月の夜に
その夜は、新月だった。外は星明りだけで、月明りはない。
一体何があるのだろうと、悠美は期待半分、不安半分でいた…桜は、まだ会ったばかり。性格だって深くは知らないのに。
だが、桜が危険でないことは、なぜか知っていた。それがなぜと言われたら困るのだが、そんな気がするからとしか答えられなかった。悠美は眠るフリをしながら、本当に寝てしまわないように目を凝らして、じっと皆が寝静まるのを待った。
ついにいつも最後まで残っている棗の気配が無くなってしばらく、悠美は起き上がって様子を伺った。宿直の侍女も寝ているようだ。シンと静まり返った部屋は真っ暗で、街灯などものないここでは、本当に真っ暗だった。
それなのに、ここ最近になって、悠美にはなぜか足元が見えた。確か、ここへ連れて来られた時には、洞窟の中で全く道が見えなかったのに。あんまりにも電燈がないから、夜目が効くようになったのかしら。
悠美は自分に感心しながら、そっと窓から庭へ抜けると、約束した池へとそっと向かって行った。
奥宮の夜の庭は、いつも昼間に見ている様子と違って、とても静かで空気まで澄んでいるように思えた。少しひんやりとした風に癒されながら、悠美は池の畔にたどり着いた。
「楓様。」
小さく、囁くような声が悠美を呼んだ。悠美が慌てて振り返ると、そこには桜が立っていた。昼間会った時とは違って髪は結われておらず、化粧もしていなかったが、それでもとても美しいのが見て取れた。自分も同じようにすっぴんで髪も垂らしたままだったが、あまりにも違うと少し落ち込んだ。桜は、悠美に近付いて来ると、微笑んだ。
「まあ、とてもかわいらしいこと。気取った様子より、そのほうが良いわ。」
悠美は赤くなった。
「桜様のほうが、とても綺麗で驚きましたわ。」
桜はまた微笑むと、じっと空を見上げた。悠美は何事だろうと、桜を見た。
「…何か?」
桜はそれでも上を見ている。
「…ほら、来たわ。」
空から、二つの人影が降りて来た。二人共、着物を着て、すっとそこに降り立っている。悠美は絶句した…蓮と、利泉だったからだ。
利泉が歩み寄って来た。
「慶子、今夜は悠美も連れて参ったのか。」
桜は頷いた。
「ええ。」と、桜は差し出された手を取った。「悠美がとても不憫だと言っていたでしょう。なので、お呼びしたのよ。」
悠美は呆然としていた。桜と利泉は、ああして並ぶと本当にお似合いなのだ。少し悲しくなって見ていると、そんな思いは知らず、ただ驚いているだけだと思った桜は笑った。
「私も、この二人につれて来られたのよ。こうしてここで、新月、三日月、上弦、下弦、満月は会う約束をしているの。もちろん、任務がある時は来ないけれどね。なので、あなたが連れて来られたことも、人の世での名も、先に知っておったのよ。」
悠美はただ、頷いた。利泉が、私のことも気に掛けてくれていたなんて…だって、あの時振り返りもしなかったのに。
利泉はそれを見透かしたかのように言った。
「あの時はすまなかった。我も蓮も、命が降りると従わねばならぬ。それがどんな命であっても、それが務めであるからの。」
蓮がぶっきらぼうに言った。
「そう、それが仲間の軍神を討つことでも、我らは従わねばならぬ。ゆえ、あの場合は主の話など聞けるはずもあるまいが。」
悠美は、事情は分かっているものの、その言い方が気にくわなかった。
「別に責めてないけど、そんな言い方ないじゃないの。蓮、私が皇女じゃないから、王に会って帰って来たらいいって言ったのはあなたでしょう?あんなウソを言ってまで、私を連れて来た癖に。」
蓮はピクリと眉を寄せた。
「ウソ?我は偽りなど言っておらぬわ。皇女でなければ帰れたであろうが。それに、あの時点で誰にも主が本物か偽物かなど判断つかなかったのだからの。我だって、主のような性質の人が、まさか皇女であるなど思わなかったのでな。虚言を吐くのは、人であろう。我ら神には、そのような概念はない。虚言を申すのは、人がその神に教えたからぞ。全ては人が悪いのだ。我は元より、主らのような人には興味などない。任務であるから関わっておるだけのこと。」
少し軽口をたたいただけのつもりだったのに、蓮からは本当に嫌悪しているような気持ちが感じ取れた。悠美は驚いて口をつぐんだ。利泉がそれを感じ取って、割って入った。
「もう良いではないか。全ての人が、主が思うようではないと思うぞ。蓮、そのように角立つでない。」
蓮はふいと横を向いたかと思うと、ふわりと浮き上がった。
「気分が悪い。我は戻る。利泉、主は居れば良いわ。」
「蓮!」
桜と利泉が同時に小さく叫ぶ。
