1. ケガ
「あー……もっと右」
「こっち?」
「ちがう、もっと左だよ左」
二階へと続くらせん階段の折り返し地点。その狭く不安定な場所で、木製の踏み台を支えているあたしこと伏見真紀は、その台の上で天井から垂れる電球を見つめたまま途方にくれる母親にため息をついた。
「だーから、あきらめろって」
「でもねぇ、お隣のコウちゃんは部活で帰り遅いでしょ? パパは出張で週末まで帰ってこないし、いつまでも人に頼ってばかりいられないと思ってママは……」
ホントあきらめの悪い母親だ。もともと運動音痴の上、背も低いくせに、あんな高いところの電球を交換するなんて無理に決まってる。いつもならこういうことは、隣に住む、あたしの一個上で今年高二になる遠藤孝介に頼むのだけど、剣道部の試合を控え、ここ最近毎日練習で帰りが遅いようだ。
「親父が戻ってくるまでほっとけばいいだろ。もうあきらめろよ」
「あ、そうだ。真紀ちゃんできない? 今度はママが踏み台支えてるから」
「あたしだってチビで届かねーよ」
「でも」
と、そこで母親はバランスを崩した。
「きゃあっ!」
「うわっ!」
ズダダダーーーン、という激しい物音とともに、押しつぶされるような衝撃があたしの全身を襲った。
「きゃああ真紀!? 一体どうしたのその顔!?」
翌日学校で仏頂面を引っさげたあたしの顔を見るなり、友達の井沢優香が駆け寄ってきた。
昨日の惨劇(?)により、あたしの左目のまわりはクッキリ青アザができていた。こんな絵に描いたような輪っか模様のアザなんて、まったくどこのギャグ漫画だっつーんだ。
「電球交換してた母親が踏み台から落ちてきてさ、下でささえていたあたしは、まともに肘鉄くらったんだよ」
「うわぁ、腫れてるよ? 痛そう……今日の体育は休んだ方がいいよ」
「たいしたことないって。足もそんな痛くねーし」
「足? やだ、ねんざしたの?」
「ちょっとひねっただけ」
湿布を貼った右足をひょいと持ち上げて見せると、優香は眉をひそめた。
「体育なんて絶対ダメ。ねんざは一度やると癖になるんだよ?」
「そーなの?」
「そうよ。今朝何で来たの? まさかいつものように自転車乗ってきたんじゃないでしょうね?」
「いや、さすがにそれは……孝介がチャリ通学してっから、後ろ乗っけてもらった」
「孝介? 誰それ」
「隣に住んでるヤツ。歩けるからいいって断ったんだけど、乗せてやるって言い張るもんだから」
今朝、あたしの状態を聞きつけた孝介がチャリで迎えに来た。大袈裟にすんなって言ったんだけど『手伝えなかった俺の責任でもあるから』なんて訳分からない理屈言って、たじろくあたしを無理やり後ろに乗せた。孝介は昔から強引なヤツで、一度言い出したら人の話を聞きやしない。
そういや孝介とチャリ二人乗りするなんて小学生の時以来だった。よく面白がって、急な坂道を全力で降りたもんだ。すっ転んだらただじゃ済まなかっただろうに……思えば結構危ないことしてたんだな。
そんなこと思い出しながらふと気がつくと、数名のクラスメートに囲まれていた。皆口々に「大丈夫?」だとか「無理しないでね」なんて心配そうに声をかけてくる。この星華学園高等部に入学して早半年……クラスメートは育ちのいい、親切な連中が多かった。巷で耳にする、女子高にありがちの陰湿ないじめもない。
だから尚更、例外的に性格の悪いヤツは目立ってしまうもので……。
「あら伏見さん、ひっどい顔だこと。やっぱり野蛮な中学から上がってきただけあってガサツなのねぇ」
イヤミったらしい声であたしの前に現れたのは安須真知子。なんでも父親が代議士だか政治家だかやってるらしく、それを鼻にかけちゃ横柄で気取った態度をするしょーもない女だ。
「ちょっと、安須さんも聞いてたでしょ。真紀はお家でケガしたのよ」
優香がにらみつけると、安須は長い巻き毛を揺らしてワザとらしく小首をかしげてみせた。安須の後ろにくっついている、ヤツの腰ぎんちゃくたちは面白そうにことの成り行きを見守っている。
