1章第5話 初講義に臨めよ女装乙女。
大学生活が始まって3日目の金曜日。今日から講義がスタートする。
子ども学部1年生の前期は選択科目が少なくて、履修登録の際に悩むことはなかった。その代わりほとんどの講義が必修科目だから、休まずに受講する必要があるんだけど。
どの日も2限からなのが唯一の救いかな。
「席が固定でよかったね。仲良し3人組が隣同士で座れるんだもん」
「担当教員によって、固定だったり、自由だったり違うのかもしれませんね」
名前の順で、1つの長机に5人が座る。ボクは、杏樹さんと聖さんに挟まれることになった。
入学式での杏樹さんのお尻の柔らかさと、聖さんの柑橘系の香りを思い出す。あの状況が席固定の講義でも続くんだって思うと、自分の理性が保てるのか不安になった。
「学業に励むために来ているのよ。席がどこで、隣が誰かなんて関係ないわ」
「でも、知らない人が隣だと集中力が削がれない? この人はどんな人なんだろうって気にならない?」
「他人の詮索なんてしないし、講義中なんだから普通に考えて勉強をしているでしょう?」
「わかんないよー寝てるかもしれないじゃん?」
「それは盲点だったわ……」
普段は物静かな聖さんも、コミュ力の塊である杏樹さんの前だと楽しく会話をしている。
ボクも杏樹さん並みのコミュ力があったら、性別関係なく臆せず絡みにいけるんだけどな……。ない物ねだりしても意味がないってわかってはいるんだけど、ネガテイブ思考だから、つい考えてしまう。
「恵唯は、どう考える? ねえ、聞いているのかしら?」
「あ、はぁい!? な、何の話ですか……?」
「大学に来てまで、寝ている人の理由を考えているのよ」
「わたしはね、アルバイトとか、大学恒例のレポートとかで疲れてるんじゃないかなーって」
「大学生は暇なイメージがありますけれど、子ども学部は忙しいですよね」
事実、子ども学部1年生は、火曜日と水曜日は4限まで、それ以外は5限まで講義がある。後期になったら、さらに増えると思うと憂鬱になってくる。
「でも、どんなに忙しくても、講義中に寝ていては元も子もないないわよね?」
「おおう……これは反論の余地がない正論をぶっこんできたよ」
「せっかく高い学費を払って通っているのですから、わたくしも講義中に睡眠するのは勿体無いと思います」
「そだねぇー……単位を落としたら、資格貰えなくなっちゃうしねー」
「来年、再履修すれば、解決よ。また、落としてしまうかもしれないけれど」
「再履修なんてやだよ! 絶対、単位を落とさないんだから!」
って意気込んでいた杏樹さんだったけど、講義が始まって1時間が経過した辺りから、虚ろな目で教員の話を聞いていた。彼女は、自分の頬を抓ったり、頭を机に叩きつけることで、どうにか閉じそうな目を見開いている。
聖さんもそれに気づいていて、小さく息を吐いた。
「我慢しているようだけれど、そろそろね。いま思えばあの会話は、講義中に寝るためのフリだとしか考えられないわ」
「大学の講義は高校の授業とは違い、90分間ありますからね。慣れないうちは仕方ないのかもしれなせん」
「あなた、杏樹に甘いのね」
「そんなことは……ないですよ。あっ……」
ついに限界を迎えた杏樹さんがボクの肩にもたれかかった。腕に感じる柔らかい物体と首元をくすぐる微かな寝息。
「んゃ、ぁぅ……」
変な声を出しそうになるけど、手で抑えることで、声にならない声で済んだ。
教員もこちらを気にする様子はないし、セーフかな。でも、聖さんには聞かれてたかも。
横目で彼女を覗き見ると、黒い微笑みを浮かべていた。
「こわい……」
「杏樹は、寝かせておきましょ? 1回目はオリエンテーションのようだし、大事なことは起きてから伝えればいいもの」
「……ふふ、聖さんも人のことが言えませんね」
「ふーん、そういう口を聞いてもいいのかしら?」
「え……?」
にやりと黒い笑みをする聖さん。
いじめの標的にされました。できれば、お手柔らかにお願いします。
「ねえ、杏樹の胸はどう? 女の子同士でも意識するでしょう?」
「あうぅ……」
女の子でも意識するんだったら、男のボクが意識しないはずがない。
杏樹さんが呼吸するたびに形状を変えるふくよかな胸。肩を挟むようにして、ぱふぱふっと揺れ動く。どっしりした重みも伝わって、そこに大きな胸が存在する――そう意識させられちゃう。
はわわ、やわ、柔らかいっ……。
「いまも成長してるらしいわ。私はどうやっても大きくならないのに……」
聖さんの控えめな胸が萎んだように見える。
聖さんは、胸が小さいこと気にしてるのかな……。パットを入れてないからボクも平らな胸だし、気にしてる演技をした方がいいよね……。
「わ、わたくしもですよ……」
「なら打倒、巨乳ね。互いに頑張りましょう?」
頑張っても、ボクの胸は大きくならないけどねっ!?
