3章第3話 夢を諦めよ女装乙女。
杏樹さんに性別がバレた次の日の朝。
杏樹さんと顔を合わせることが気まずくて、でも大学を休むわけにも行かず、彼女が起きてくる前に寮を飛び出した。
1人で通学するのは、杏樹さんが大学を休んだ2日前以来、これで二度目となる。
前回との大きな違いは、朝食を食べられなかったこと。さらに昨日の夜も性別バレでドタバタしていたせいで夕食も食べておらず、とても空腹だった。
「なんか買っていこうかな」
優しい杏樹さんのことだから、ボクが空腹であることを知れば変な気を使わせてしまうかもしれない。彼女には性別が露見し、その上そのことを誰にも言いふらさずにいてくれているんだ。
これ以上、彼女に迷惑をかけるのは申し訳ない。
コンビニでおにぎりを2個買い、食べながら大学に向かう。
淑女として行儀が悪いけど、誰にも見られなければ問題ない。ましてや女の子でもないわけだし。
空腹を幾分か満たし、2限で使われる教室に足を踏み入れた。
「BD全巻予約しましたわ」
「まじ!? やっぱ金持ちはすげぇわ」
「昨日の最新話、見た?」
「見たの!」
「熱かったよね! 受け専だった彼がまさか攻めの方が得意だったなんて……!」
「? なんの話しなのん……?」
教室のいたるところでアニメの話が繰り広げられている。
昨日の杏樹さんの発表から、清白女子大学1年生にアニメブームが到来してしまったみたいだ。とくにみんなが気に入ったのは、幼稚園を舞台に男性幼稚園教諭と園児たちが織りなすドタバタコメディ――『ミラクル幼稚園』。昨日の全講義終了後、放送している話まで視聴したのかもしれないと思うと、杏樹さんの発表の影響の凄まじさが伺える。
「女性だらけの職場に1人でも男性がいてくれると助かりますわよね」
「そうね。幼稚園教諭は思ったよりも肉体労働だから、力のある男性がいてくれた方がより効率的に働けると思うわ」
「でも、男性は給料がね……」
「おいおい、金持ちの令嬢ならともかく、うちら庶民の女もきついってーの」
なぜ学年全体で話題になっているのか――幼稚園教諭を題材にした作品だからという理由は当然あると思うけど、それ以上に現実の男性幼稚園教諭の扱いに、幼稚園教諭自体の扱いに納得がいかないからだ。
「恵唯ちんはどう思うかな? やっぱり給料が安いと思う?」
聖さんと天上院舞さんと神原楓さん――3人の会話に聞き耳を立てていると、神原楓さんが急に話題を振ってくる。
「安い……ですね。資格を取るために400万かけて大学に通い、働き始めれば朝早くから夜遅くまで、勤務外の時間も働かなくてはいけないというのに、それに給料が比例していませんから」
「そう考えるとたしかに安い。それが幼稚園教諭氷河期といわれる所以なんだね。この大学に所属している学生が女の子、しかもほとんど令嬢になるわけだ。もちろん、例外はあるけれど」
ボクの受け答えに意味深なことを呟く神原楓さん。
例外というのは、わたくしや杏樹さんのような庶民という意味だよね! 男が紛れてるとかじゃないよね!?
「Ms.神原楓、その言い方には語弊がありますわ」
銀髪碧眼の天上院舞さんが間違えを正す。
「清白女子大学――ひいては幼稚園教諭の免許を取得できる大学は、男子学生を募集していないのですわ。ですから、必然的に女子学生だけになりますの」
そう、男子学生は募集しても集まらないということから、はなから募集をしていない。だから、幼稚園教諭の免許を取得できるのは女子大学に限られている。
それが変だという者もいる。男女平等を謳うご時世に、性別が理由でなれないなどありえないと。
しかし、実際に男子学生が集まらなかった以上、それが当然となってしまった。
さらに男性幼稚園教諭がいなくなったことで、園児に対する性犯罪が減った。男性幼稚園教諭がいないから安心して園児を預けられるという保護者の意見も少なからずあった。
「男性の幼稚園教諭は社会から必要とされていないのですよ。それどころか――」
駄目だ。これを口にしては完全に夢を失うことになる。
でも、昨夜に寝ている間に見た夢を思い出す。
ほかの学生の邪魔になるくらいなら、夢を諦めると決めたはずだ。だから、言える。口にしてこその決意だ。
「幼稚園教諭自体、社会から必要とされていないのですよ。家族も満足に養えない給料しかいただけないのですから」
言った。言った!
夢を拒絶した。そう、これでいいんだ。
夢に縋ろうとすれば、夢を叶えられると誤解してしまう。そうなる前に夢は理想でしかないと、夢は現実の前では脆く崩れると――その事実を口にするだけで、頭が納得してくれた。
そもそも男が女装して女子大学に入学すること自体、無理な話だったんだ。卒業まで誰にもバレずにいられるはずない。それどころ卒業して、それ以降も女装して幼稚園教諭を行うなんて不可能だ。
「恵唯、きて」
「聖さん……?」
ボクの発言を聞いた聖さんは、ボクの手首を掴み教室を飛び出した。
聖さんは、声質は普段と何ら変わりなく落ち着いていた。しかし、その形相は怒りを含んだもので、ボクは彼女を怒らせたと悟った。
それもそうか。ボクが聖さんに幼稚園教諭の魅力を教えといて、その本人が幼稚園教諭を貶したんだもんね……。
ドン!
