醜いアヒルの子 学園編 Ⅶ
学校の生徒たちはニコルの噂にあっさりと食いついてきた。その入れ食いっぷりは半端ではなく、今では学校中がその噂でもちきりである。人間は常に真実ではなくおもしろい、または自分にとって都合のいい方を信じたがるものだ。つまり、誰も彼もがニコルと美幸の関係をある意味で面白がっている。また、学校で人気のある美幸のスキャンダルよりも、悪意を向けやすい嫌われ者のニコルの失態の方が彼、彼女らにとっては美味しいご馳走に見えているのだろう。
さて、ニコルはというと、美幸が学校を休み始めて3日目の放課後に行動を開始していた。ニコルは眼前聳え立つ戦場を見上げる。
「……ここかな?」
三人組に調べてもらった住所には、洋風の立派な家が建っていた。育ちの 良さは立ち居振る舞いに現れると言うが、あれはやはり事実なのかもしれない。そんな事を考えながらニコルは玄関に設置されたチャイムを鳴らす。その際にチャイムと並列して取り付けられている小型カメラになるべく顔を写さず、制服だけが写るように注意した。
「はい? どちら様?」
女性の声。恐らくは母親だろうとニコルは当たりをつける。姉妹がいるという話は聞いたことがないし、もしいるならジョージについての会話の中で出てくるはずだ。敬語を使っていないことからお手伝いさんの線もない。母親か、または祖母か。それだけにニコルは緊張する。ここで失敗すればすべてが台無しだ。
「初めまして。僕は渡良瀬さんと同じクラスで学級委員長をしておりますニコル・ウィルソンと申します。クラスで話し合いまして、僕が代表で渡良瀬さんのお見舞いに参りました」
もちろんすべて口から出まかせだ。だが、ニコルは自分の外見を鑑みて、正攻法では足掛かりすら掴めないと判断し、少々強引な手段に訴えた。
「まぁっ……クラスの? 有難いのだけれどあの子は今……ちょっと……」
美幸の母が言い淀む。
「部屋から出てこないのですか?」
「っ!? どうして……それを?」
自分もそうだったから……とはニコルはさすがに言えない。
「…………美幸さんとは最近メールのやりとりをしておりました。こうなった事情も分かっているつもりです」
我ながら嫌になるくらいに次から次へと嘘が口を吐いて出るとニコルは少し自己嫌悪に陥る。まるで詐欺師にでもなったような気分だった。
「…………そうなの」
美幸の母は沈痛そうに溜息を吐く。
「情けない話なのだけど、私はまったく事情を知らないの。何を聞いても大丈夫の一点張りで……。ここ数日はまともに食事もとってくれなくて……」
美幸の現状はどうもニコルが想定していたものよりずっと深刻そうであった。思いつめた人間は簡単に負のスパイラルに陥ってしまう。考えるのをやめたくてもやめられない。美幸は優しい少女である。今回の件も時間が経つごとに自分への嫌悪や親友への罪悪感が出てしまっているのだろう。
「渡良瀬さんの親友の倉敷早苗さんをご存じですか?」
「ええ、もちろん。よく家にも遊びに……え? まさかっ!?」
「はい。彼女と教室で派手に喧嘩してしまったようです。それも大勢の前で」
「……そんな早苗ちゃんと……」
美幸の母も早苗とは良好な関係を築いていたらしく、その声色には明確なショックが感じられた。だが、そこは母親だ。すぐに気を取り直すと、ニコルを気遣うように言った。
「あっ、ごめんなさいそんな所で立ち話させちゃって! 鍵を開けますから中へどうぞ? もう少し話を聞かせていただける?」
「は、はい」
来た、とニコルは身構える。最初の訪問で家の中に誘われるのは予想していなかったが、いずれ通る道である。
ガチャリと鍵の開く音が聞こえ、玄関のドアが開く。その向こうから姿を現す女性とニコルの目が合った。
「あっ」
ニコルは小さく声を漏らす。出てきたのが美人だったからではない。もちろん、長い黒髪に線が細く、娘がいるとは思えぬ程若く見える美人であったが、ニコルが声を漏らしたのはその表情にあった。ニコルの顔を見て一瞬ビックリしたようだが、フワリとすべてを包み込むように微笑んだのだ。ニコルはその笑顔にもういない母親の顔を久しぶりに思い出し、つられて微笑んだ。
