白目薬
お楽しみいただければ幸いです。
しかしまさか、あいつまで白目薬にはまっちまうとはなあ。
仲間のうちでは、ちょっとはかしこい奴だと思っていたのになあ。
コーキは自宅の勉強部屋の端末を前に、独りくすくすと笑いをこらえられずにいた。
今日の昼休み。
いつもつるんでいる友人の一人が、やけに深刻そうに声を潜めて「告白」してきたときには、もう、コーキにはすぐに「白目薬」のことだとわかってしまった。可笑しさをぐっとこらえて、友達思いの口調を演出しながらコーキは言った。
「お前!…バカだなぁ、あんなあぶないモノに手を出して、あぁ…大変なことだぞ?この先どうなっても…」
「…しっ!」
予想通り、この前の連休中に。町をうろつく怪しい連中からの「見に来るだけでも大丈夫だから!」…という誘いにまんまと乗っかって、フォビドゥン地区まで着いていってしまったという、哀れで、愚かな仔羊、学友のシュン。
白目薬なんかやるやつの気が知れない、おれは長生きしたいもん、あいつらはアホだぜ、と昨日まで言っていたクセに、今日は頬を紅潮させ、まるで大統領にでもなったかのようなかさ高な態度で自らの体験を自慢げに語る友人の姿を、コーキは小学舎のころからだ、もう何度も何度も見てきて見飽きてしまったくらいだ、とまで思っていた。
「わかった、シー、ね…」とコーキは子供をなだめるいいかたで笑い、あきれ顔ながらも、シュンの話の続きを聞いてやるのだった。
シュンの話はこうだ。
その怪しげな連中は、なんと、コーキやシュンの父親の給料の半年分はする、フォビドゥン地区までの往復時空移動費用を、全額負担するから、と言ってきたのだという。
最初は疑っていたシュンだが、高価なものを身に着けているそいつらから熱心に説得され、そう、青春のほんの思い出の一つ…こんな機会、もう一生ないかもしれない、などとフラフラと…時空移動装置に乗り込んでしまったのだという、ああ、バカめ。おバカなシュン。そして、いまや愚かな、欲に敗北した一人の男という、か弱き存在。
「白目薬」は今となっては、法律で厳重にその立ち入りが禁止されているフォビドゥン地区でしか手に入らない、えもいわれぬ性的快楽を齎すと噂されている違法な薬物だ。フォビドゥン地区には、本来渡航する手はずはないはずなのだが、実は高額な金を支払いさえすれば、裏ルートを使って誰でも旅行することができる。いわば公然の裏の手で、今のところ完全にそれを取り締まる手はないらしい。
そして、この薬を一度やってしまったが最後、その誰もが全財産をなげうってでも、どんな犯罪を犯してでも二度、三度とフォビドゥン地区に行き、白目薬を手に入れようとするらしい。
これだけでもこの薬の危険さは充分なはずなのに、この薬には更に恐ろしい作用がもう一つあるのだ。
この薬を生涯たった一回でもやってしまったものは、確実に、24歳の誕生日を迎えたその瞬間、死ぬ。
即死なのだ。いままで生き残った者は誰もいないという。
どうだろう、こんなバカげた遊び探したってなかなか無い、ってくらいにおかしな話だ。
コーキはそれこそ、白目をむかんばかりの表情で昨夜の快楽を秘密めかして語ろうとする、シュンの汗ばんで歪んだ口元を思い出すや、独りの部屋で可笑しさを止められずにいた。
いくら、キモチガイイからったって?だ。大切なお金を全財産放り出し、自分の命までもを差し出してまでそんなものを体験したいだなんて、コーキにしてみればまったく信じられない話なのだった。
そして更に、コーキにとって愚かにみえて仕方がないことがあった。
自分の覚悟で「白目薬」をやったはずの若者の大半が、22歳ほどになると迫りくる死の恐怖に耐えられず、突然、色々なおまじないやお祈り、言い伝えの類に必死になって縋りだすというのである。
いわく、
―22歳の誕生日から一度も「白目薬」をやらなければ死なないで済む、B町のジロー君はそれで死なずに済んだらしいよ
―満月の日に、コップに入れて窓際に置き、月明かりに3時間33分33秒ちょうどさらした水が清めてくれる、これは本当だ!
―100つ善いことをすれば死なないらしい、ボランティアとか
しかし、しかしだ。残念なんだなあ!