水曜日に入学式、木曜日には学年別オリエンテーションと健康診断があって、金曜日の5限――ついにラスボス戦を迎える。
そう、幼稚園教諭には必須技能のピアノ。
ピアノの講義は、ピアノのある部屋の数の都合上、教員1人が学生2人を指導する方針となっている。
「わたくしと聖さんは、同じ部屋ですね」
「わたしだけハブなんて酷いよ! むむむ、一緒に受けたかったのに……」
「名前の順で割り振られてますから、仕方がないです」
「それに去年までは1対3だったようだけれど、今年は新入生の数が少なかったおかげで1対2でピアノ室を使えるようになったみたい。指導してもらえる時間が増えたんだから、喜ぶべきじゃないかしら?」
「上達するかもって考えると喜びたいけど、2人と一緒じゃないと寂しいーって」
「ピアノの上達が他人に左右されるほど甘くないわ」
「まあねぇー。でも、何で今年の新入生は少なかったんだろうね」
今年の新入生は34名。幼稚園教諭氷河期とはいっても、安定して50人近くの入学を受け入れていると謳っている清白女子大学にしては少ない。
「やはり幼稚園教諭は社会に望まれていないということでしょうか」
「かもしれないわね。人の命を預かる大変な仕事で、勤務時間外でも仕事をする必要がある。なのに給料はそれに比例してないし、それが改善されたといっても雀の涙程度」
「だけど、子どもや働く保護者さんたちには、必要とされてるよね。じゃなきゃ、待機児童問題とかにならないもん」
「杏樹は、前向きなのね。男性の幼稚園教諭がいなくなったのがいい証拠よ」
「男性の幼稚園教諭では、家族を養うだけの稼ぎがありませんからね」
「最近は、女性も社会進出していて、一生独身で生きる人も少なくないわ。それなのにこの給料じゃあね」
「幼稚園教諭には、逆風な世の中ですね。こんなにも夢のあるお仕事であるはずなのに、どうして……」
「悲観的になってもしょうがないよ! まずはピアノ!」
「そう、ですね……。やりますよ、ピアノ!」
杏樹さんから差し出された手のひらに、自分の手のひらを重ねる。
そして、杏樹さんと声を合わせて――。
「「頑張るぞ、おーうっ!」」
それを傍目に聖さんは、何食わぬ顔で言葉を吐く。
「ピアノは、個人で演奏する楽器よ」
聖さんのおっしゃる通りです。
部屋の3分の1をグランドピアノに占領されたピアノ室。
高原先生が挨拶として、演奏を披露してくれる。
鍵盤の上を跳ねる指先。音色に合わせて踊る指のワルツ。指が鍵盤を押すから音が響くのではなく、響く音と合わせて指が踊っているみたいだ。音色は大雑把だけど、それが気にならない豊かな表現力。なにより高原先生が楽しそうにピアノを弾いているからこそ、心地よく感じられた。
「じゃあ、どれくらい弾けるのか確認したいから、次は君たちに弾いてもらおうか」
「この演奏の次に……ですか?」
「もちろん。そうだね、AO試験の課題曲でも弾いてもらおうかな。まずは鴫野さんからでいいかい?」
「構いません」
聖さんは即座に立ち上がり、椅子に座る。
しかし、椅子の高さが合わないのか、微調整をしてから演奏に臨む。
「〜〜♪」
凛とした聖さんの演奏姿――。
鍵が鮮やかなに沈む柔らかなタッチ。耳を潤す繊細な音色。柔らかい風が吹く清冽な地で、優美な演奏をする女の子。そんな情景が浮かんできてしまうくらいに視覚と聴覚が彼女の虜になりつつあった。
上手い、丁寧な演奏、という言葉に尽きる。
「……どうぞ」
演奏を終えた聖さんは変わらぬ顔で、ボクに席を譲った。
「えっ、と……ドの指番号は……1で。レが2……」
ボクが楽譜とにらめっこしている間、高原先生は聖さんの演奏を批評した。
「楽譜を忠実に演奏している。このレベルであれば、僕の指導は必要にないだろうね」
「ありがとうございます」
わざとらしい笑みで、お礼の言葉を口にする聖さん。
向上心の高い者からしたら、簡単な曲を褒められたところで、思うことは何もないのかもしれない。実際、楽譜なしで即座に演奏してしまうあたり、彼女からすれば弾けて当然の曲なんだろうな。
「そうだね、指摘する点があるとすれば、面白味を感じないことくらいかな」
「それは必要なことなんですか?」
「幼稚園教諭になるんだから、最終的には子どもたちの前で演奏することになる。その想定をするのであれば、必要になってくる技術だよ」
「……わかりました」
最後には不自然な間があったが、聖さんの批評は一区切りついたようだ。
そろそろ……だよね。ん、やってやる!
指を鍵盤に配置して、待機する。
「佐々宮さん、もういいかな?」
「は、はいっ!」
………………。
…………。
……。
ボクの演奏は、まあ――弾けてなくはなかった。けど、テンポが一定じゃないし、曲になっていたかも危ういものだった。
でも、「初心者にしては、弾けているんじゃないかな」と気遣ってくれる高原先生の優しさが唯一の救いだった。
ピアノが、幼稚園教諭になるための大きな壁になりそうだ。