「ニコルくん? 中へどうぞ」
ニコルは血の繋がりの偉大さについて改めて思い知ることになった。
「お茶どうぞ?」
「あ、ありがとうございます!」
渡良瀬家のリビングに通されたニコルは適温に温められたお茶の美味しさに感嘆しながらも、内心はものすごく緊張していた。不躾とは思いつつも、軽くリビングを見渡すと、外観と同じく洋風の造りで、これまた高級そうな家具や絵画、小物などがセンスよく飾られている。
「さっそくで悪いのだけれど……」
何と切り出すか迷っているニコルを助けるように、美幸の母――――美智子は先に切り出した。
「美幸は……その……」
だが、その後に言葉が続いてこない。ニコルは美智子が何を言いたいかを察し、安心させるように言う。
「あ、安心してください。美幸さんはイジメられている訳ではないんです」
ただ、不幸な行き違いがあっただけだ。今でも美幸の人気は衰えていない。むしろ新しい噂が流れた今、同情によってより人気している程だ。
「そ、そうなの?」
ある程度は覚悟していたのだろう。美智子の肩から一気に力が抜ける。
「さっきも言った通り、親友の倉敷早苗さんと少し行き違いがあったんです」
三人組に仕入れて貰った情報によると、そもそも早苗には美幸と喧嘩したという自覚すらあやふやらしい。
「行き違い……。もしかして……恋愛関係?」
「えっ!?」
ニコルは酷く驚いた。実際は恋愛云々ではないが、まったく違うかと言われればそうではない。それにも関わらず、美智子の口から恋愛という言葉がでたことが信じられなかった。
「その様子だと……そうみたいねぇ……」
美智子が深く溜息を吐く。ニコルは困惑しながら問いかけた。
「ど、どうしてそう思ったんですか!?」
「それはこの歳になっても私だって女だもの。つい最近まで仲の良かった二人がそんな風に擦れ違うなんて……恋愛絡みだって察しがつくわよ。あの年頃ですもの……」
「な、なるほど……」
ニコルは感心した。女性の勘は鋭いとはよく聞くが、たぶんそれだけじゃないのだろう。ここまで確信をもって話せるのはきっと、美智子が母親としてそれだけ美幸の事をよく見ているのだろうとニコルは思った。
「もしかしてその恋愛絡みの男の子ってニコルくん?」
「ブッ!?」
思わずニコルはお茶を吹きだしかけた。だが、これまでの会話を思い返せば、そう思われても仕方ないとも思った。まぁ、普通はニコルの顔を見ただけでそういう事は考慮もされないのが普通だろうが。
「あら? もしかして図星?」
「ち、違いますよ!!」
「そんなに慌てなくてもいいじゃない」
楽しそうに笑う美智子。このままでは誤解されてしまう。それでは美幸にも悪いだろう。そう思ったニコルは恥ずかしい自分の気持ちを抑えて、ニコルと美幸のこれまでの経緯を大まかに美智子に話した。
「なるほど、そんなことがあったのね……」
沈痛な表情でニコルを見る美智子。その瞳は深い悲しみの色を宿していた。経緯を話すということは、ニコルの事情もある程度話すということ。混乱を避けるためとはいえ、美智子の同情を誘うようなやり方にニコルは俯く。
「あの……ごめんなさい」
「えっ?」
「自己紹介の時に嘘をついてしまって……」
事情はどうあれ、美智子を騙したことには違いない。ニコルは深く頭を下げる。
「いいのよ。顔を上げて?」
その声に導かれるように顔を上げると、美智子のあの包み込むような優しい笑みがあった。母親を連想させる笑顔。
「むしろ私が感謝しなくちゃ。美幸のためにありがとう。これからもお友達でいてあげて?」
「は、はい。それは……もちろんです」
「じゃあ行きましょうか」
「えっ?」
美智子が静かに立ち上がった。手を引かれてニコルも立ち上がる。
「我が家のお姫様の所に……ね?」
MIYUKI――――ドアに掲げられた猫の可愛らしいプレートにはそう書かれていた。
コンコンッ!
