009 春らんまん/千風と白玉
雑然とした事務室のドアを、まるで自分の家であるかのような気楽さで開き、タイトな黒いデニムの上下に身を包んだショートヘアーの女性が、顔を覗かせる。
「シラタマさん、いる?」
マニッシュではあるが、女性的な魅力にも溢れている、人間でいえば二十歳前後に見える女性が、事務室の中に入りながら、目当てである相手の姿を探す。
「千風か。こんな夜遅くに、どうしたんだい?」
事務室の奥にあるドアが開き、白衣を着込んだ初老の女性が姿を現す。この白衣の女性が、マニッシュな女性……黒貴千風がシラタマさんと呼びかけた相手の、鈴木白玉である。
白玉は、長い白髪を後頭部で大雑把に結っていて、初老といえる年齢ではあるのだが、女性としての艶と魅力がある。
「仕事帰りに袋小路市場に寄ったら、竹輪の特売やってたんで、まとめ買いして来たんだ。だからお裾分け」
千風は白玉に歩み寄りながら、手にした大きな紙袋の中から、竹輪の入った小さな紙袋を取り出し、白婆に手渡す。
「飛ビ吉の竹輪かい! そいつはいい、有り難く貰っておくよ」
水産加工業者である飛ビ吉の商標である、大きなトビウオのマークが印刷された、竹輪が六本入っている紙袋を受け取りながら、白玉は舌なめずりをする。まるで猫のように。
「それにしても珍しいねえ、飛ビ吉が特売やるなんて。安売りせんでも、売れるだろうに」
「トビウオが予想以上の大漁で、一時的に価格が暴落してるせいらしいよ」
千風は白玉の疑問に、市場で耳にした飛ビ吉での竹輪特売の理由を答える。飛ビ吉の竹輪や蒲鉾、薩摩揚げなどは、トビウオを主原料にしたもので、味も品質も他の水産加工業者に比べ、格段に評判が高いのだ。
主原料であるトビウオの市場価格が暴落した為、一時的に飛ビ吉は、トビウオを主原料とした主力製品の特売を決めたのである。こういった事は、余り無い。
飛ビ吉の特売の話から始まり、他にも色々と、街で噂となっている話題などについて雑談を交わした後、千風は白玉の家……というよりは、研究所と自宅が兼用となっている、古臭い屋敷……白玉研究所を後にした。機嫌良さ気に、黒くて長い尻尾を振りながら。
千風の尻尾は、本物である。尻尾が生えているのは千風だけでは無い。白玉も白くて長い尻尾を生やしているし、千風や白婆が住んでいる街の住人達の殆どに、尻尾は生えている。
尻尾が生えている点以外にも、千風達には普通の人間と、外見上……大きく異なる点がある。それは耳である。人間なら頭の両サイドにある筈の耳が無く、髪の毛の中から二つ、毛に覆われた、猫のような耳が生えているのだ。
猫耳と尻尾は、千風達が住む街の住民にとって、当たり前のものなのである。