2章第6.5話 遅刻する夢見る乙女。(倉賀野 杏樹視点)
「おはよ……」
重いまぶたを擦りながら、リビングに足を踏み入れていく。
新聞配達のバイク音がする頃に作った朝食は綺麗になくなり、その食器は洗浄された状態で水切りかごに置かれていた。
ってことは、恵唯ちゃんは朝食を食べて大学に行った後ってことになるのかな。
不安に駆られて、時計を見つめる。
「10時25分……」
2限のスタートから55分も経過していた。
今から向かっても、2限に遅刻。それどころから、欠席扱いになるんじゃないかな。
「なんで恵唯ちゃん、起こしてくれなかったんだろう……」
って口にはしたけど、これは自分が悪い。
ほぼオールで考えごとをして、最終的に眠りについたのは日が昇ったあと。それでも起きられると慢心していた。それがこの結果だった。
「んあぁ〜眠いなぁ……」
しかも、夜更かをしても、昨日指摘されたアニメオタクの件についての打開策は全く思いつかなった。そもそもわたしはなにをしたいのか、それもまだ明確になっていない。
「いまから行けば、3限には間に合うよね。お昼休みがあるし」
支度を整えて、ひとまず大学に向かう。
まだゴールデンウィークを過ぎたばっかりなのに外は蒸し暑い。寝不足の頭にガンガン響く。熱中症で倒れちゃいそうだ。
キャンパス内に入って、3限までまだ余裕があることを確認して、図書館に寄り道する。
図書館は、大学内でも1、2を争う快適で過ごしやすい場所。私語が一切ない静けさで、エアコンがよく効いて涼しい。寝不足な上に、とてつもない暑さにいまにも倒れちゃいそうなわたしにもってこいの癒し空間だ。
「このまま寝ちゃいそうだよぉ……」
「おやすみ、倉賀野さん」
「はい、おやすみなさい……ぐぅ。……え?」
清白女子大学はあまり聞かない男性の声。ぐったりした体を上げて、声の主の顔を伺う。
美しく整った顔立ちから涼しげな愛想を振りまく、スーツをびっしりと着たTHE・大人の男性。乙女ゲームの攻略キャラクターとして登場していても、不思議ではないくらいのイケメンな先生。
「えっと、と……こんにちは〜高原先生」
彼――高原利光は、恵唯ちゃんと聖ちゃんにピアノを指導している先生だ。聖ちゃん曰く、ピアノがすごく上手いみたい。
「ああ、こんにちは。今日は1人かい? 珍しいね」
「そう、ですか?」
「僕が君を見かけるときは、その周囲にはいつも佐々宮さんと鴫野さんがいたからね」
「あぁ……そう、ですね」
「あのだね、僕が年上だからといって敬語で話す必要はないんだよ。僕と君は、そう年齢差がないのだから」
敬語を使え慣れていないことを察して、助け船を出してくれた。
事実、敬語でしゃべるのはすごく疲れるし、好意には甘えさせてもらう。
「恵唯ちゃんと聖ちゃんは2限の講義にちゃんと出席してるんだけど、わたしは寝坊しちゃって……。だから、3限から出ようかなーって」
「そういうことか。じゃあ、それまで僕の暇つぶし相手になってくれないかな? 予定した時間よりも早く到着してしまったんだ」
「うん、大丈夫だよ!」
「では、失礼して……」
高原先生は、テーブルを挟んでわたしの対面に腰を下ろす。
「……」
「…………」
暇つぶし相手になることを受け入れたけど、とくに話題が挙げられることもなくて時間だけが過ぎていく。高原先生が、ピアノの練習をしている方が有意義だって後悔しているじゃないかって考えてしまうくらい本当になにもしていない。
「ピアノ……」
そういえば、高原先生は永遠の神童と呼ばれ、その由来は周囲が天性の才能で演奏する高原先生への皮肉から呼称したのではないかと自身のことを考察していた。それはすべての努力が否定され、才能はあるが力量はないと批評されているのと同義。
それなのに高原先生はピアノの演奏を辞めることはなく、いまも音楽界の一線で活躍している。
「高原先生はどうしてピアノを続けられるの?」
「唐突だね。それも質問の意図がわからない」
「急に知りたくなって、だから……」
「……好き、だからだよ。ピアノが。ピアノを弾くことが楽しいし、僕の演奏を認められることが嬉しいから」
赤くなった鼻に触れ、照れ臭そうに笑う。隠さずに自分の素直な気持ちをさらけ出せる高原先生が羨ましい。
わたしも、自分の好きを知って欲しい、理解してもらいたい。そう思っただけで、口が勝手に言葉を紡ぎ出す。
「わたしはアニメとかマンガとかが好きで、マンガを読んでるだけで自然と笑っちゃうし、アニメを見てると楽しくなるの。でも、周りの人はそれを受け入れてくれなくて……それが悔しくて。ダメな点を指摘されても言い返せなくて……悔しくて悔しくて」
「なぜ僕の演奏が受け入れられるか、って顔をしているね」
「……」
わたしの知りたいという気持ちが顔に表れていたみたいだ。わたし、いまどんな顔をしてるんだろう。は、恥ずかしいなっ。
高原先生は、少しの間、思考を巡らせてから、
「それはね、僕にはそれができる力があるからさ。好きを貫きたいなら、納得させるだけの力を準備すればいい。僕はそうやってきたし、これからもその努力を惜しまない」
「努力?」
「僕の場合には、演奏を上達させる努力。ひたすら練習したよ」
懐かしい青春時代を思い返すように笑う。その努力が無駄でなかったことは、高原先生が見せる笑顔が証明していた。
「その、わたしの場合だったら……?」
「倉賀野さんの場合は、アニメやマンガにダメな点がないことを証明すればいい。それができないのなら、ダメな点を覆すだけの魅力を模索すればいい。それが君にできる努力。手に入れた情報が君の力になる」
「情報……情報があれば覆せるかもだし、魅力も伝えられる」
「ちょうどいいことにここは図書館だ。様々な資料があるし、インターネットも利用できる。ここになら、倉賀野さんが求める情報があるかもしれないね」
「なるほど……なるほどっ!」
体がソワソワする。脳から溢れ出る知的探究心が抑えられない。
それを察してくれた高原先生は、
「僕のことは気にせず、行ってくるといいよ」
「ありがとっ! またねー」
高原先生に別れを告げて、即座に資料を漁りに向かった。
資料の多くは活字で、読みにくい表現が多分に含まれていたけど、それほど苦じゃなかった。これもライトノベルのおかげかな、と思い込む倉賀野杏樹でした。