美智子がドアをノックする。
「……………………何?」
数秒の間をおいて、三日ぶりに聞く美幸の声がドアの向こうから聞こえる。それはどこか気だるげで、ニコルの知っている美幸の声とは少し違う。
「いつまでそうしているつもりなの?そろそろ出てきなさい!」
「…………ほっといてよ」
拗ねたような声。美智子は溜息を吐きながら声をかけ続ける。
「貴女、生徒会長なんでしょう?押し付けられたにしても最後まで責任をとりなさい。それにもうすぐ受験なのよ?」
「…………うるさいっ!」
バンッ!ドアに何かが当たった音がした。
「今さら学校行ったってぇ……」
すすり泣く様な声。美智子は苦笑いでニコルの方を振り向き、口だけで『ごめんなさいね?』と伝える。
「早苗ちゃんと喧嘩したんだって?」
「っ!?なんでそれを知って!?」
姿は見えないが、美幸が慌てていることだけは分かった。想像の中の美幸が可愛らしくて、ニコルは声を殺して笑いを堪える。
「今お客さんが来てて、全部聞かせてもらったの」
「も、もしかして……」
美幸の声に宿る感情。それは期待だ。緊張で掠れ、どことなく興奮で弾んでいる。
「だから、ここを開けて?」
「…………」
返答はない。だが、足音が聞こえる。
ガチャリとドアノブが捻られた。そして開かれた扉。
「えっ?」
間の抜けた声だった。それは美幸の口から出たものだった。ポカンと口を大きく開けて、ニコルを見ている。ニコルは美幸にぎこちなく微笑んだ。
「お、お邪魔してます――――っうわ!?」
「きゃっ!!」
ニコルは背中を押され、美幸の部屋に押し込まれる。当然、美幸も部屋の中に逆戻りだ。
「ニコルくん!頑張って!」
犯人である美智子は無責任にガッツポーズを作って笑っていた。
ガチャリ。再びドアは閉ざされた。
「いっ」
「い?」
「いやあああああああああっ!!」
「うわっ!」
美幸は悲鳴を上げながらベットに飛び込み、頭から布団を被った。ふと見えたその表情は燃えるように紅かった。
「あの……?」
「こ、こっちに来ないで!」
近寄ろうとしたニコルはその一言にピタリと足を止める。
「私、今酷い顔してる……髪もぐしゃぐしゃ……お風呂も碌に入ってないっ!」
確かに、一瞬見えた美幸の姿はお世辞にも綺麗とは呼べるものではなかった。だが――――
「僕は気にしないよ」
「私が気にするんですっ!!」
「そ、そっか……」
そう言われてしまえばどうしようもない。ニコルはある程度の距離をとって床に敷かれてある絨毯の上に腰を下ろした。部屋の中はひどい有様だった。雑誌の類が乱雑に積み重なり、美幸の脱いだ制服やジャージが床に散乱している。いつもこうではないのだろうが、ニコルの中にある美幸のイメージとはかけ離れている。そういう生の美幸に触れて、ニコルは不謹慎ながら少しだけ嬉しく思った。
「……早苗かと思って油断しました」
「ごめんね」
「……いいんです。ニコルくんは私を心配して来てくれたんでしょ?」
「うん」
「…………ありがとう」
「気にしないで」
「「……………………」」
気まずい沈黙。きっと美幸から口を開くことはないだろう。美幸は今この瞬間も、自分を責めている。ニコルは実体験として、それを知っていた。
「倉敷さん」
「早苗?」
「うん、クラスの子に聞いたんだけど、最近元気ないって」
「…………」
美幸は何も言わない。だが、早苗の名前を出したとき、布団がビクリと動いた。それが何よりも美幸の心情を表している。
「仲直り……しなくちゃ……」
率直にニコルは言う。正論。誰でも言える言葉。
「……分かってる」
正論を言われた美幸にはそう返すしかない。だが、その返答にはどこまでも力がない。
「……じゃあ、学校行こう?」
「…………」
美幸は迷っている。それだけは確かだ。でも、こういう時に必要な勇気は普段と少しだけ違っていて、誰か仲間が必要だ。背中を押してくれる仲間が。ニコルは美幸と知り合って、それほど長くない。お互いに知らない事の方が圧倒的に多かった。それでも――――美幸はニコルの友達だ。ニコルは美幸にもう一歩踏み込むことを決めた。友達にしか言えない言葉を伝えるために。
「僕ね……今、学校でイジメられてるんだ」
「えっ?」
ガバッと美幸が布団から顔を出す。目尻から涙が零れていた。髪はぐしゃぐしゃで普段とは別人のように覇気がない。しかし、それを差し置いても渡良瀬美幸という少女はとても魅力的だ。こんな所で躓いていい少女ではない。
「嘘ついたから」
「…………嘘?」
「うん、美幸さんが学校に来ないのは僕のせいだって」
「なっ!?」
美幸が目を見開く。
「ど、どうして……」
声が震えていた。ニコルは分かっていた。自分を犠牲にするやり方は、美幸も傷つけることを。分かっていてなお、そうした。
