醜いアヒルの子 誕生日編 Ⅴ
「…………」
ニコルが何度メールしても美幸からの返事はなかった。
「美幸さん……」
ダメ……だったのだろうか。振られればショックを受けて当然だ。メールを見ることもできないくらいに落ち込んでいる。むしろ、ニコルが今メールを送ること自体が無神経。そう自分を納得させようと理論武装を試みるが、ニコルは嫌な予感を振り払えずにいた。その予感の根底にあるもの、それは――――
『ただいまーニコチー』
ついさっき帰ってきたジョージ。ジョージは満面の笑みを浮かべながらニコルにそう挨拶をしていた。普段と何の変わりもないその姿。それを見て、ニコルは美幸の告白が上手くいったものだとばかり思っていたのだ。ジョージは人が傷つくことを極端に嫌う優しい子だ。美幸を振ったとするなら、ニコルが笑顔でいられるはずがなかった。
「……どういう事……?」
このまま何もせずにいてもいいのだろうか。ニコルはそんな焦燥感に追い立てられていた。美幸はニコルの親友だ。今日改めてそれをお互いに確かめ合った。自分を気味悪がらなかった初めての他人。いつの間にかその存在はニコルも知らぬ間に大きくなり、ジョージと同じくらい大切な存在となっていた。
「…………ジョージの所にいこう」
ニコルを動かすのは大切な人のために何かをしてあげたいという純然たる善意だった。その感情こそがニコルの本質といってもいい。ただ、その嘘偽りのない純白の善意がいつも物事を上手く進めることができるとは限らない。
「ジョージいる?」
リビングを訪れたニコルは、そこに座って紅茶を飲んでいたジェイクとシェリーに問いかけてみる。二人は揃って首を横に振った。
「先ほどお風呂を済ませていたので、部屋にいると思いますよ」
シェリーのその言葉に軽くありがとうと告げ、ジョージの部屋に向かおうとしたしたニコルの背中に「待ってくれ」とジェイクの声がかけられる。
「どうしたの?」
ニコルは振り返る。だが、すぐにでもジョージの元へ行きたいのか心ここにあらずといった体である。 それとは対照的にジェイクはせわしなく視線を彷徨わせ、どことなく緊張していた。
「……その……今晩どうするんだ?」
「今晩って……」
ニコルは戸惑う。その話はもうとっくの昔についたものだからだ。
「ジョージを……呼ぶのか?」
「…………」
ニコルは露骨に不快そうな表情を浮かべる。ジョージや美幸の前では見せたことのない表情。それを見てジェイクは慌てる。
「ご、ごめん……」
小さくなったその姿はとてもウィルソン家の現当主には見えない。まるで小さな子供のようだった。ニコルは小さく溜息を吐くと言った。
「そんな気はないよ。そもそもだいぶ前からこういうのはもうやめたいって言ってたでしょ?ジョージとは兄弟として上手くやれてるし……」
ニコルのお役目の手前、今まで曖昧に交わしてきた返事に、今日こそは断固たる意志を込める。
「……………………」
ジェイクはそれでもまだ何か言いたそうな顔をしていたが、ジョージの事が気になったニコルはすぐに踵を返した。
コンコン。ドアをノックする。返答はすぐだった。
「はーい。入っていいよー」
声は明るく、やはり普段と変わりない。いや、むしろ普段より明るい気さえした。
「入るね」
一応一言かけてニコルは部屋に入った。
「ちょっとジョージに聞きたいことが――――っ!!」
言いかけて、ニコルは目に映った光景に絶句する。
「ぁ……ジョージ、それ……」
ジョージの部屋の机の上には、美幸のプレゼントしたガラス製のフォトフレームが砕け散った状態で鎮座していた。
「ああ、これ?壊れちゃったー」
なんの悪びれもなくそう言い放つジョージ。そこには何の感慨もなかった。どうでもいいものが、壊れてゴミになった。ただ、それだけ。
「床にも破片散ってるかもしれないから、ちょっと待ってて!」
困惑するニコルの横をすり抜けて、ジョージは階下へ降り、持ってきた掃除機をかけ始める。掃除機がかけ終わり、フォトフレームがゴミ袋に入れられる一部始終をニコルは呆然と見ていた。
「ふぅ……それでニコチーの聞きたい事って?」
まるで何もなかったかのようにジョージはニコルにそう問いかける。
「…………えっと…………」
一部始終を見ていたにもかかわらず、ニコルは未だに目の前の現実を受け取められずにいた。そんなニコルの様子を楽しむようにジョージは言う。
「渡良瀬美幸さんの事でしょ?」
「…………ぁ」
渡良瀬美幸。その名を口にする瞬間にほんの僅かジョージの瞳に浮かんだ感情は紛れもなく敵意だった。そこに至りようやくニコルは理解する。ジョージの悪意。そこにいたのは生まれた時からずっと傍にいたにもかかわらず、ニコルの全く知らない少年だった。
「…………美幸さんに、何したの……?」
力ない言葉。だが視線は鋭く、ニコルは家族を睨み付ける。
「そんな目で見ないでよ……。別に渡良瀬さんには何もしてないよ。お付き合いできませんって言っただけ」
「嘘!」
今度は鋭い声。
「じゃあどうしてジョージはそんなに美幸さんに敵意を向けてるの?」
「敵意なんて向けてないよー。ただあの人はニコチーを利用した。だから少し釘をさしただけ」
「僕は利用なんてされてない!」