「でも天井の電球交換なんて、そんなのお手伝いさんに頼めば済むことでしょ……ああそうだったわ、伏見さんちは人を雇ってらっしゃらなかったわねぇ。ごめんなさい、無神経なこと言ったりして」
安須は小馬鹿にするような笑みを向けると、ようやく自分の席に戻っていった。あたしのことが気に食わないらしく、こうやって事あるごとに突っかかってくるのだ。あたしのことを、レベルの低い中学から来た野蛮人と思っているらしい。ま、たしかに中学の頃の素行の悪さは否定できねーけど。
「気にすることないよ、真紀」
「別に気にしてねーよ」
優香の気づかいはありがたいけど無用ってもんだ。あんなの痛くもかゆくもない。馬鹿馬鹿しい。
「ところで真紀、話変わるけど……中間の数学の結果、どうだった?」
「別に。フツーに良かったんじゃね?」
「そっかぁ……」
優香はがっくりと肩を落とした。
「私、数学ニガテなのよね。このままじゃママが怒って『塾行きなさい』って言い出しそうで……」
「期末に挽回すりゃいいじゃん」
「そうは言っても、ひとりでどうやって勉強したら……そうだ、真紀教えてよ」
「数学を?」
「ね、お願い! とりあえず来週の小テストで良い点取っておきたいの。塾なんて絶対イヤだもん。ママに少しでも見なおしてもらわなくっちゃ」
身を乗り出して拝むように頼まれちゃ断れない。急きょ今日の学校帰り、優香の家で勉強会が開かれることになった。
久しぶりに訪れた井沢家では、上機嫌の優香ママが「美味しいおやつ、たくさん用意しておいたわよ!」とさっそく部屋までお茶とケーキを運んでくれた。別に勉強しに来ただけなんだから、わざわざケーキなんか用意しなくたっていいんだけど。
「ええっ、真紀95点だったの? すっごおい、学年で一番だったんじゃない!?」
ピンク色とぬいぐるみで窒息しそうな優香の部屋で、小さな丸テーブルをはさんで座ったあたし達は、とりあえず教科書を開いたままあれこれ雑談していた。
「よかったのは数学だけだよ」
「でも、日本史と世界史も良かったって言ってたじゃない」
「あれはまあ、好きなだけで、点数はそこそこだったし……」
その時、控えめなノックの音がした。
「いらっしゃい」
扉の前に現れたのは、優香の兄貴の井沢真人だった。井沢は駅前の美容院【aqua】のトップスタイリストで、あたしの髪をカットしたヤツだ。
井沢は明るく染めた髪をフワリと肩まで伸ばし、ひざの抜けたジーンズにグレーのパーカーという、ごくありふれた格好をしているのに、なぜかお洒落っぽくてついつい目を引かれてしまう。顔の造形がやけに垢ぬけて派手だからかな……優香も美人だけど、この兄貴もやけに整った顔立ちをしてるのだ。その顔がにっこりと華やかにほころんだ。
「やってるねぇ、もう期末の準備?」
「来週数学の小テストがあるの。真紀に教えてもらってるんだから邪魔しないで」
「ふうん、数学?」
そう言いながら井沢は部屋の中に入ってくると、あたしの手元にある教科書をのぞきこんだ。あたしは青アザがある顔を見られないよう、あわててテーブルに伏せる……こんなの見つかったら、きっとからかわれるに違いない。
「だめよ兄貴、真紀は貸してあげないんだから」
「えー。お前まさか一人占めするつもり?」
「そうよ。今日は私たち二人で勉強するの。ね、真紀?」
「ああ……」
――貸さないだの一人占めだの、なんだんだ一体。
二人のやりとりにあきれていると、階下から「優香ー、ちょっと下までお菓子取りに来て」と優香ママの声が聞こえてきた。
「ほら、母さん呼んでるから行ってこいよ」
「はいはい、まったく。まだケーキだって食べ終わってないのに……真紀、ちょっと待っててね」
優香はパタパタと足早に部屋を出ていった。
「さて、と……で、真紀ちゃん元気?」
「……まあな」
フワリ、と井沢から爽やかなコロンの香りがした。
「髪だいぶ伸びたね。そろそろ毛先をカットした方が……」
不意を突いたように長い指があたしの顎をひょいと押し上げる……と、そこで息をのむ音がした。
「真紀ちゃん……いったいどうしたの、この顔は!?」