008 春らんまん/猫神隠し
「逃げろ、幸! 猫神隠しが発生するかもしれないっ!」
伴内は右手で穴を指差しつつ、自分を見上げている幸に、大声で警告を発する。まだ空の穴の存在に気付いていなかった幸も、伴内の警告によって、大きさを増しながら桜の花びらを吸い込み続けている穴の存在と、猫神隠しが発生しているのかもしれない、危険な現状に気付く。
「あの穴の反対側に向かって、全速力で走れ!」
「――兄貴は?」
「俺もすぐに下りて逃げるから、安心しろ! 俺の方が脚が速いんだから、足が遅いお前が、俺を待ってから逃げようだなんて考えるなよ! 何も考えないで、全速力で走って逃げろ!」
強い語調で命じる伴内の言葉に、幸は不安げに頷くと、穴の出現したのとは反対側の方向……山の麓に向かって、全力で走り始める。
「さて、俺も逃げないと……」
身軽な伴内とはいえ、高さ七メートルからでは、飛び降りる訳には行かない。伴内は先程確認したルート通りに、急いで桜の樹から下り始める。
猫を抱えたままであるにも関わらず、伴内は十秒程度で桜の樹から下り、地面に辿り着くと、幸の後を全速力で追い駆け始めた。
(五十メートルくらいか……すぐに追い着く距離だな)
伴内が推測した通り、本来なら伴内は、簡単に追い着ける筈の距離だった。しかし、伴内は幸に追い着く事が、出来なかった。十秒間の遅れと五十メートルの距離の差は、兄妹の運命を別つには、十分過ぎたのだ。
幸の後を追って走り始めた伴内の足が、突如、地面から離れた。まるで地球の重力から切り離されたように、伴内の両脚が空しく宙を蹴る。
「――って、何だよ、こりゃあ?」
地球の重力から切り離されたのは、伴内だけではない。辺りの土砂や桜の樹々までが、伴内と共に、宙に舞い上がり始めたのだ。先程まで伴内がミケを助ける為に、上っていた桜の樹も、宙に舞い上がり、伴内に先んじて穴に吸い込まれて行く最中だった。
浮き上がった伴内達は、空に穿たれた穴に向かって、吸い上げられて行く。
(やっぱり、猫神隠しかっ!)
この段階に至り、自分が遭遇した危機が猫神隠しであるのだと、伴内は確信する。同時に、自分が既に猫神隠しから、逃れられないだろう事も。
伴内は穴の方に目をやる。既に直径二十メートル程の大きさに成長した黒い穴は、一気に猫桜の森の中にある物を、吸い上げにかかっていた。まるでブラックホールのように。
穴に向かって吸い上げられながら、伴内は幸が逃げ去った方向に目をやる。幸がいる辺りは、黒い穴の吸い上げるパワーは届いていないようで、全力で猫桜の森から逃げ去って行く幸の後姿が、伴内の目に映る。
「良かった……幸は無事みたいだ」
心の底から、幸の無事を喜びながら、伴内は腕の中にいるミケに話しかける。
「お前、またご主人様と、離れ離れになっちゃったな」
「にゃぁ……」
悲しげな声で鳴くミケを、伴内は強く抱き締める。ミケを抱き締めたまま、伴内は桜の樹などと共に、黒い穴に吸い込まれ、この世界から消え失せる。
伴内とミケは、猫神隠しにあったのだ。