私が白鳥だった頃 プロローグ
木々が鬱蒼と生い茂った森の中。血の匂いがした。それと同時に獣の匂い。葉と葉が擦れあい、ザワつく。
「バズビ バザーブ ラック レク キャリオス オゼベッド ナ チャック オン エアモ
エホウ エホウ エーホーウー チョット テマ ヤナ サパリオウス!」
その匂いの元を辿れば、信じ難い事に、年若い少女たちに行きつく。血で描かれた巨大な魔法陣。それを結界に見立て、そこから決して出ないように少女たちが手と手を取り合い、円を作る。
その中心には生々しく新鮮な獣の心臓。夜闇の中、鳥の鳴き声と少女たちの淡々とした詩が流れる。第三者がこの光景を目にしたならば、誰もがさっとこの場に背を向けるだろう。それくらい雰囲気といい、少女たちの詩といい不気味過ぎる程に不気味だった。
「バズビ バザーブ ラック レク キャリオス オゼベッド ナ チャック オン エアモ
エホウ エホウ エーホーウー チョット テマ ヤナ サパリオウス!」
繰り返し、繰り返し、唱える。
少女達の額には大粒の汗。まだ肌寒いこの季節には不釣り合いなほど、寒気と同時に熱気を感じた。
少女達の中の一人は思う。どうしてこんな事になってしまったのだろう、と。
「バズビ バザーブ ラック レク キャリオス オゼベッド ナ チャック オン エアモ
エホウ エホウ エーホーウー チョット テマ ヤナ サパリオウス!」
元々少女達の目的は軽いストレスの発散にあった。日々休みなく働く毎日。肌は荒れ、男尊女卑が当然の様に罷り通っている。男兄弟のいるものは、公然としてその下に見られる。曰く、無駄な食い扶持。そうした環境下で少女達が健全な精神で日々を過ごせるはずがなかった。かといって、その根幹には異性や親、家族に対する劣等感や恐怖。または、矛盾した愛情に飢えている。大それた事など、できるはずがなかった。そこで少女達が執心したのが占いの類だった。
占星術やタロット。それらで己が運命を占い、一喜一憂する。良い結果が出た時は皆で幼子の様に喜び笑いあった。そんな、他愛もない遊び――――だったはずなのに。
「バズビ バザーブ ラック レク キャリオス オゼベッド ナ チャック オン エアモ
エホウ エホウ エーホーウー チョット テマ ヤナ サパリオウス!」
グループの中に、ミレイナという少女が加わった時から、すべては加速度的に変わり始めていた。元々村の中で少女達のグループはどちらかというと地味な面子ばかりで構成されていた。対して、ミレイナは村の同年代の少女達のグループの中でもリーダー格に位置している。おまけに家も比較的裕福であった。一部ではロンドンの貴族とも繋がりがあると噂される程に。そんなミレイナが仕切りだすのに、たいして時間はかからなかった。おまけに、ミレイナの金魚の糞たちが大挙して占いに参加してくるようになった。ミレイナに目をつけられたくない少女達は表面上笑顔を浮かべながらも、内心嫌々ながら従わずにはいれなかった。ただでさえ肩身の狭い村の中。そこで同年代の同性まで敵に回す勇気が少女達にあるはずがない。生まれてこの方、碌に自己主張というものをしたことがないのだ。そういうのは男の特権。女は黙って従っていればいい。少女達を誰も責められはしまい。たとえそれが悲劇を招く選択だったとしてもだ。
「バズビ バザーブ ラック レク キャリオス オゼベッド ナ チャック オン エアモ
エホウ エホウ エーホーウー チョット テマ ヤナ サパリオウス!」
唱えながら、少女達は震える。それはミレイナの取り巻き達にしろ、同じだったに違いない。心から真摯に唱えているのはむしろミレイナだけだろう。
それもそのはずである。つい先日、隣町で密告があり、大規模な異端審問が行われたばかりである。確たる証拠がなくとも、疑わしきは罰せよが異端審問の大原則である。少女達の誰か一人でも裏切るか、誰か一人にここでの行為を知られるだけで、少女達の人生は一瞬にして灰燼に帰す。
だが、そういった状況においても、誰一人やめようなどとミレイナを諭す者はいなかった。その場にいた誰もが、誰か言ってくれと他人に期待を投げかけるだけだ。
「ふぅ……」
五回唱え終わり、ミレイナが息を吐く。
その瞬間、その場にようやく弛緩した空気が流れた。
――――今日も何事もなく終われた。
ミレイナ以外の考えることは一緒である。悪魔など実際に出てこられたら困る。それが総意である。
「今日も何も起きなかったわね……」
ただ一人、ミレイナだけが現状を不満に思い、落胆を浮かべていた。
「ま、また明日頑張りましょう!」
「そうよ!そうよ!」
ミレイナのご機嫌を伺う様に、取り巻きが声を張り上げた。余計な事を……とは誰も思わなかった。取り入らなければ生きていけないのは、何もミレイナの取り巻きに限った話ではないからだ。
そんな光景を見せられ、元々いたグループの少女の一人が静かに涙を零す。現実を忘れるために始めたお遊びがいつの間にか現実を脅かそうとしている。元も子のないどころの話ではなかった。
しかし、どれだけ渡っている橋が危ないとは思いつつも結局は渡ってしまうのだ。何故なら、一日一日を生きるのに必死な少女達には元より未来に思いを馳せる事などできるはずもないのだから……。