目覚めるは
「唯愛さん、起きてください。」
目の前にある布団の塊をバシバシ叩く。
しかし少し動くだけですぐに寝息が聞こえてくる。
思わずため息をつく。
「唯愛さん、遅刻したら煙草屋の人にまた怒られますよ。」
再び叩くと、呻き声と共に大きく動いた。
ほっとすると唐突に中から伸びてきた腕に引っ張られ体勢を崩し引っ張った彼の胸に飛び込む形となった。
片手は腰をがっちりホールド。
片手は頭を無造作に撫で回した。
ちなみに付き合っていない。
「スミレ、ん。」
「はい。おはようございます、唯愛さん。」
唯愛と呼ばれた男が顔を近付けると、少女を少し照れてからその唇に控えめなキスを落とした。
「よく出来ました。」の声と共にキスが返される。
そこでようやく唯愛が起き上がった。
カーテンの隙間から射す日光が黒髪を滑る。
まだ眠そうに細めた目には青い光が揺らめいていた。
それに反するような少女の銀髪はベッドの下まで流れている。
19歳とはいえあどけない整った顔が眩しさに歪む。
唯愛を見つめる蕩けるような深紫の瞳には若干非難の色が混ざっていた。
ちなみに付き合っていない。
「今日も可愛いねスミレ。朝ごはんは何?」
「今日も愛していますよ唯愛さん。作っていません。」
「ところで今何時?」
「午前10時です。」
それまで耽っていた唯愛が途端に慌ててベッドを降りる。
スミレはその後ろを、アヒルの子よろしく、よたよたと着いていく。
唯愛がヨーグルトをかき込んで、着替えてリュックを背負う。その間、スミレは彼の一挙一動を目で追っていた。
執拗いようだが付き合っていない。
「今日は20時に終わるから。それまで良い子にしていて、スミレ。」
「はい。良い子にしています。」
「行ってきます。」と囁いてまたキスをした彼はそのまま部屋を出た。
スミレはその場で少し惚けてからベッドに戻って本の山を相手にし始めた。
どれも詩集のように見える。
何十回と読み返し、飽きつつあるが、それしかスミレの娯楽は許されていなかった。
唯愛の話した事だけがスミレの知識であり、
唯愛と出掛けた場所だけがスミレの箱庭であり、
唯愛の命令した事だけがスミレに出来ること。
つまり、スミレにとって唯愛は絶対無二の神様であった。
それは9年前、スミレが唯愛に攫われた日からずっとそうだった。
それ以前は何をしていたのかも、本当の名前すら知らない。
真っ白になってしまった自分の世界に「スミレ」という名前を、やるべき事を示してくれたのは他でもない唯愛である。
たとえ記憶を奪ったのが彼だとしても
もうスミレには唯愛以外に縋れないのだ。
唯愛
スミレと一緒に暮らしている。スミレを9年前に誘拐した。この間バイト先に遅刻して大目玉をくらった。
スミレ
唯愛絶対主義者。9年前に誘拐された。それ以前の事はよく覚えていない。最近、唯愛がバイトばかりで構ってくれないので寂しい。