幸せな宵刻
前回でも話した通り、やっと自分の時間が取れるようになり、本当に久方ぶりに某全国展開している本屋さんへ行った。
記憶を呼び覚ましてみても軽く半年以上行けていなかったと思う。まあ、見たことのない本がてんこ盛りであり、何故かテンション高く本屋を這いずり回りながらの数時間。多分周りの目は怪しく私を見ていた事なのだろうがそんな事など気にしないいけない大人の私。ほんとすいません。
いやー、こうも時が過ぎれば新作も莫大に出版されていて、重鎮様達の著作は然り、情報をおざなりにしていた私の罪であるのだが、初めて見る著者様の新刊が目白押し。軽くその場で読み、10数冊を大人買いして店を後にした。
近年はスマホで文を読む方たちも増え、このなろう様も然り。私もこの媒体にお世話になっているから強くは言えない節も見受ける訳なのだが、やはり文章は紙で読むに限る。
印刷された微かな匂いを感じ、紅茶を混ぜた焼酎を片手に熱された文章を読み、想いに耽る。そんな時間が自身の幸せであり、文章を書く活力につながる。
もちろん私はまだまだ無名なワナビー作者。そんな事は言われなくても自覚しているし、そうであるからこそ見えてくる現実がある。もしかすると私の著を手にした誰かが今の私と同じような気持ちで文章を感じてくれる時がくるのだろうか。はたまた、こんな駄文でプロになっただなんて日本文学も地に落ちたなと失笑する方も。
今は妄想の枠内であり、どうなるのかは私の行動であるのだが、そんな時間の過ごし方も文章を書いている者たちの自由な愉しみ方なのではないかと私は考える。
本業を終え、帰宅し、一人暮らしながらの家事を終え、ほっと一息つきながらいつもの酒を注ぎ、買ったばかりの本を…。ではなく、今は自身の本棚から手に取った巨匠・三島由紀夫大先生の「金閣寺」を読みながら宵を過ごしてた。
昔触れた文章を今の自分が読む事により更なる感じ方がある。それは小説だけに限らず漫画でもアニメでもそう。表現の解読力が心持で違うからやはり新たな発見があり、これ正しく愉しみなのである。文章を読む事により、自身の心の健全度を測る事も出来るのかもしれないと何となく思いながら、今日を振り返り、今これを書いている。
明日も皆に平等な時間が与えられ、予定では私も激務。しかしながら心は清く、大先生の文学はかつてになく美しく、ある意味引いてしまう表現ばかり(読まれた方はわかっていただけるはず…)。いや、それだけ素晴らしい文章なのである。
はてさて、腕から零れ落ちるほどの著作と、自分の妄想文章。残り宵はどちらに手を付けていいものかと、幸せな選択肢に想い悩んでいる。
これすなわち、安寧の形である。
多分立場変わればこんな時間の過ごし方もできなくなるのだろう。