リハビリ中
この場所で今投稿している(していた)物語は過去五年前あたりから書き終えた物語で、いわゆる過去のものでつないでいるのである。
わが故郷、愛媛からここ千葉に来て早二年三か月という月日が流れた。
今の私の生活はというと本業に勤しむばかりで過去のように作家活動を行えていない。本業も割と生産性の高い職業であるが故、非生産的な生活というには少し違う気がしなくもないのだが、作家という手段のカテゴリーからすると確かに何も生み出せていない事からやはり非生産的な生活を過ごして今に至るのだろう。
それは何故?単純な話である。要は自分に余裕を見いだせないほど忙しいから。そこで自分自身の改めて気づかされる場所がある。
表だっては活躍してはいるものの、私生活がボロボロなのである。
一応自分のために擁護すれば、まあ、部屋はまだいうほど汚くはない。そう、ざっくりいうとキレイでもない。
私の仕事場とっても過言ではないそんな生活区が自分で表現してしまうほど美しい場所ではない。何故なら、やることが多すぎて手が回らないのである。それは忙殺と表現してもいいほどに。
しかし金は稼げている訳だからいいとしようと私の良くない超楽観的な感性と、それでいいなら性格的に破綻しているではないかという超絶潔癖的な性格が大戦を繰り広げているとういう情緒不安定な毎日。
どこで折り合いをつけられるのかというのがまさしく自分でも皆無。困った話である。
めぐり合わせよく、今日それも落ち着く話が舞い込んだので少し安心な話ではあるのだが…。
して、数か月前。新たな職場となった私の環境は昔よりも一段と良くなった。
要は本業だけに集中できて他は何も考えなくてもいい。だから、本来の私がなすべき事にも思考を向けられる時間ができたのだ。大変喜ばしいことである、自分なりに。
悲しいことにまだ過去の毒が完全に抜けず、今は只々堪え難きを堪える日々。それも長くは続かないことには気づいている。
今はこの「咲き誇る薫りにまみれ」で自分の心中を吐き出し、新たな物語を書けるようにリハビリを続けていこうと思う。
クリエイトというのは妙におかしなもので、ある日突然できる日が訪れるのである。
その日までリハビリ。よろしくお願いいたします。
最後に、最近心が震えた一説があった。それは我が心の師である浅田次郎先生の著であるエッセイに記されていたそれはそれは美しい一説…。
『文学は時代の鏡、作家は時代の良心』と…。
まさしくその通りだと思い、心が震えた。