前編
帰還兵ネタ大好き。
「何をしている!」
祠を拭いていた男に後ろから鋭い叱責が飛んだ。
振り向くと少年のように髪を刈った女性が仁王立ちで睨みつけている。
「お住持さまが蓄えておかれた食料を嗅ぎつけてきたのか?」
「天神さまの祠を拭いていたんだよ」
復員服の青年は、マスクでくぐもりやすいので明瞭な声を意識して応じた。
「ふん、食料の匂いにつられた野良犬とは違うようだな」
南方帰りの青年を値踏みする目で見て、白と判定を下した。ずいぶんと居丈高な女性である。
「だが、余計なことはするなよ」
「余計なこととは?」
マスクで顔を覆った青年は解せなかった。
自分は咎められる行為などしていない。戦場で所属部隊が全滅の憂き目にあうも命を拾い、やっとの思いで帰り着いた故郷の町が空襲で見る影もなく焼き払われていたのには肩が落ちる思いであったが。
「瓦礫の下敷きになっていた天神さまを見つけたので、せめてきれいにして差し上げようと思っただけだが、それが気に障ったかい?」
「障ったとも。疫病神なんかに構うな!」
「疫病神とはなんだ!」
青年は真っ向から睨み返し、両者の空間に稲妻が走った。
気の強さでは女に分があるようで、物理的な圧迫感すら伴う眼力でグイグイ押してくる。青年の額に後悔の汗がにじんだ直後、なぜか女が先に目をそらした。
「この土地の出身か?」
「ああ、ビルマで終戦を迎えた」
「ならば求道寺に一度ぐらい参拝したことはあるだろう。ここが求道寺があった場所だ。そして、君が物好きに泥を落としてやっていた祠が、鎮守社として境内に祀られていた天神社だ」
知っている。願掛けをしたからここへ戻ってきたのだ。
生還の報告と、会うべき人との約束を果たすために。
「こんな片田舎も空襲に晒され、求道寺は焼け落ちた! 本堂も本尊ごとな! その天神の祠だけを残して!」
女が腹を立てている理由が見えてきた。
「神様が町の人を見捨てたと思っているのか?」
「鎮守のくせに自分だけ助かる神などあるものか」
「僕は五体満足とはいかずとも生きて帰ってこられた。第一、このお社を目印に帰ってくる御霊はどうなる」
「今は神や霊より人を救うのが先決だ。町民は飢えている。一日一回、何かを口に入れられればマシなほうという有様だ」
「配給の食糧が届かないとは聞いた」
「たった今、水晶橋が崩落した。町と外界を繋ぐ最後の橋だった」
他の橋はすべて青年が帰郷する前に焼け落ちていた。
船も不足していて数を揃えるのが難しく、人力で担いで渡るには川幅も水深もあり過ぎる。いわば町は陸の孤島と化していたのだ。
「求道寺のお住持さまは、こういう事態に備えて、境内に地下壕を掘って百人が十日は食い繋げるだけの食糧を保存しておかれた。だが、見ろ!」
女性の指さす先を見て、青年もあっと声をあげた。
天神社の前には小さな祠には不釣り合いなほど大きな石造りの鳥居が立っていたのだが、それが根元から倒れ、地下壕の扉にのしかかっている。
「祠だけ無傷だったのは偶然と看過できても、町の人間に飢え死にせよと言わんばかりの仕打ちも神の思し召しか?」
「だが……信心の放棄は心を捨てることと同じだ」
終戦の報を聞いてまだ三か月あまり、こと窮状下においてはリアリストの舌鋒は鋭く、青年に有効な反論を与えなかった。
「君だけが信心を持ち続けたところで無駄だ。檀家の承諾も得て、天神社の廃棄は決定されている。危険を承知で食料を抱えて川越えをしようと主張する者もいるというのに君は神様にすがってばかりで恥を知るがいい」
「僕だって、こんな体でなきゃ荷運びでも何でもやるさ」
被弾した右足を支える松葉杖を拾って見せる。
女性は一瞬、気まずそうな顔をした。
「名誉の負傷か。だが、君や兵隊だけが特別じゃない。日本中が深手を負ったんだ。傷んだ体でもできることを探したまえ」
「待ってくれ」
踵を返した女性に青年は呼びかけた。
「天神さまのありがたみを示せば、求道寺の再建が成った後にも、鎮守社として境内でお祀りすることを認めてくれるかい?」
敗残兵と形容するにふさわしい男の交渉などに耳を貸さぬかと見えたが、女性は立ち止まって逆に問いを投げかけた。
「ビルマで終戦を迎えたと言ったな。日高という男を知らないか?」
「日高……?」
「もういい」
「まだ答えてないんだが」
「せいぜい天神のありがたみを思い知らせる方法を考えておけ」
女性は今度こそ青年の視界から消えた。だが、彼は女が去った後も、はるか前方に置かれた物体を凝視していた。
緑のラインが走った白い箱。路面電車の車両だ。
家々が焼き払われた結果、町にたった一つある駅から求道寺まで案外近いことがわかった。目測では直線なら半キロあまりと見た。
「電気軌道か──」
中・後編は締め切りに間に合わせます。