コーキはついにケラケラと机に突っ伏して声をあげて、笑いだしてしまった。
「白目薬」を一回でもやってしまって、24歳以降生きていたやつは、今まで一人も、いないんだなあ!ああ、哀れなる抵抗、生への執着は美しいものかい?いや、もとは性への執着、か!ははは、全くしょうがない、奴らだ!
肩を震わせ、笑いの余韻に涙まで滲ませているコーキの眼前の端末が、ふと見慣れない通知に震えたのは、まさにその時だった。
いぶかしげに端末をのぞき込むコーキの目に飛び込んできたのは、
政府からの特別通知
の文字。
―コーキ 様
日ごろから、学科、社会生活において優秀な記録を残し続けているあなた様への、特別なご案内です。
…なんだ?
コーキは一瞬目を疑ったが、そこには確かに公的な通知にしか記されることのない、デジタル署名がしっかりと残されているではないか。
…本物の、国家からの通知?僕に…?
コーキは胸をざわつかせながら読み進める。
―そんなあなた様に、今回政府からたってのお願いです。
政府が開発した「快楽促進薬」のモニターになって頂けないでしょうか。
この「快楽促進薬」は、俗に伝わる「白目薬」と並び称されるほどの極上の快楽を人間に与えてくれる薬品で、完全に、無害なことが特徴です!
読み進めるコーキの胸はますます高鳴っていった。
つまり、無害な白目薬を試せるチャンスが、僕に巡ってきたってことか?!
薬による快楽なんて、と、見下していたはずのコーキだったが、政府から持ち上げられてのその提案だけは特別に上等なものに思えた。
僕にはその権利がある、ってことじゃないか?
―コーキ様、ただ、一つ条件があります。
あなたの身のまわりに、例の忌まわしき犯罪行為である「白目薬」に手を出しているものがおりませんか?
読み進めるコーキは唾を飲み込んだ。
つまり?どういうことだ?
―我々もこうした犯罪者には手を焼いており、どうでしょう。できれば、そうしたものがもし身辺にいた場合、個人番号を我々までご通知願えませんでしょうか。これは取り締まりに使用しますので、当然、そのものは逮捕されることになります。しかし、その御足労を頂いた報奨ともなりまして、コーキ様には、この度の政府謹製「快楽促進薬」の記念すべき第一期モニターとなって頂きます。
もし、犯罪者の個人番号をご通知願えますなら、このメッセージに折り返し、書き込んでご送付ください。もちろん!コーキ様の個人情報がどこからも、漏れることはございませんのでご安心ください。
かしこ
コーキの念頭に、すぐにシュンが浮かんだことは言うまでもない。
罪悪感が全くないかと言われれば、…いや、実際、こんなおいしい話を政府直々に持ちかけられている僕と、欲に負けて、つまらないことに命まで落とそうとしているあいつの社会での価値とでは、比較にもならないじゃあないか…。
シュンとは幼稚舎からの付き合いで、つまりは、オンラインでゲームを楽しむためなどの理由で、個人番号は聞き知ってしまって、當にこの、端末に保存されているところだ。
これは、もう運命だったんだ、シュン、恨むなよ…
政府からのメッセージへの返信に迷うことなく、シュンの個人番号を打ち込み、送信ボタンを押した瞬間はそれでも、やはりコーキの胸が少しだけ傷んだ。そして、こんな風に自分に言い訳をしてみたり。
いや!
こうして逮捕されることでさ、もしかしたら、政府の医療機関に入れて、治療ができ、命が助かる…なーんてね?なんて、そんなもしもな展開もあるかもしれないじゃないか?
何しろ、相手は本物の政府機関なのだから。
政府機関。
その単語に、そわそわ胸躍らせる気分のコーキの心情にわずかな冷や水を浴びせるかの、記憶がよみがえってきた。
白目薬に関連して、どうも政府機関がインターネットを経由し、人間の峻別を行っているらしいとか…いないとか。
いやいや!
僕がやったことは、政府からの要望に応じての犯罪者の通知だぞ?犯罪じゃ、ない。犯罪を犯しているのは、愚かなあいつらの方なんだ。どうして僕のほうが峻別される?…そんなはずはないさ。
コーキはよぎったその一抹の不安を頭を数度降って取り払い、再び期待にドキドキする気分に戻って端末が再び、政府からの特別通知に震えるのを今か今かと待ち続けるのだった。
これが一番早くかけそうだったから最後に持ってきた自分。偉かった。