”い”の次は?
「何なんだよ、あの適当なのは」
実のところ、あの“い”は何者なのかさっぱり分からない。突然現れて、言いたい事を言うとさっさと消えて。人の言葉なんて、何一つ聞いちゃいない。大体、俺は死ぬ気なんてないっつーの。こっちの答えは出てるのに、考えろって言う方がおかしいだろ。
深く溜息を吐いた俺は、周りの蠟燭に目を留めた。
「そう言えばこの蠟燭、人の寿命だとか言ってたよな。じゃあ、この長くてしっかりと火が点いてるのは元気な奴って事で、こっちの短くて今にも消えそうなのは、もうすぐ寿命が尽きるって事か?」
蠟燭を眺めながら、俺は一人で勝手に喋ってみる。
どうせ誰もいないし、独り言を変な目で見る奴もいないし、良いか。
「で、この燃え尽きて消えてるのは、もう死んでるって事だよな。で、こっちの長くて消えてるのは?」
そこで首を傾げた。長いのに消えているって事は、寿命の途中で死んだって事になる。それは…。
「つまり、不慮の事故。かな?」
「不慮の事故に、自殺、他殺、戦死者にその他」
その他って、何があるんだよ。あ、いや、そうじゃなくて、誰か居るぞ。
声の主を見るべく“い”が行った方向と反対側を見ると、“い”によく似た女が居た。但し、黒い長袖の服を着て、真っ黒な髪をアップにしている。雰囲気は“い”より数倍冷たい感じがする。
「誰?」
うっすらと微笑みを見せて、女が真っ直ぐにこちらに歩いて来る。
その微笑み怖いって。
女が歩く度に、蠟燭が蹴飛ばされ、倒れていく。倒れた蠟燭は、その一部が女の下敷きになり、潰されてしまった。
「げっ。こら、蠟燭を蹴飛ばすな、倒すな、踏み潰すな」
こいつは“い”と違う意味で変だ。
「人はどうせ死ぬ。別に今死んだ処で、私は何ともない」
冷やかな声で言っているが、そう思ってるのは、あんただけだよ。
「俺は寿命が尽きるまで、生きたいよ」
俺の言葉を聞いて、女が不思議そうな表情になった。
俺、何か変なこと言ったっけ?
「はて? お前は死者ではないのか?」
「勝手に死人にするなよ。まだ、死んでないんだと。“い”とか“ろ”とか言う奴が、言ってたけど」
好き勝手言ってるよな、こいつもさ。
「そうか。では、こちらに来ぬか?」
急に猫なで声になって誘うな。
「その前にさ、あんた誰?」
「死を配する者」
またかよ。
「そうじゃなくて、名前」
「名前か。では、“あ”か、“い”で」
こいつと言い、“い”と言い、良く似てるよ。
「何で一文字なんだよ?」
「お前、実は頭が悪いのだな」
“あ”がしみじみと言う。
悪かったな。
「理由位、教えてくれ」
「あれは“い”か“ろ”だと、名乗ったのだろう」
そうです。
憮然とした表情で俺は、頷いて見せる。
「五十音順の二番目と、いろはの二番目にくる言葉は何だ?」
そう言われ、俺はほんの少しだけ考える。
「…“い”と“ろ”」
「あれは、私の妹で“い”か“ろ”と名乗ったのなら、私は“あ”か“い”だろう」
つまり、一文字で姉妹の順番を言ってたのか。
「あんたら、良く似てるよ」
苦笑いを浮かべて呟いた俺に、“あ”は不気味に微笑んだ。
あんた、笑わないでくれ。
「お前」
「加賀清彦」
きちんと名前を名乗らない奴に、お前呼ばわりされたくない。
「どうでも良い」
姉妹揃って、同じ事言うな。
「まだ、死んでおらぬのだったな」
「そうだけど」
“あ”がきょろきょろと辺りを見回し、ぴたりと止まった。視線の先には、長くて今にも火が消えそうな蠟燭。
「あれだな、お前の蠟燭」
何をするかは、何となく想像がつく。
「何もするなよ」
気付かれた、と言う顔をして“あ”が俺を見た。
どうせ、吹き消そうとか思ったんだろ。
「詰まらぬ」
詰まらなくて良いよ。俺はまだ死ぬ気無いから。
再び、蠟燭を薙ぎ倒しながら“あ”が、俺の前へ来た。そして、腰を落とす。
今度は、何だよ?
「お前、私の許へ来い。何も考えなくて良くなるぞ」
何のお誘いだ?
