2. 朝のお迎え
しぶしぶ顔をあげたら、驚きと心配が入り混じったような井沢の顔があった。
「まさか、また喧嘩したとか」
「ちげーよ、家ですっ転んだの! お母さんが天井の電球かえようとして踏み台にのぼってさ……落っこちたんだよ。あたしが台支えてたから、まともに下敷きになっただけ……」
早口になっていた口元に、井沢の人指し指がそっと当たった。なんだこれ……つい熱く説明していた自分が、急に恥ずかしくなっちゃったじゃないか。
「分かったから大丈夫。他にケガはない? あれ、もしかして足も?」
「ああ、ちょっとひねっただけだから……大袈裟なんだよな、こんなのつけてさ」
湿布を張られた足を持ち上げて見せると、井沢は「痛そう」と眉をひそめた。そりゃ痛いけど、心配されるようなケガじゃないって。だいたい昨日だって、お父さんがわざわざ出張先から連絡してきて「病院は行ったのか!?」だもんなぁ。
井沢も例にもれずぶつぶつと「心配だなぁ」とつぶやいていたが、ふと視線をあたしの足からテーブルの上の教科書に移した。
「真紀ちゃん、数学得意なの?」
「まあ嫌いじゃないけど……なんで?」
「いや、女の子で数学得意だなんてカッコイイなぁって」
井沢の言葉に、あたしは軽く気が抜けたように目をぱちぱちとさせた。
「そーゆーもんなのか? あたしは昔っから、孝介とテストの点張り合ってたからな……」
「コウスケって?」
兄妹よく似てる。優香にも聞かれたぞこの質問。
「隣に住んでる幼なじみだよ」
「ふうん。いくつなの、その子?」
「一個上だけど」
一瞬不自然な沈黙が落ちた。それから井沢の目線が再びあたしの足元に落ちた。
「ねんざは癖になりやすいから、気をつけたほうがいいよ」
「優香にも同じこと言われたよ。当分自転車乗るなってさ」
「自転車通学か。じゃあ学校まで結構歩くんじゃない? あ、でもバスを使えばいいのか」
「バス使えなくもねーけど、孝介が学校まで乗せてってくれっから」
「コウスケって」
「だから、隣の幼なじみ」
「……」
――あれ? なんかコイツ、不機嫌になってねぇ?
井沢は湿布貼ってある足をじっと見下ろしながら、静かに口を開いた。
「真紀ちゃん、毎朝何時に家出るの?」
「え? ええと、8時ぐらい?」
「明日うちの店、定休日なんだ。だから迎えに行くよ」
「はあ!? いいよ、そんな」
すると井沢はやけに真剣な目であたしを真正面から見つめた。
「俺が送ってあげたいんだ」
「いや、でも……」
「でも明後日は仕事があるから送っていけない。つまり君は、なんとしても今日明日の二日で完治させなきゃいけないってわけだ」
お前さっき、ねんざは癖になるから気をつけろって言ってなかったか? 大事を取れって意味じゃなかったのかよ。
そんなわけで翌日、井沢は本当に家まで迎えにきた。玄関先ではお母さんが「いつもこの子がお世話になっちゃって」とにこやかにあいさつしている。
「ホントに迎えにきたのか」
あたしのあきれた口調には意も介さず、井沢は朝から無駄に爽やかな笑顔を振りまいていた。
「約束したからね。ほら、コレかぶって」
門の前には、横付けされたバイク。そう、バイクなんだ。てっきりチャリかと思ったのにさ!
あたしは「やれやれ」とメットをかぶると、その様子を眺めていた井沢が「バイク乗ったことあるの?」とたずねてきた。
「まあちょっと。ダチの後ろに乗せてもらったことが二、三回あったかな」
「……ふうん、それも男の子の友達?」
「? そうだけど」
井沢は再び「ふうん」とつぶやくと、遠慮がちに腰につかまるあたしの手をぐっと引っ張った。
「しっかりつかまって。危ないから」
「危ないのか!?」
「危なくないよ……いや、そういう意味じゃなくて。こっちの方が俺が安心だから」
井沢は苦笑をもらすとバイクを走らせ出した。久しぶりに乗るバイクに気がついたけど、こんな朝早くに乗るのは初めてだ……昔は不良仲間と一緒に夜遊びに出ていたとき、後ろに乗せてもらったんだっけ。それに比べたら、こんな健全な乗り方もあったんだな、とあたしはズレた感想を持った。
やがて学校の近くまでやってくると、井沢は校舎の裏側の人目の付きにくい場所にバイクを停めた。
「正面だと目立つから、こっちの方がいいよね?」
「ああ悪いな。助かったよ」
「どういたしまして。帰りも迎えにこようか?」
「いいよ、ゆっくり歩いて帰るからさ……どうせ優香も一緒だろうし」
「そっか。じゃ、また」
そう言って再びバイクを走らせようとした井沢は、ふと思い出したようにメットの頭を傾けた。
「明日はひとりで学校行けそう?」
「ああ、たぶん大丈夫だろ……」
「他の男の後ろになんか乗るなよ。いいね?」
井沢はあたしの返事なんか待たずに、軽やかにバイクを走らせて去ってしまった。
――なんだったんだ、一体。
らしくねぇ、あんな男前が。まさかのヤキモチ。しかもあたしに。ありえねえ。しかも隠そうともしないなんて、あいつ……ホント恥ずかしいやつ。
教室に入って席に着くと、周囲の意味ありげな視線に気づいた。遠くから、ひそひそ声が聞こえる。
――今度はなんなんだ、一体?
「あらあ伏見さん。今日も同伴出勤されたの?」
甲高い声が響いて顔を上げると、後ろ手を組んで薄ら笑いを浮かべた安須が立っていた。
「は? 同伴って、なんのことだよ?」
「今朝、男の人のバイクに乗ってきたのでしょう?」