3章第5話 夢を叶えていい女装乙女。
5月中旬とは思えない蒸し暑さのせいで、ベッドから飛び起きる。
「まだ7時……うぅ」
講義は2限からで、大学は寮から歩いて5分の距離に位置しているから、登校まで時間に余裕がある。起床には早すぎた。
額の汗を拭う。昨日の夜はよく冷えていて、布団を2枚被って寝ていたから、体は汗ばんでいた。
「はぁ……暑い。シャワーしよ」
衣類を持って、浴室に向かう。
普段はシャワーするにも、杏樹さんの居場所を気にしていたけど、彼女はお泊りしているからその必要がない。それどころ性別がバレたんだから、もう堂々と入浴できる。
退学するし、考えても意味がないどうでもいいことだけど。
シャワーを済ませ、着替え、朝食、歯磨きなど登校の身支度も終わった。
「1限が始まったくらいかな。まだ時間早いけど、行こっと」
とくに理由もなく、寮を出る。
早く行って、大学をぐるぐる回って時間を潰すのもありだよね。
短い間だったとはいっても、お世話になったし、思い入れがある。自分が女子大学に通っていたって事実を思い出に刻みたかったのかもしれない。
大学キャンパスの正門が視界に入る。
数名の学生がチラシを配り、なにかをお願いするように頭を下げていた。学生たちは呼びかける際に声を張り上げ、正門前はすごく賑やかだ。
「杏樹さんに、聖さん……? それに皆さんも」
「おはよっ、恵唯ちゃん」
「あら、早いのね恵唯」
「Ms.佐々宮、おはようございますですわ」
「わーめいめいだー!」
「さ、佐々宮さんも参加してくれるの?」
数名の学生は、杏樹さんや聖さんを含めたクラスメイトの仲間たちだった。
「皆さんは、なにをされているのですか?」
「ごめん。代表してわたしと聖ちゃんが説明するから、みんなはこのまま続けててもらっていい?」
「「「「「「うんっ」」」」」」
杏樹さんの指示にみんな返事する。
「じゃ、頼むわね」と聖さんは言葉を残し、ボクの手を引っ張って正門近くの木に身を寄せた。
どうもボクに関係があることみたいだけど……。
チラシを覗き見る。そこには『男子学生募集の署名運動。幼稚園には男性幼稚園教諭が必要!』とデカデカとゴシック体でプリントされていた。
「皆さんはもしかして、わたくしのために――」
「そうよ。だけれど、あなたの正体は誰にも漏らしていないわ」
男であるボクのために、と言葉が続く前に聖が遮る。余計なことは話さなくていいって気遣いがひしひしと伝わってくる。
「そうですか。でも、なぜこのようなことを? わたくしは退学すると決めたのです。お2人こそ余計な気遣いはやめてください」
「友達が悩んでて、それを助けたいと思っても?」
「杏樹さん、わたくしはもう答えを出したのです。悩んでなどいませんよ」
杏樹さんの気持ちは嬉しい。だって、彼女の優しい言葉を聞くだけで、決意が揺さぶられるから。
でも、誰かに甘えて、わがままを言える時期は終わったんだ。揺さぶられても、もう変えられない。
――男のボクは、幼稚園教諭になれないから。
お礼は一応口にして、いますぐやめてもらうように説得する。
しかし、杏樹さんは気持ちを爆発させるようにして想いを言葉に乗せる――。
「恵唯ちゃんはさ、何事に対しても必死だったよね。だから、叶えられない夢に対しても女装して挑んだし、いつバレるかわからない状況の中でも夢のために勉強にピアノに精一杯努力してた」
「周囲に迷惑をかけて大学生活を送っているのですから、怠け者ではいられません。精一杯努力するのは当然のことです」
「友達の悩みに対してもそう……親身になって悩んでくれて、時には強引に、時には力を貸してくれて、悩みの解消のために頑張ってくれた。そんな人が夢を諦めようとしてるんだよ? 全力で夢を追いかけた日々を無駄にしようとしてるんだよ? それを止められなくて、なにが友達なの!?」
「友、達……? 友達とはそこまで他者のために行うものなのですか……?」
「もちろん。実際に恵唯ちゃんがやってくれてたじゃん」
「ボク、やってっ……た、かなぁ……?」
頬が湿る。感極まって、涙を流していることに少し間を置いて気がついた。
ボクの言動が認められたみたいで、嬉し涙が出たんだろう。
でも、ボクが行なってきたのは、自己満足だ。学長の言葉で悩んでいた聖さんに幼稚園教諭の魅力を知ってほしいって思ったから夢物語を語って、杏樹さんが悩んでいる姿を見ていられずに力になりたいって思ったから手助けした。
ボクの行いと彼女たちがしようとしていることは違う――って思いたかった。違うと思うことで、ボクはこのまま退学できて、大学には女装した変態が紛れ込んでいない平穏なキャンパスライフが戻ると信じて疑わなかった。
でも、なにも違わない。彼女たちも自己満足で、ボクを助けようとしていたから。
そして、根底にある想い――友達を助けたいという気持ちは、ボクも彼女たちも一緒だったから。
「自己満足だって……思いたかった。そうすることで否定したかった。否定、したかったのに……。違うってっ、ボクが2人にやったことと、2人がしてくれようと頑張ってることは、全然、ぜん、ぜん、別のものだって。でも、違わないんだね……」