「あんたの許って?」
「決まっておる。死の世界だ」
おいおいおい、俺はまだ死ぬ気無いって。
「だーから、俺はまだ生きたいんだって」
するりと俺の両頬に、“あ”が手をあてた。
こいつの手、氷みたいに冷たい。冷え性か?
「そう言うな。私は、お前が気に入ったのだから」
「遠慮します」
きっぱりと言い返した俺に“あ”は、顔を近づけ、俺の額に自分の額を付けた。“あ”の目がほんの数センチ先で、吸い込みそうな妖しさを含ませ、俺を見ている。“あ”の目を見ていると、自分の意識が眠る寸前のものと、似た感覚に襲われた。
「清彦、生きている間はさぞ辛かっただろう。もう、辛くなくなるぞ」
先程よりも、心地良い声で“あ”が囁いてくる。“あ”の視線すら外せないまま、頷きたくなる声に、首を縦に振ろうとした瞬間、“あ”の額が離れ、視線が俺から外された。
同時に、重いものが圧し掛かる様な疲れに襲われ、思わず頭を下げる。しかし、“あ”の視線の先が気になり、視線を向けた方向に自分の視線を向けた。
中年の少し痩せた男性が、重たそうに体を引き摺りながら歩いている。顔は蒼白していて、生きているとはとてもじゃないが言えない。
「少し待っておれ」
そう言うと、“あ”は俺の頬から手を離し立ち上がると、三度、蠟燭を薙ぎ倒しながら中年男性の許へ行った。
「よう来たのう。さあ、手を取れ」
すっと差し出した“あ”の手を中年男性が、迷いもなく手を取った。途端に、中年男性は体が膨張して皮膚が裂け、裂けた皮膚の間から黒い物が勢い良く噴き出していく。
俺は言葉を失いながらも、凝視してしまう。
噴き出した黒い物は、始めこそ形が定まらなかったが、徐々にその姿を形成していく。そして、“あ”がうっすらと微笑む頃には、体は黒い芋虫、それに無数の触手がある姿に変わっていた。手だった触手の一部が、“あ”の腕を這い上っているが、微笑んだまま“あ”は何をするわけでもなく見ている。
元が中年男性だった上に、変わっていくとこまで見たから、気持ち悪いの一言しか出ない。あいつ、俺をあの気持ち悪いモノにする気だったのか。それだけは絶対嫌だ。
「先に行っておれ」
冷やりとした口調で言うと、触手が“あ”の腕から離れた。それを見やると、今度は先程自分が通ったところを引き返し、蠟燭を一本も倒さずに俺の許へ戻って来た。
「待たせたのう」
再び腰を落とし、腕を伸ばそうとするが、今度はその腕を払いのけた。
「待ってないから。それと、俺はあんたと一緒に行かないし、触手の生えた芋虫になるのもごめんだ」
気持ち悪さが勝ったのか、俺は今にも噛みつかんばかりに“あ”に言うと、“あ”は途端に不機嫌な表情を作った。
「お前、当分来るな。顔を見たら叩き出す」
不機嫌な口調で“あ”が言うと、すっと立ち上がり、くるりと背を向けると大股で蠟燭を薙ぎ倒しながら歩いきだす。“あ”が遠ざかって行くと同時に、洞窟内で蠟燭が倒れ、踏み潰される音が徐々に遠ざかり、そして消えて行った。
最後まで、蠟燭を倒し続けたな。でも、当分って何時までだろ?ま、いっか。
再び静かになった洞窟の中で、俺はぼんやりとする事にした。“あ”が倒していった蠟燭は転がったまま、火が点いているものもある。
あーあ、可哀想に。絶対、あいつわざと倒して行ったよな。消えたのは放っておくとして、点いてるのだけでも立てておこう。
そう思いながら重い体を立ち上がらせると、まだ火の点いている蝋燭を丁寧に立て直していく。
“あ”が言っていたその他って、自分が蠟燭を倒す事だったのか?だったら、すっげー性格悪いぞ。
そんな事を思いながらも蠟燭を立て直し終えた頃、“あ”が行った方向とは逆の方向から、“い”が軽く、しかし危うい足取りで、蠟燭を避けながら戻って来た。“い”の左腕には、大事そうに一升入り焼酎の紙パックが抱えられている。
焼酎抱えて戻って来たぞ、こいつ。
その“い”の表情はかなりの上機嫌だ。
「戻ったぞ」
足取りが、どう足掻いても千鳥足で、相当な量を飲んでいる事は、見ただけで分かった。
「何で焼酎の紙パック、持って帰って来てるんだよ」
上機嫌な表情のまま、“い”は紙パックを見る。
「貰ったんだ。いいだろう」
嬉しそうに言ってるけど、完璧に酔っ払ってるな。
「そりゃ、良かったな」
酔っ払い相手に言い返す気も失せ、適当に相槌を打つ。
「そうだろう」
うふふっと酔っ払いモード全開の笑顔で笑うと、“い”は倒れた蠟燭を見て俺を見た。
「また、随分と倒したな」
「倒したのは俺じゃなくて、あんたの姉ちゃんだよ」
俺は、“あ”と会った事を話した。話し終えた後、“い”は大笑いしていた。
「あれに顔を見たら叩き出すと言われた奴は、お前が初めてだ。実は、凄い奴だったんだなぁ」
大笑いしながら、変な感心をするな。
「だが、これでお前は行くべき場所が、定まったじゃないか」
行くべきって?
