4. 呼び名
バイクが乗り付けた先は【aqua】の前だった。エントランスにはすでに『CLOSE』の看板が出てて、数人のスタッフが床を掃いたり道具をしまったりと、後片付けの最中のようだ。
「あれ、井沢さん? 今日は有給でしたよね?」
ホウキを手にしたスタッフの一人が顔を上げて不思議そうに首を傾げた。井沢はあいまいな笑みを浮かべながら「ちょっと借りるよ」と言って、ためらうあたしを椅子に座るよう促した。
あたしは別にいいって言ったのに、井沢はどーしてもカットすると言ってきかなかった。半ば強引な成り行きに、あたしは観念して首にケープをかけてもらいながらため息をついた。
「今日、金持ってないんだけど」
「いらないよ、今日のお礼」
――お礼って、なんだよそれ。
あたしは別に、お礼されるようなことしてねーって。そう言っても、井沢は笑って「いいの、俺が嬉しかったから」と取り合ってくれない。
スプレーで湿らされた髪は、クシでサラサラととかされていく。ハサミを手にした井沢は、鏡越しにあたしに向かってわざとらしい営業スマイルをしてみせた。
「本日はどのようにいたしましょう」
「……適当に、短く?」
定番となりつつあるやりとりに、井沢は目を細めた。しばらく鏡越しに無言で見つめ合ってしまい、顔がだんだん熱くなっていく。
――な、なんだ? もっとちゃんと言えってことか?
あたしはおずおずと口を開いた。
「じゃあ、ええと……前と同じでいいよ」
「『真面目そうな感じ』っていうアレ?」
井沢は思い出したように、さもおかしそうに笑いだした。鏡のあたしの顔が、面白くなさそうにムスッとした。
「真面目そうじゃなくたっいいよ。あたしに合いそうなら何だって別に」
「つまり真紀ちゃんらしい感じってこと?」
長い指先が、髪を弄ぶようにすくいあげた。
「それって一番難しいかな……ま、俺にお任せ下さい」
まるで姫君の手を取った騎士ように、うやうやしく手のなかの髪に井沢の唇が一瞬触れた。
「ばっ……いーからさっさと切れよ! 帰り遅くなるだろっ」
「よかったらウチでご飯食べて行きなよ。優香もおふくろも、俺が真紀ちゃん連れて来るの期待してるだろうし」
「いや、でもさ」
「優香から聞いたけど、真紀ちゃんとこのご両親って共働きなんだって? 平日はほとんどひとりで夕飯食べるって聞いたけど」
そうなのだ、うちのお母さんは某大学病院の看護婦やってて帰宅が遅い。遅いというか、不規則なんだ。最近特に人出不足で夜シフトも多いし。今夜も夜勤のはずだ。
「夕食、きっとすでに真紀ちゃんの分まで用意してるな。真紀ちゃんが来ないと一人分無駄になっちゃうけど?」
井沢は話しながら、それでも忙しく手を動かしている。時々指先が頭の地肌を掠め、なぜか触れられた場所を意識してしまう。なんだか髪型だけじゃなく、心の形まで変えられてしまいそうだ。そんな動揺を気づかれたくなくて、あたしはわざとそっけない口調になってしまう。
「分かったよ、行けばいいんだろ」
すると井沢はハサミを持つ手元に視線を落としたまま、見ているこっちが恥ずかしくなるような鮮やかでうれしそうな微笑を浮かべたんだ。
バイクは【aqua】の店先に置いておくことにし、あたし達は歩いて井沢家へと向かうことになった。井沢曰く「せっかくセットした髪が崩れるから」らしい。
あごのラインで揃えられた髪は、たっぷりレイヤーが入っているらしくとても軽く感じた。くしゅっとセットされた髪は空気を含んだようにフワフワ揺れているのがわかる。鏡で見た時、前回に輪をかけて異様に女の子っぽく見えて、正直少し、いやかなり恥ずかった。
――あたし、がさつで可愛げないのに……本当にこんな髪型似合うのかな?
それとも井沢が勝手にあたしのこと、そーゆーイメージを持っているんだろうか。だとしたら勘違いも甚だしい。
「足、大丈夫?」
「だから平気だって言ってんじゃん。なんだよさっきから」
隣を歩く井沢を見上げると、井沢は穏やかな目であたしを見下ろしていた。
「いや、痛そうだったらおぶってあげようと思って」
「い、いらねーよ!」
――ホント、調子狂う。
「ところで、昨日……自転車に乗せてくれたっていう彼だけど」
「ん? ああ、孝介のこと?」
「そのコウスケ君と、仲良いんだ?」
「仲良いって、子供の時からの付き合いだし」
あたしの言葉に井沢の返事はなかった。前を向いたまま神妙な横顔で、ゆっくり歩いている。あたしの足を気づかってか、遅いぐらいの歩調だ。
「……あのさ」
井沢は立ち止まると、少し苦笑気味に切りだした。
「ウザいこと聞くようだけど……友達だから、自転車やバイクに乗せてもらったりするんだ?」
「……?」
……質問の意味がよく分からない。
「それ以外、何があんだよ?」
「下の名前で呼んだり」
「……孝介だって、あたしのこと『真紀』って呼び捨てにしてるぜ?」
「家を行き来したり」
「それだって、昔から孝介とあたしはお互いの家行きっこしてたんだから。なんか変か?」
「いや」
井沢は首を振ると、なぜか自嘲気味な苦笑いを浮かべて車道を眺めた。車のライトが井沢の顔を照らし、深い陰影をきざむ。あたしはますます混乱した。
「井沢さ、なんか誤解してねーか? あたしと孝介はただの幼なじみで」
「その名前」
井沢は顔を横に向けたまま、極めて軽い口調で続けた。
「コウスケ、コウスケって、連呼しないでくれる?」
「は?」
「なんかムカツク」
目を見開いたあたしの顔の前に、井沢の顔がぐっと近づいた。サラリと落ちる長めの前髪が、あたしの額に今にもくっつきそうなくらい。
「俺のことは名前で呼んでくれないの」
「え」
――名前って……井沢の下の名前? 何だっけ?
すると井沢は、まるであたしの心を読んだかのように耳元で「真人」とささやいた。ぞくっと背筋に戦慄が走った。
「い……井沢でいいじゃねーか」
「なんで? うちの妹は『優香』って呼んでいるでしょ?」
「それとこれとは話が別だろ」
「別じゃない」
低音ボイスは心臓に悪い。思わず目をぎゅっとつぶると、吐息まで聞こえてきそうな距離を感じた。
「……真人って呼んでよ」
「……」
「真紀ちゃん」
「……真人」
目を開けると、満面の笑み。うわっ、なんだこれ、恥ずかしい。しかも頭撫でられてるし! いいって、よしよしとか言うなー……真人!
「次のステップはデートかな」
そんな軽口をたたく隣の真人をにらんだけど、実はあたしも少し期待してたりして……うわー乙女だ! なにこれ、自分が一番恥ずかしい奴じゃんか。
身もだえるあたしの手を、真人はさりげなくつないだ。当然振りきるなんてできず、そのまま二人並んでゆっくりと歩いていった。
(おわり)