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龍王

椿が宮を抜け出したのは、すぐに王に気取られた。

すぐに追手が差し向けられたが、その時には既に二人は結界境に到着していた。

「聡子…継ぎ目には、常に軍神が守りに着いておる。やはりあちらは無理だった…手薄であるのは、この部分だけ。ここを我が破るゆえ、ここを抜けてあちらへ向かうのだ。」

それは、あの前世で飛び降りた崖の上だった。聡子は、不安げに頷いた。

「でも…慎様、こちらはとても強い力を感じまするわ。破ることが出来るのでしょうか。」

慎は険しい顔をしたが、頷いた。

「我の力を侮るでないぞ、聡子。通る隙間ぐらい、我にでも開けることが出来る。しかし、長くは開けておられぬゆえ、開いたら、すぐに通るのだ。」

聡子は慎を見上げた。

「慎様も共にでなければ参りませぬ。」

慎は頷いた。

「すぐに参るゆえ。案ずることはない。主の後をすぐに通る。ゆえ、主は開いたらすぐに通るのだぞ。」

聡子は、決心して頷いた。

「はい。」と慎をじっと見つめた。「慎様…愛しておりまする。」

慎は微笑んだ。

「我も愛しておる。我が生涯の、ただ一人の妻ぞ。」

二人は唇を合わせた。その後、慎は険しい表情をすると、言った。

「…追手が来る。急ぐぞ。」

慎は一気に気を放出した。結界に亀裂が入り、ビリビリと振動する。その亀裂の向こう側に、龍達の気を感じた。

「慎様!龍王様のほうも、こちらの異変に気付いてくださっておるようでありまする!」

慎は微笑んだ。

「よかった。」亀裂が大きく開き始めた。「主を任せられる。」

聡子は慎を見た。

「え?慎様?」

慎は聡子を掴んで、開いた亀裂に放り投げた。

「行け!主は生きよ!」

「慎様!」

飛ばされて行く聡子の目に、慎の気が尽きて行くのが映った。まさか…慎様は最初からそのつもりで!

「慎様!嫌です!慎様!!」

聡子が亀裂を通った直後、慎はばったりと倒れた。

そして、聡子の目の前で亀裂は閉じた。

「嫌!慎様!慎様ぁ!!」

聡子はこちら側から叫んだが、結界の向こうは見えない。そして、ふと思った。そう、龍王様。龍王様にお助けいただこう。きっと、龍王様なら慎様を助けてくださるはず!

聡子は、泣きながら必死に龍王の結界に飛んだ。そして、その前で叫んだ。

「龍王様!どうか、どうかお助けくださいませ!そちらに居られるのでしょう?私の夫を、どうか助けてくださいませ!」

結界内でこちらの様子を伺っていただろう龍軍は、その結界より出て聡子の目の前に現れた。聡子は息を飲んだ…なんて大きな気。龍達とは、これほどに強い気を放つの…。

龍の軍神がこちらを見て、言った。

「我が王はすぐに来られる。待つが良い。」

聡子は頷いた。遠く、結界の中から、感じたことがないほどに大きな気がこちらへ向かって来るのを知った。それは、近付くにつれてこの身が痛いほどに回りの空気を振動させ、その力の大きさを思い知らせていた。

黒髪に深い青い瞳の龍が、そこに到着すると、軍神達が一斉に宙で片膝を付いた。聡子も、慌てて頭を下げた。

「王、怜様のほうでも、軍が結界端に。」

龍王は頷いた。その目は、遥か結界内まで見渡しているかのように、ただじっと見ている。

「…ふん、一目散に逃げておるわ。我の気を感じ取ったの。」と、甲冑も身に付けていない状態で、身軽に飛んだ。「参る。」

龍の軍神達が一斉に王に従って飛ぶ。聡子は、そのうちの一人に担がれて、父王の結界へと戻った。


先頭を行く龍王は、怜の結界の所へ来ると、事もなげに片手をサッと振った。目の前の結界が消えてなくなり、あの崖と、退いて行くあちらの軍の最後尾が小さく、遠くに見える。龍王はその崖に降り立ち、慎を見下ろした。