「お前、自分の体に戻れ」
戻れって、あのな。
「あのさ、俺は最初から死ぬ気なんて無いって、言ってたんだけど」
「そんな事言ったか?」
頬が、一瞬引き攣ってしまった。こいつ、俺の話全く聞いてなかったのか。
「あんたさ、俺が別に死ぬ気無いって言ってる途中で、焼酎飲みに行ってくるとか言って、出掛けて行ったんだよ」
思い出した。こいつが人の話を聞いてたら、“あ”と会う事なんでなかったんだよな。
「知らん」
知らんじゃない、知らんじゃ。何て適当な奴。
「もういいよ。それより、どうしたら戻れる?」
一言一句、こいつの言葉を相手にしていたら、こっちが馬鹿馬鹿しくなってきた。
“い”が、俺の前に手を差し出した。
「ここから出たいのなら、私の手を取れ」
どうして“あ”と同じ事するかな、こいつは。
「触手芋虫になったりしないのか?」
「安心しろ。私の手を取っても何も起こらん」
疑心暗鬼で聞いた俺に“い”は、魅入ってしまいそうな位の笑みを浮かべ答えた。“あ”の微笑みと違って、“い”の笑みは何だか安堵する。
少し迷って、俺は“い”の手を取った。途端に、俺の目の前は真っ暗になり、目を開けた時は、真っ白な天井が見えていた。
天井?
辺りを見回そうとして、背中に痛みが走る。
何で痛いんだ?
そう思いながら、記憶を辿る。
“い”の手を取ったら、ここにいて…。で、何処だ?
ゆっくりと視線を巡らせると、見覚えのないチューブがある。それを辿っていくと、自分の左腕に辿り着いた。辿り着いた左腕には、包帯が巻かれている。
点滴のチューブかよ。しかも、包帯巻かれてるし、気分はミイラか。でも、包帯が巻かれてると言う事は、ここは病院?
「生還、おめでとう」
聞きなれた声。椅子に腰掛けて見ているのは“い”だ。
「何で、あんた居るんだ?」
“い”はにっこりと笑う。
「決まっているだろう。焼酎」
「勝手に飲みに行けよ」
飲ませろと、言いたかったのだろう。言うより先に言ってやったら、“い”の言葉がピタリと止まった。ついでに頬が膨らんでいる。
「お前、ケチだな」
「俺、今は動けそうにもないしな」
“い”は俺を上から下まで見て、言葉に納得したのか、軽く溜息を吐いた。
「仕方ない、貸しにしておいてやる」
そう言いながら、“い”が椅子から立ち上がる。
いや、別に借りた覚え、ないから。
「さて、焼酎でも飲みに行くかな」
また飲むのかよ。どれだけ飲めば、気が済むんだ、こいつは。
俺が思っている事を知ってか、知らずか、“い”はそのまま俺の前から、掻き消す様に消えて行った。
その直後、病室に入って来た看護師が、俺と視線を合わせた途端、慌てて医者を呼びに行っていた。
それから半年後、本日はオープンカフェで一人コーヒーを飲んでいる。
結局、事故から一週間程、俺の意識は戻らなかったらしく、医者に意識が戻る確率は低いと言われていた両親と兄弟は、二度と意識が戻らないのではと覚悟をしていたのだとか。そんな時に意識が戻ったもんだから、周りが慌てている様子に、俺は妙に不思議でならなかった。
少し落ち着いてから、“い”と“あ”に会った話をしたら、母親は眉間にしわを寄せつつ、一言をもらしていた。
「打ち所が、悪かったのかしら?」
悪かったな、変な話して。
テーブルに置かれたスマホを何気に見詰めたまま溜息を吐いて、コーヒーに手を伸ばす。
「焼ー酎ぅーっ!早く飲みたぁーいっ!」
コーヒーを飲もうとして、聞き覚えのある声に思わず手を止めてしまう。
あれは間違いなく、“い”の声。
辺りを見回し、“い”を探してみたが、見つける事はなかった。