこに存在していることを確認するように。

 そんな彼に、今更何だという怒りは不思議と感じなかった。


 だって、私は知っていた。


 二人が初めて会った日。運命の日。

 クリストファーを見て息を呑んだキャスリンだったが、キャスリンを見てクリストファーもまた見惚れていたこと。ただ、表情に出なかっただけで、触れ合った彼の手は緊張から震えていたこと。

 彼は、キャスリンを好きだった。

 彼の方こそキャスリンを好きで、キャスリンに好かれていることが、自慢であり自信にもなっていた。

 その証拠に、素っ気ない態度をとりながら、キャスリンの気持ちが本気で離れて行きそうになると引き留めようとした。気紛れに贈り物をしたり、仏頂面をしながらもダンスに誘ったり――それは周囲に言われて仕方なくしているとも見えるが違う。あれこそがクリストファーの本心だった。従者たちが告げる言い分は事実だったのだ。

 そう、私は知っていた。

 だから、キャスリンは我慢し続けた。素直で、愚かで、一方的な恋にしがみつく惨めな女の子ではなかった。クリストファーの本音を、本能的な部分でわかっていたからいつもギリギリで踏みとどまった。そうでなければ、自分を好きでもなんでもない相手をこれほど長い時間思い続けることはできない。キャスリンの中にいた私は、彼女にもっと幸せな恋をしてほしかったからこんな恋は捨ててしまったほうがいいと思ったけれど、目には見えない強い絆が二人の間にあったのも真実だ。

 でも、時に真実より現実の方が強い。クリストファーの態度はやはりキャスリンを疎んじていると解釈する方がずっと自然で、周囲の者たちが諭してこなければとっくに終わっていただろう。――或いは、周囲の者たちがいなければ、二人の恋は別の入り口を通り、そうすればこんな歪な関係にならず、幸せな恋として睦まじくしていたのかも。

 すべては今更で、仮定の話などしても仕方ないけれど。

 好き合っていても、うまくいかないことがある。

 恋は二人でするものだから、他人が口を挟めば壊れてしまう。

 二人の恋は、まさにそうだった。

 それでも、いつ崩壊してもおかしくない土台の上で、グラグラ揺れ動きながら、延命を重ねて、重ねて、重ねて……それは執念だったのかもしれない。どうしても離れたくない二人の意地だったのかも――けれど、その微妙なバランスはついに崩れた。クリストファーが見誤りキャスリンは消えた。

 残されたクリストファーは、そのことをわかっているのだろう。私が彼を見る目に、キャスリンが彼を見ていた時の熱量がないことを気づいている。気づきながら、信じられずに、信じたくなくて私の中にキャスリンを探そうとしている。

 きっと、見つかるまで探し続けるのだろう。


 それもまた、呪いなのかもしれない。

 後悔という名の、とても悲しい呪いだ。

読んでくださりありがとうございました。


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