「友達だから」
「友達って……そんな……」
美幸は信じられないとばかりに首を振る。しかし、美幸にもニコルはそんな冗談は言わない……それくらいの事は分かっている。
「美幸さん僕のために怒ってくれたんだよね?」
「違うの……私なんて自分の事しか考えてなくて……」
惨めな執着かもしれない。きっと初めてできた友達を失いたくないだけだ。誰でも良かった、それをニコルは否定できないだろう。でも、相手が美幸で良かった。そう感じるニコルの気持ちだけは本物だ。
「ううん。それでも美幸さんは僕の事を考えてくれてると思う。話を聞いて、少なくとも、僕はそう思った」
勝手にニコルがそう思って、勝手にニコルが救われた。ただそれだけ。
「だったら僕も美幸さんのためにこれくらいはするよ」
重いと気持ち悪がられても仕方ない。実際ニコルはこれくらいの事はなんでもないと思っていた。加減の分からない子供だ。だが、すべて本音であった。
「学校行こうよ?早苗さんも待ってる。それに、美幸さんが来ないと僕もずっとイジメられちゃうし」
わざと冗談めかしてニコルは言う。すると、ようやく美幸は笑ってくれた。
「……もうっ! ニコルくんずるいよっ」
「自覚してます……はい」
「ありがとう……私、明日学校行く……。早苗ともいろいろ話して、もしかしたらまた喧嘩になるかもしれないけど、自分の素直な気持ち誤魔化したくないから……」
「うん。僕に出来ることあれば何でも言ってね?」
美幸はコクリと頷く。
「「……………………」」
さっきとは違い、それは嫌な沈黙ではなかった。ニコルが美幸に顔を合わせると、はっとしてまた布団に潜り込む。そんな美幸にニコルが苦笑いしていると、家のインターホンが鳴った。新しい来客かと思っていると、下からドタドタと足音が聞こえる。いきなり美幸の部屋のドアがガバッと開かれる。
「わっ!」
思わず声が出た。美智子であった。美幸は布団の隙間から様子を伺っている。
「ニコルくん!大変よ!早苗ちゃんが来たわ!」
「え゛」
ニコルの口からすごい声が出た。
「もう下にいるからニコルくんはこっちへ!」
「は、はい!」
その時、下の階から『美智子おばさーん?』と声が聞こえた。美智子はそれに対し『ちょっと待ってねー!』と答えながら、ニコルを隣室へ連れていった。
「早苗ちゃんを美幸の部屋に連れていくから、それまでここで待ってて貰える?」
ニコルはコクコクと頷く。連れてこられた部屋はどうやら夫婦の寝室のようだ。何の非もないが、なんとなく旦那さんに対してそこはかとない罪悪感を感じつつ、ニコルは部屋の隅で耳を澄ます。足音が二つ。会話を交わしながら、隣室へと入っていく。笑い声。どうも荒れ果てた美幸の様子を見て、早苗が笑っているらしい。それに対して怒る美幸の声。ニコルは上手く仲直りできそうだと安心した。それから10分くらいが経っただろうか。美智子が部屋のドアを開け、謝る。
「ごめんなさいね。本当なら晩御飯くらいご馳走させてもらおうかと思ってたんだけど……」
「いえ、気にしないでください」
やるべき事はやった。もっとも、ニコルが来るまでもなく、解決していたのかもしれないが。
早苗に気づかれないようにニコルは美幸に促され、玄関へ。
「またいつでも来てね。歓迎するわ」
「はい、ではまた」
家族以外の家に歓迎されるなんて、本当に何年振りだろうか。辛いこともあったが、ニコルにとってはその一言だけで全部報われたような気さえしてくる。ニコルが外に出ると、もう暗くなっていた。その星空はいつもより輝いてみえた。美智子が手を振る。それにニコルは恥ずかしそうに振り返した。
「母親ってやっぱりすごいな……」
きっとこれから美幸とどんなに仲良くなっても、母親を超えるのはどう考えても無理そうだとニコルはしみじみ思った。
美幸は部屋の窓から外を見ていた。
「何見てるの?」
早苗が問いかける。
「大事な人」
「だ、大事な人!?」
早苗が慌てて窓から外を見るが、すでのそこには誰もいなかった。
「大事な……友達」
そう美幸が言うと、早苗が口を尖らす。
「へぇ……私以外にそんな人いるんだー」
「もう嫉妬しないでよ」
「し、嫉妬なんかしてない!!」
「ふふふ」
こんな軽口を交わせるのも、すべて彼のおかげだった。美幸は大事な親友の姿を頭に思い浮かべ、心の中で感謝する。
『ありがとう、ニコルくん』
「で、誰?」
不機嫌そうな声に現実に立ち返る。早苗は落ち着かない様子で視線を彷徨わせていた。
「内緒」
「えええええええええっ!」
早苗はじたばたと身もだえる。美幸は微笑みながら、そんな日常を噛みしめる。
でも、そう、いつか――――
「また早苗にも紹介します」
第一章終了です。
次から第二章に移ります。