「わたしや聖ちゃんが悩んでたら、恵唯ちゃんは助ける。逆に恵唯ちゃんが悩んでたら、わたしたちが助ける。恵唯ちゃんはその行動理由を自己満足だって片づけちゃうなら、わたしたちも自己満足だよ!」
「うぅ、うっ、ぅ……」
瞳から流れ出した水滴が地面を濡らす。涙のせいで顔はくしゃくしゃに歪み、口からは嗚咽が漏れていた。
見っともない。人前で泣いちゃうなんて見っともないよぉ……。
「メソメソしないで欲しいわ、恵唯。謝罪はいらない。あなたは夢に対して、ただ必死だっただけ。謝罪する必要があるのは、夢を叶えたい人が叶えられないこの世界の方よ。だから、あなたは夢を叶えなさい。幼稚園教諭になりなさい。これ私の自己満足」
「命令系ばっかりで、強引っ……だよぉ……」
「しようがないじゃない。あなた以上に幼稚園教諭に向いている人間を見たことないのだから」
やっぱり自己満足だった。
でも、聖さんはボクの夢を推してくれた。いつもの口調、声色で紡がれたからこそ、彼女の本心を言葉にしてくれたみたいで嬉しかった。彼女に評価されて、すごく嬉しかった。
「ありがとう」と口にしようとした瞬間、小さい影がボクたちがいる木に近づいてくる。
「これはセンセーのおかげでもあるんだから、センセーもちょーっといいかなー?」
「ふ、藤波先生!?」
「やえ子先生だ、チラシありがとね」
小さな影の正体は、運動遊びを指導する藤波やえ子先生だった。
相変わらず、小学生にしか見えない幼すぎる容姿と、たわわに実った胸がアンバランスで、なんとも表現しにくい魅力を醸し出している。これでアラサーなんだから、女性の美の神秘は謎が深い。
「ほんとだよ、もー。朝からこの枚数印刷するの大変だったんだから、もー。美少女くんのためじゃなかったら、絶対やってないんだからねーだ」
「正直、どう転ぶか不安だったけれど、先生の力を借りて正解ね」
「それでももっと早く相談してほしかったし、当日にお願いされると困るけどねー……」
藤波先生は気怠げに話すけど、視線はボクの泣き顔を見ながらにやにやしている。その笑みはボクが泣いている理由は把握していると言いたげで、ボクの不安を煽ってくる。
でも、美少女くんのため――って発言になぜか藤波先生は大丈夫という確信があった。
「藤波先生……」
「センセーね、美少女くんを――ううん、恵唯くんを知ってる。だから、「ボクが先生みたいな先生になって、先生とちっちゃい子を幸せにする!」って言ってくれたこと、いまもよく覚えてるよー」
「え!? やっ……やえ、先生……? あの、やえ先生なのですか!?」
ボクに夢をくれた――初恋の先生との再会に驚いて、涙が吹っ飛んでしまった。
「あーもしかして、恵唯くんは覚えてないなー! 一緒に遊んだりしたのにっ!」
「お、覚えてます。やえ先生はボクに夢をくれた人ですから。でも、よくボクだって気がつきましたね。成長しているし、こんな姿だし……。ボクなんて、いまやっと思い出せたのに」
幼稚園の頃のことを思い出すと、うろ覚えだけだ、記憶のやえ先生と目の前にいる藤波先生は、幼い容姿と子どものような言動がよく似ている気がする。ってどこからどう見ても同一人物だ。
対して、ボクは幼稚園の頃に比べ、身長が伸びた。さらに髪まで伸ばし、女装までしてる。実名を名乗っているとはいっても、やえ先生はよく気づけたね……。
「そりゃー覚えてるよー。だって、一目見てびびっときたもん。彼は、センセーに夢をくれた男の子だ、って」
「気づいたのであれば、教えてくださいよ」
「無理だよー。だって、恵唯くんの正体はみんなに秘密にしてるんでしょー?」
「そうですけれど。って、ボクが先生に夢をあげたってどういうことですか?」
「センセーみたいな先生をいっぱいいーっぱい育ててね、センセーみたいに幸せになってほしいって夢。それを叶えるために谷口先生にお願いして、ここの先生やらせてもらってるのー。あ、哲学みたいになっちゃってごめんねー」
「伝わっています。そう言っていただけてすごく嬉しいです。もう心残りはありません」
「ちょいちょいちょーい。なんでそうなるの!? センセーに夢をくれた園児が、夢を諦めちゃうなんて悲しいじゃーん」
「でも……」
彼女たちは、ボクを受け入れてくれる。助けてくれる。
いままで騙していたのに。そんなことはなかったみたいに、ボクの善行だけを見て判断してくれている。
あんなに退学すると決意したのに。夢を諦めると心に決めたのに。
彼女たちの差し伸べた手がボクの夢を繫ぎ止める。
「恵唯ちゃんは、先生になってもいいんだよ。だから、まずはみんなで大学を卒業しよ?」
「恵唯は先生になってもいいのよ。まあ、なれなかったら、私の母が園長をしている幼稚園にくればいいわ」
――そっか、ボクは幼稚園教諭になってもいいんだ。
みんなの言葉で、初めてそう思えた。
もう一度、夢を目指す。夢をくれた先生のためにも。ボクを信じ、評価してくれる友達のためにも。ボクは幼稚園教諭になる。
そして、幼稚園教諭になったあかつきには――。
「子どもたちを幸せにする!」
ボクは夢に向かって、高らかに宣言した。