「ああ!慎様!」

そこへ降ろされた聡子は、慎に走り寄ってその動かない体を起こした。慎はじっと目を閉じたまま動かない。気は完全に抜け去ってしまっていた。

「なんということ…!あなたを失って生きてなど居たくはなかったのに…!」

聡子は人目も憚らずに泣いた。龍王がそれを見降ろしたまま、言った。

「…まだ逝ったばかりであるの。」と、聡子に目を移した。「どいておれ。これならば簡単よ。」

聡子は何が簡単なのか分からなかったが、言われた通りに下がった。龍王は、慎に手を翳すと、何かの玉のようなものを、慎の体に向かって、ドンという音と共に打ち出した。慎の体がその勢いで大きく跳ねる。聡子は仰天して慎に駆け寄った。

「龍王様!夫にいったい何を…!」

「ぐっ、」慎が、嗚咽のようなものを漏らした。「う、ゴホッゴホッ!」

激しく咳き込みながら、慎は目を瞬かせた。訳が分からないように、必死に目の焦点を合わせようともがいている。聡子は、慎を抱き締めた。

「ああ慎様!慎様…助かったのですね!」

龍王が、言った。

「正確には、戻したのだ。」そして、慎を見た。「頭がはっきりせぬやもしれぬが、しかと聞け。主ら、しばらく神世へ戻らぬと約すか。」

慎は龍王を見上げて、まだ自由にならない体で、必死に片膝を付いた。

「はい。我ら、神世を去り、人として生きまする。さすれば、守られましょうか。」

龍王は頷いた。

「何年掛かるか分からぬがの。我があれの始末を付けるまで、主らは気配を押さえて過ごすが良い。おお、そうよ。」と龍王は手を上げた。「気に別の色を付けてやろうぞ。これで、あれらに主らを気取ることは出来まい。おとなしくしておれ。あれは病のようなもの…しかし厄介なことに、あの病は我には治せぬのよ。」と、月を見上げた。「我の友である、あれの助けなくしてはの。少し気まぐれであるので、やってくれるか分からぬがな。」

慎と聡子は、同じように月を見上げた。月…。月にしか治せない病…。

龍王は、くるりと背を向けた。

「我は()ぬ。主らは行け。」

慎はハッとしたように龍王に深々と頭を下げると、聡子を抱いて、夜の空を、人の世へ向けて飛び立って行った。


「そして私達は、こうして姿を老いた人に変え、住む場所を点々として生きて来たのです。」聡子は言った。「見つからぬように、ひっそりと、龍王様に変えて頂いた気の色のお蔭で、神達に気取られることも無く…。」

悠美はまた、泣いていた。蓮のことを思い出したからだ。では、私もすぐに龍王様にお願いに行けば良かったのだ。ショックで気を失っている場合ではなかったのに。蓮を取り戻すため、気をしっかり持っていなければならなかったのに!

「では…私が蓮を殺してしまったようなもの。」悠美は言った。「私も、お姉様のように、龍王様にお頼みすれば良かったのに。そうすれば、蓮は助かったかもしれないのに!」

悠美はおいおいと声を上げて泣いた。蓮はウソをついた。一緒に来ると言ったのに。もう二度と離れないと約束したのに。どうして私を置いて逝ってしまったのよ。それなら、一緒に死のうと言って欲しかった。一人残される、私の気持ちなんて知りもしないで。蓮の馬鹿!蓮のウソつき!神は嘘をつかないと言って怒ったくせに。こんなウソ、一番ついてはいけないことよ。死んでしまったら、文句も言えないじゃないの!蓮…!蓮…!私はあなたに会いたいの…!

聡子は、そんな悠美の姿を見て、涙ぐみながら抱き寄せ、背を撫でた。

慎は悲しげに視線を落とすだけで、どうすればいいのか分からないようだった。

そう、軍神達には分からない。こうして残される女の気持ちなど。ただ、守り切ったと自己満足だけで、心まで守れていない事実は知らないまま、自分は死んで逝ってしまうのだから。

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