冷静感
誰のための生活であるのだろうか。
何の為の自分なのであろうか。
もちろん全ては自分自身の為なのだという事は当たり前の話である。それぞ正しく究極の一人称であり、至極当然の話なのである。が、自分に鞭打って人の為にと行動してしまう方たちもいる。世のため人の為にという想いで自分を犠牲にしてしまう人たちが多い。それは別に間違いではない。ただ、正解とも言い難い。
昔の医学者に、人の為に自分の息子を犠牲にしたという方がいたらしい。一見立派な事をしていると捉えられるのだが、なんとなく腑に落ちない。まだ自分の息子の為に人を犠牲にしてしまった人がいるという方が人間らしいと思ってしまうのだ。
それは余談として、自身がやっている事は自分が楽しいと思えるほどのものでない限り長続きはしない。趣味を仕事にしてしまいやめてしまった人をこれまで何人にも見てきた。多分それは結局無理をしてしまったからなのだろうと私は思っている。
仕事はやはり多少の無理無茶をしなければならない時はあるのは否めない。しかしながらそれを続けすぎて自分を壊してしまえば元も子もない。仕事は生活する為の出来事であり、自分の許容範囲内に治めてするのが無難なのかなと感じてしまう。
そのラインが普通であり一般的なのかもしれない。そうなれば一般よりも上の役職に就くためにはそれ以上の事をしなければならないし、何かを犠牲にしなければ得られないものなのだろう、きっと。
そうしてまで得たいものなのか、もしそれを得た後に見た情景や状況は本当に心から得たかったものなのか。
それを得る事で失ったものがでかいと後悔してしまうのなら本末転倒でやはり長続きはしない。
ここで極めていえる事は、いかに自分と正直に向き合えているかが大切で、どうしたいどうなりたいと冷静に知っておく必要があるという事だ。何物かの力に流されていればいつかは必ずしわ寄せがきて自分を苦しめる現実がやってくる。
しかしながらそうしてしまったのも自分。そこで人のせいにすれば楽かもしれない。が、自分の未来に幸せは訪れなのいだろう。
そこでフラットに戻すために行動するも、現状を続けるも。
何もかも自分にかかっている。