文学の是非
天気予報に常々がっかりする。
最近腫れ日が続き、それはいい事なのだが、乾燥しすぎて環境に状況の変化がありすぎる。従来、八ホコリという現象があるというのは聞いていたが、それを今日目の当たりにして驚愕。表現すると、砂の壁が一方へと流されているのだ。それは天高く舞い上がり、茶に渦巻く空に変わる。
それは正しく『砂の街』
そう文学的に表現すれば美しいのだろうが、そんなもので変えられないくらい八街にいる方々は苦渋な想いを虐げられて今に至るのだろう。そう思えるほど、今日の現象に驚愕した。
思えば遠くへきたもんだ、という千葉二年生なのだが、そろそろ遊びも加えて生活していきたいと考えている。例えば『男はつらいよ』の葛飾、柴又へ行き、寅さんまがいの事をしでかしたいとか、麗しの大都会「東京」へ足を運び、古今叙事大和本紀の続編の取材も兼ねての遊覧もしたい。様々な願望はあるが、なかなかそうも言っていられない現実があるのだ。忙しい事はいい事なのだが、自分の心と相談する余地も必要だと感じた本日。柄にもなく、割と弱音を吐いてしまった本日であった。
ラジオによれば明日は天候が荒れるとの話。
元来雨好きの私としてみれば、そろそろ滝のような雨を望んでいる。車の中にいて、フロントガラスを叩く雨音に癒されてそのまま時を過ごす事もしばしば。それを期待しているのだが、予報のようにいかない近日にすこし苛立ちを覚えながらも、致し方なきと思い納得しようとしている自分。
雨は好きだ。自分の心を浄化してくれる、そんな気がするから。
こう下らない文章を書いている今も、自身の心の奥底を表現するいい媒体だと信じて癒されている。これを読み、どう感じてくれるかなど私には知った事ではない。
表現の自由。それが確立されていると信じているから、人は物を書くという術を選ぶのかもしれない。
情報はどこかに流れ、何かと連結してどこかに紡がれていく。そしてそれが後世に表され、それが歴史となつ。
私然り、文学を司る者達はそれを意識してしていかなければならないのだろう。
もし自身の小説が何かの賞にひっかかった後、その文学が日本文学を汚したと語り告げられないよう意識しなければならないというのも必要なのではないか。
最近、よくその事を考える。