そう言いながらニコルは内心自分を恥じた。こうなるかもしれない事は十分に予測できていたことだった。にも拘らず、ニコルはジョージなら分かってくれるだろうという信頼という名の楽観で問題を放置してしまった。その結果がこれだ。すべてはニコルの責任。ジョージにしろ、家族を思うが故の行動だったのだろう。とにかく、ジョージに分かってもらおうとニコルは口を開こうとする。だが――――
「まぁ、知ってたけどねー」
「え?」
呆気らからんとジョージは言い放つ。
「今まで利用されたからってニコチーが家まで連れてきたことなんてなかったしー。まして本気で信頼してない人を僕の誕生日パーティーに連れてくるわけないよねー」
「……ジョ、ジョージ?」
ニコルにはジョージが何を考えているのかがまったく理解できずにいた。誤解しているからその誤解を解こうとすれば、すべて知っていたという。すべて知っていたにもかかわらず美幸に何かしら酷い事を言ったという。ニコルには今までジョージの事ならばなんでも分かっているという自負があった。だがその自負は、ほんの数秒で脆くも崩れ去った。ジョージの目的が分からずニコルはただただ困惑した。
「……ジョージ……どうしちゃったの?」
だからニコルはジョージ本人に聞くしかなかった。弟を何も理解してあげられない自分が情けなくとも聞くしかなかった。また、美幸にしたことに対しての怒りもあった。
「どうしちゃったの……か。まぁ確かにニコチーからすればそうかもね……。そろそろ頃合いかなー」
ジョージはそのようなことを小声で呟く。
「僕が何を考えてるのか……知りたい?」
「…………」
ニコルはコクリと頷く。
「じゃあ午前零時にあの部屋で待ってて。そこで全部教えてあげる」
「あ、あの部屋?!」
「うん、あの部屋。もちろん分かるよね?」
落ち着き払ったジョージと対照的にニコルは慌てだす。
「あの部屋って……そんな無理だよ……」
「無理?どうしてー?」
「そ、それは……ちょっと出かけないといけないし……」
ニコルの声はどんどん小さくなっていく。
「深夜にどこに出かけるのー?」
「それは……その……」
ニコルはチラチラとジョージの様子を伺っている。立場は完全に逆転していた。
「そういえばニコチーっていつも僕の誕生日にいないよね?」
「…………」
ニコルの喉は極度の緊張でカラカラに乾いていた。ジョージの口振りは、明らかにニコルのある秘密を知っている様子だったからだ。
「そもそもさ……気づかないと思ってたのかな?ニコチーも父さんも」
「…………な、何を?」
それでもニコルは白を切り続けるしかない。ばれている可能性が高くとも、ニコルはジョージにだけは秘密を秘密のままにしておきたかった。普通の兄弟でいたいと思った。だが――――
「ニコチーさ僕が生まれた時からその姿のままじゃん。成長してないじゃんか」
「っ!!?」
ニコルにしても、それは当然いつか聞かれるべき問題であった。だが、ジョージはいつまで経っても聞いては来なかった。だから、油断していたのだ。
「小さい頃は何も思わなかったけど、さすがに小学校高学年にもなると不思議に思うよ。はっきりしたのは僕が中学校に上がると同時にここに引っ越してきた時だよ。あの時は引っ越しの理由をはぐらかされたけど、ああ、そういう意味なんだろうなって」
何年も同じ場所に留まり続けているとニコルの外見が変わらないのを疑問に感じる人間が出るかもしれない。ニコルのその外見の特殊性もあって顔を凝視されることは少ないが、それゆえに印象にも残りやすい。だから十年を目安に生活拠点を変えてきた。日本にやってきたのもその一環である。事実、欧州の一部地方ではニコルは有名であった。
「ジョ、ジョージ……僕は……」
ジョージを騙したり欺こうとした訳じゃない、そう弁解しようとしたニコルにジョージは優しく微笑む。いつもの無垢な笑顔。しかし、ニコルにはその笑顔の裏にどす黒い欲望のようなものを幻視してしまう。
「僕は怒ってないよ。でも、ここでのお話はもう終わり」
「…………え?」
「続きはあの部屋で……ね?」
それっきりジョージは微笑んだまま黙り込んでしまう。身の置き場のなくなったニコルは逃げるようにジョージの部屋から出て、自室に戻った。
「……………………」
ニコルはベッドの上にドサリと倒れ込む。身体を覆い尽くす脂肪がブルリと揺れ、ニコルは不快さに顔を歪める。運動しようが食事制限をしようが痩せることのない身体。平時はいい。だが、今のように心が弱っている時などは未だに違和感ばかりの自分の身体を意識して死にたくなる。
「…………22時」
ノソリと体を起こして時計を確認する。
「あと2時間……」
憂鬱だった。ここ数年で一番といっていいほど。
「どうして……こんな上手くいかないんだろ……」
ジワリとニコルの瞳に涙が浮かんだ。昔からニコルが自発的に行動して物事が上手くいった事はほとんどない。そんな自分にも美幸を再び笑わせる事ができた時は本当に嬉しく、ニコル自身も救われた。
「ぁ……そうだ……美幸さんだ……」
携帯をチェックすると、やはり着信はなかった。それでも美幸のために何かしてあげたいという想いまでニコルの胸の内から消えた訳ではない。
ニコルは涙を拭う。
「ジョージともう一度話さなきゃ」
それだけが今ニコルにできる事だった。そのためにニコルは覚悟を決める。ジョージの思惑を聞くことだけではなく、ニコルの秘密を打ち明けること。
あと2時間弱その時のためにニコルは準備を始めるのだった。