トイレに連れてこられ、壁際に追い詰められた。それは清白ゲーム大会の再現のようだったが、今回は聖さんがボクに壁ドンし、ボクが壁ドンされているため、前回とは状況が逆だった。
「ねえ、恵唯。さっきのは本気なのかしら?」
「そうですね。本気、なのかもしれません」
「そう。前にも同じような話をしたことがあったわね。そのときのあなたは、やはり幼稚園教諭は社会に望まれていないということでしょうかと、私と杏樹に問いかけていたわ。それが――」
そのような話をしたこともあった。そのときは純粋に疑問に思ったからこそ、同じ夢を目指している2人に問いかけた。
でも、さきほどのは違う。言い切った。断定したんだ。
「なりたい人がなれない職業に夢があるなんて思いません。それこそボクの場合は、夢に挑戦できずに儚く散るはずだった」
「ボク? 挑戦って受験のことかしら?」
「それなのにたくさんの人に迷惑をかけてまで夢を目指して、いまもみなさんに迷惑をかけてる。叶わない夢に打ちひしがれる前に今度こそ夢を諦めるべきなんだ」
「男の子……。なるほど、あなたの幼稚園教諭に対するただならぬ執着、執念はそういうことだったのね」
「冷静なんだね」
口を滑らせたのは、ボクの存在を否定してほしかったのかもしれない。だから、ボクは冷静でいられたし、心の準備もできていた。
でも――。
「納得できるだけの理由があったのよ」
「男の人と2人きりは怖くない?」
「怖くないわ。あなたに下心があって、ここにいるわけではないと知っているから。下心があったのであれば、もう手遅れでしょう」
「そっか。ありがとう」
ボクが女の子でじゃないって知っても、動揺を見せない聖さん。それどころか一瞬だけ笑みが浮かんでいたようにも見えた。
聖さんにも信頼されているってことなのかな。
男が女子大学に潜入している時点で変態と罵られて、さらには幼稚園教諭を目指してるからってロリコンと疑われそうなものなのに。彼女の言葉や態度から一切感じない。それがちょっと嬉しかった。
「それで話を戻すのだけれど、女の格好をしてまで入学したのに幼稚園教諭にはならないってことでいいのよね? 退学するってことかしら」
「う、うん。無事に卒業できたとしても男のボクが幼稚園教諭なれるかなんてわからない。そんな人が本気で目指してる人の邪魔をするのはどうなのかなって思って」
「迷惑なんて今更じゃない。というか、あなたも幼稚園教諭を本気で目指しているうちの1人でしょう。ただ箔がほしいだけで入学した令嬢より余程いいわ」
「それにボクは夢しか見れてなかった。幼稚園教諭の暗い部分は知ってても見ないフリをしてきた。現実を直視してこなかった」
「それがなに? 私はあなたの夢物語に心を動かされたのよ。だから、子どもたちの前でピアノを演奏して、幼稚園教諭の魅力を知ることができた。魅力を教えてくれたあなたを目標に定めた。なのに、性別がバレた程度で弱気になって、幼稚園教諭に性別なんて関係ないでしょうよ! なりたい人がなればいいじゃない。やりたい人がやればいいじゃない。あなたはただ辞める理由を無理矢理探しているだけよ」
決心が揺らぐ。
男のボクも幼稚園教諭を目指していいんだって幻想を抱く。
幼稚園教諭は、決して幸せな仕事じゃない。肉体労働で、低給料の辛い仕事だと頭に言い聞かせる。
だけど、幼稚園教諭は幼児に夢を与えられる、幸せな仕事であることはどうしても否定できなかった。
「私はあなたの夢に向かって、ひた向きに努力するところは好き。でも、一度躓くとなかなか起き上がれないところは嫌いだけれど、力になってあげたくなるわ」
「えっ……す、好き……?」
「そう、好き。あっ……あぁ!」
感情をストレートにぶつける聖さんが珍しくて、つい勘違いしてしまう。それほど彼女の紡いだ言葉には想いが乗っていた。
だからか、ボクの顔が自然と熱くなっていた。聖さんも頬に赤みが浮かび、唇が震えていた。
「聖さん……?」
「っ……か、勘違いしないでちょうだい。私が好きなのは、夢を追いかけるあなたであって、ああもう! とにかく私の目標であるあなたが辞めるなんて許さない。一生恨んでやる。ふんっ」
やっぱり勘違いだった。まあ、女装趣味の変態を好きになるもの好きはいないよね。
「ごめんなさい。ボクを認めてくれたのに。ボクを目標にしてくれたのに。謝って許されないことはわかってるけど、聖さんは先生になってくれると嬉しい。ピアノができる……君はそれだけで魅力的な先生になれると思うから」
「私の将来をあなたが決めないで。私は自分がしたいようにする。だから、」
――あなたも自分のしたいようにすればいいわ。
聖さんはそう言い残し、去っていった。
その言葉の意味するところはわからない。ボクがしたいことはこの大学を卒業して、幼稚園教諭になること。それができないと思ったから、やめようと決意したのに。
「退学する。退学するんだ。なのに、聖さんは、なんでボクに期待を持たせるようなことを言うかなぁ」
決意が鈍る。
ボクの夢物語に心を動かされた。ボクを目標にしている。なんて言われたら、そうなるのもしょうがない。
「はぁ……ちょっと休憩」
トイレの個室にこもり、パンツを下ろさず便器に座る。
ボクはこの密室空間で、気持ちを落ち着かせてから教室に戻ることにした。