蓮はこちらを振り向きもせずに飛び去って行った。悠美が居心地悪げに下をを向くと、利泉が言った。
「…すまぬの。しかし蓮にも事情があるのだ。昔はあれほどに人嫌いではなかったものを。人はウソをつくと、いつなり言っては表情を硬くしておる…。我もあやつの踏み込まれたくない場所のようであるので、深く聞けずにおるがな。」
桜は頷いた。
「我も、長く普通には話してもらえませなんだ。でも、こうして訪ねてはくれるのです。なので、きっと本当は優しいかたであるのだろうと思うておるのだけれど…。」
悠美は黙って蓮が飛び去った方角を見上げた。きっと、そう。嘘をつくつもりではなかったのだろう。あの時は、私を連れて帰ってくれるつもりでいたのだ。だが、思いも掛けず、王が私を皇女の生まれ変わりだと判断して、ここに残すとなって、結果的にこうなってしまっただけで…。
蓮を責めるのは筋違いだと分かっていた。だが、蓮にはなんだか、遠慮なく言ってしまうのだ。何を言ってもさらりと馬鹿にしたように流すように見えたから…。
悠美は少し落ち込んで、利泉と桜に頭を下げた。
「今夜はもう、戻ります。次は、三日月の日にきっと参りまするから。」
桜と利泉は顔を見合わせたが、頷いた。悠美はそのまま、自分の部屋へと戻って行った。
悠美は、部屋に篭って鬱々としていた。
自分が嫌になったのだ。どうして蓮にあんなことを言ってしまったのだろう。利泉も呆れたに違いない。神の世で、女が何でもぽんぽん言うことは、良いとはされていなかった。
悠美はただ、棗に言われた通りに刺繍をし、着物の衿を仕立て、写経をし、昔の和歌を書き移し、行儀作法を習い、黙々と神の世を学んでいた。何かをしていた方が、気がまぎれる…何より、神の世をしっかり知ることで、蓮に対してのように、神に嫌な思いをさせずに済むのなら。
全てをこなして、庭を見て沈んでいる悠美に、棗が近付いて来た。また何か言いつけられるのかと振り返ると、棗は傍の椅子を指した。
「よろしいでしょうか?」
座っても良いかということだ。つまりは、話す時間をくれということだった。悠美は頷いた。
「ええ。」
棗はそれを聞いて、そこに座った。何かお説教だろうか。悠美がじっと棗を見ていると、棗は言った。
「楓様…そのように塞いでしまわれないでくださいませ。」本当に気遣わしげな顔をしている。「確かに、人としてお育ちであられるのですから、全く勝手の違う神の世で過ごされるのは、お辛いかと思いまする。しかし我も、何も楓様が憎くてこのようにお作法などをお教えしておるのではありませぬ。楓様が、神の世で疎まれぬよう、爪弾きにされてしまわれぬよう、それに伴って、お辛い思いをしないようにと、一刻も早く知識を得て頂こうと思ってのことなのです。」
「棗…。」
悠美は驚いた。棗、そんな風に思ってくれていたの…でも、間に合わなかったけど。私、暴言吐いてしまったのなんて、棗には言えない。棗は、私が沈んでいるので、何とかしようと思ってくれているのだ。
悠美には急に、棗の顔がはっきり見えた気がした。棗は人で言う所の20代後半ぐらいの外見で、神の例に漏れず整った顔立ちだった。こうして見ると、最初の印象通り、やはりお姉ちゃんみたいな感じ…。
棗はフッと微笑んだ。
「自信をお持ちくださいませ。楓様は、大変に筋のよろしいかたでいらっしゃいまする。書だけでなく縫物もコツを知っておられるし、最初からお着物もご自分で着つけることが出来、本当に人の世でお育ちなのかと思うほど。楓様が侍女に教えた変わった帯の結び方は、ちょっとした流行りになっておるほどでありまする。人の世で流行っておったのであろうと、大層皆珍しがって。我ら後ろで帯を結ぶことは有りませぬが、前で結んでも大変おもしろい型でありました。なので楓様、何か分からぬことがおありでしたら、棗におっしゃってくださいませ。神の決まりでありましたら、何でもお教え致しまするゆえに。」
悠美は、いつも厳しい棗が、こんな風に自分を気遣って褒めてくれるのが嬉しかった。そんな風に思っていたの…。
「ありがとう。」悠美は、涙ぐんで言った。「私、がんばるわ。棗、私は本当に何も知らないの…せめて相手が、不快な思いをしないように、何をしてはいけないか、何を言ってはいけないか、そこのところを詳しく教えて欲しい。」
棗は深く頷いて、微笑んだ。
「はい。お安い御用でございまする。」
悠美は棗に微笑み返した。私は、自分から神達に一線を引いていたのかもしれない。もっと、よく学んで、桜のように、神らしくならなければ…。そうすれば、蓮も許してくれるかもしれない。そうしたら、聞いてみよう。どうしてそんなに、人を嫌うのかって。