チョコと冷めた珈琲
チョコ
目の前にある小さな包みは、三十五年間生きてきた俺には縁のないもので、多分これからも絶対にないものだ。
通い慣れた喫茶店、聞き慣れたラジオパーソナリティー、座り慣れた席、飲みなれた珈琲・・・幼馴染は見慣れない顔で俺の前に座り、二人の間には見慣れない小さな包み。
「で・・・」
重々しい雰囲気に耐えかねて声を出したものの、何を言えばいいのか分からず、開けた口に珈琲を流し込んだ。
「そのスーツ、買ったばっか?初めてみた」
仕立ての良いチョコレート色のパンツスーツは、幼馴染にしては珍しいチョイスだ。いつもは黒のパンツスーツしか見たことがない。
色気からは程遠い長身の細い体に、真っ黒のショートカット。薄化粧に切れ長の目と、いつもしっかりと結んだ唇。スッと伸びた背筋のバリバリのキャリアウーマンスタイルは見掛け倒しではなく、そこいらの男より仕事は出来る。俺なんか足元にも及ばないのは確実だ。
「どうせなら、髪も明るくしてみれば?」
ただ、コミニュケーション能力は低い。人見知りする俺より低い。それは昔からで、そのせいで要らぬ誤解や妬みやら嫌がらせやらを受けている。社会人としてそれなりの立場がある今でも、影では少なからず何かしら言われていて、その一部は他部所の俺の耳にまで届いている。
「たまにはイメチェンも良いんじゃない?」
そんな環境に慣れっこなのか、幼馴染は顔色一つ変える事なく淡々と働いている。俺がその立場なら、新人の肩書が取れる頃には辞めているな。
「・・・だからさ、お前のそんな顔、俺見たこと無いんだわ」
今までの幼馴染を思い出していたら、そんな言葉がポロッと出た。
「自分の事話さないのはいつもの事だけど、さすがに今日のこのシチュエーションはよく分かるわ」
ポロッと一言でたら、気を使っていたのがなんだか馬鹿馬鹿しくなった。
「二月十四日に、お前にしちゃぁお洒落して出勤して、仕事上がりにいつもの店に俺呼び出して・・・まぁ、決定打はこの小さな包みだわな」
英字新聞のような包みは、こいつの趣味じゃないのは分かっている。
「結果がその顔ならさ、告白するのを諦めないで、玉砕してくればよかったのに。そっちのほうが短時間でスッキリするだろう?どうせ、噂話なんか気にしないんだからさ、気持ち、ぶつけて来れば・・・」
ガサガサと包みを開けると、チョコ独特の甘ったるい匂いが鼻先を泳いだ。
「・・・した」
「だろう?ここまで用意したんだから・・・」
「・・・した。玉砕」
「へ?」
箱の中身に視線を奪われ、匂いに気を取られていたから、俺の顔はいつにもまして間が抜けてると思う。
「綺麗に玉砕した」
いつもの口調でハッキリと言い切った幼馴染は、泣き顔も凛としていた。
「・・・したの?告白?」
頷いた瞬間、その顔が大きく歪んだ。
「え?おい?」
初めてだった。幼馴染が涙を零すのも、こんなに大きな声を出すのも、初めて見た。
「おい、息、息しろ。呼吸、呼吸」
激しくしゃくりあげるその背中を擦るも、こういう時どうして良いのか分からない。店内の少なくない客は気を利かせてくれているのか、皆こっちは見ていなかった。
「仕事・・・」
「おいおい、泣きながら仕事の心配か?」
「仕事、教えてくれた。皆に嫌なこと言われても・・・気にするなって」
肉付きの薄い背中を擦る手に、躰の震えが伝わる。
「私の能力を認めてくれて・・・仕事で見返せって、私の内面・・・能力を見てくれた。私・・・私なんかが想いを寄せるなんて・・・でも、初めて認めてくれた・・・」
ああ、ずっと傷ついていたんだな。ずっと一人で踏ん張っていたんだな。
「わた、私なんかが・・・彼女になれるなんて思ってなかったけど・・・」
全部吐き出したのか、鼻を鳴らしながら目元を拭い始めた。
「人間関係は苦手で、大人しくしていれば、余計なことを言わなければ大丈夫って思って今まできたけれど・・・何でかな?昨日の帰りにたまたま入ったお店で・・・買っちゃった」
自虐的な笑みを浮かべて、テーブルの上に投げ出した箱を手にした。
「買ったら・・・気持ちを伝えたくなったの。不思議ね」
買うのも告白も、相当迷っただろう。新人の頃から温めた気持ちを素直に伝えて・・・そう思ったら、今まで見たことのない幼馴染の姿や本心を聞いたら、なんだか胸が苦しくなった。就学前からの付き合いなのに、俺の知らない『幼馴染』が居ることに気が付いて、その事に気づいてやれなかったのが悔しいのか情けないのか・・・あんなに近くに、誰よりも長く側に居たのに・・・。
「・・・少しは、スッキリしたか?」
「うん、ごめんね」
腫れぼったい瞼に、真っ赤に充血した目。小さな鼻まで真っ赤にして笑うその顔は、俺の知らない幼馴染だった。
「え、ちょっと・・・」
俺は幼馴染の手にしていたチョコを、両手で掴んで一気に頬張った。瞬間、ほろ苦くて甘いチョコの味が口いっぱいに広がり、香りが鼻から抜けた。それを満足に味わうこともせず、冷めきった珈琲で一気に流し込んだ。
「どうしたの?」
「いつもしまっていた気持ち、外に出したんだろ。これ、お前が食べたら、また中に戻っちまうだろ」
もらうぞ。と断って、幼馴染の珈琲も一気に飲み干した。
「でも、甘いの苦手でしょ?」
驚く幼馴染に、俺は右手を差し出した。
「だから、お前から、甘くないチョコが貰えるように何年でも頑張るから・・・友達からお願いします」
「なら、名前を呼ぶのがセオリーね」
見慣れている顔なのに、泣き腫らして優しく微笑むその顔は知らない顔で、そんな幼馴染から目が放せなくなった。
終