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一人旅

「お嬢ちゃん、今から行くの?」売店の初老の女性に話し掛けられた。「あ~まあ、若い人の足なら行って帰って一時間半ぐらいかね。気を付けて行きなよ。入り口に上までのバスがあるから、それ使った方がいいと思う。」

高梨悠美(たかなしゆみ)は、水の入ったペットボトルを手に、頷いた。ここまで、ロープウェイに乗ってたどり着いた。駅で何気なく手にした観光用パンフレットに載っていた、何でも外国の映画のロケ地にもなったとかいう寺を、ホテル探しの前に見てみようと軽い気持ちで来ただけだったのに。

思ったより、長い道のりだった。駅からタクシー30分。ロープウェイで五分。駅に着いたのが昼をとうに過ぎた時間だったので、確かに今から上まではおかしいのかもしれない。でも、そんなに高い山でない気がするし。

売店の女性が教えてくれたバスは、悠美が水を買っているうちに出てしまっていて、次は30分後。しかも、思ったより料金が高い…往復、1500円。今アルバイト生活なのを考えると、節約したい金額…。

悠美は、道の先を見た。木立の間の道は、とても清々しくて、何だか行けそうな気がする。

悠美は一人、ぱらぱらと居るバス待ちの人達の間を抜けて、その道を歩き始めた。


悠美は、社会人になって三年、目的を見失っていた頃、転勤で、願わない主任の地位に大抜擢されてしまった。そんなに目立った能力があった訳ではない。会社側からすると、サプライズ人事とかいうものだったらしい。

それでも自分より年上の主任達に囲まれ、慣れなければと必死に職務を覚えようとした。転勤に伴って地区が変わり、やり方はガラリと変わってしまっていた。そこの新入社員でももう分かることが、自分には分からない。毎日遅くまで残って格闘していたが、それでも新しいシステムはなかなか頭に入って来なかった。

前任の主任が残した事の後始末も、悠美に全て回って来た。期限のとうに過ぎた提出物を、なぜ出さないかと悠美に罵声が飛ぶ。何の引き継ぎもなかった事だが、悠美はいつも謝っては処理していた。

そんな毎日を数か月過ごしているうちに、会社へ行こうとすると吐き気がし、苦しむようになった。最初は疲れているのだと自分に言い聞かせて必死に向かったが、そのうちに起き上がれなくなり、ついに熱が出て、とても出社出来なくなってしまった。

風邪かと病院へ向かうと、案外と体は軽くなり、熱も下がった。当然のことながら、診断は何もなし。体が軽くなったので、会社へ向かおうと足を踏み出したその時、突然の眩暈に悠美は倒れた。病院の前、大騒ぎになったらしい。

気が付いて両親が心配そうに顔を覗き込んでいるのを見た時、知らない顔もそこにいた。後で知ったが、心配した両親が相談した、その病院の精神科医だった。

悠美は、鬱病を発症していた。それも、出社に伴い鬱になる形の病い。他へ向かうには何の問題もなく、体は軽かったが、会社は駄目だった。そんな病気になったら、もうどこにも雇ってもらえないと、悠美は必死に会社へ行こうとしたが、途中何度も倒れて無理だった。それでも、家に居ると元気なので、近所に買い物に行くのすら気になった…怠けているのだと思われると思ったからだ。

悠美は一生懸命、どうしたら出社出来るか考えたが、それすらも心には大きな負担になるようで、症状は悪化し、ついに会社の名が耳に入るだけで吐き気をもよおすまでになり、悠美は休職を余儀なくされた。会社へ行けないため郵送で診断書を送り、家にこもっていることが多くなってしまった。


そんな悠美を心配した両親が、習い事でもしてみたらと、町の文化教室の広告を出して言った。

「…そんな、お金掛かるし。」

母は苦笑して、広告の上の数字を指した。

「見て、公共の教室だから、皆一律この値段なのよ?安いでしょう。これぐらいなら、お父さんが出してくれるって。」

悠美は渋った。

「そんなの、会社を辞めて家で居るのに…。近所の人にも、格好悪いでしょう?」

母は首を振った。

「何言ってるのよ。いいじゃない、人生には休みも必要なのよ。卒業してから、就活して働いて、頑張り過ぎてたんだと思うわよ?花嫁修業みたいに考えたらいいじゃない。」

悠美は、黙って広告を見た。運動系のものは気持ちが付いて行かないし…父や母にも心配掛けてしまってる。文化系の何かやってみようかな。

「じゃあ、考えてみるよ。」

広告を持って部屋へと引き上げ、その日はずっと考えた。そして、いろんな事に自信を失いかけていた悠美は、同年代が居ないだろうという理由で、書道教室の昼の部に通い始めた。

先生は初老のとても品の良い女性で、話し方から美しかった。こんな日本語があったのかというような、そんな美しい言葉を話す先生は、悠美には衝撃だった。毎日、職場で罵声を浴びていた悠美にとって、その柔らかい言葉はまるで魔法のようで、穏やかに微笑むその慎ましやかな様子に、天女というのがいたら、きっとこんな感じなのだろうなと、母より歳が上のその女性に憧れを抱いた。

週に一度で良いその教室に、先生の自宅であるという教室にも通い、悠美は週三回通った。

「まあ、こんなに短期間で、とても上手くなったわね、悠美さん。」

聡子さんという、その先生は言った。悠美は嬉しくて赤くなった。

「ありがとうございます。でも、この左に傾く癖が抜けなくて…」

聡子はほほと笑った。

「私も同じだったの。でも、あるかたに教えて頂いて直ったわ。でも、悠美さんの個性でもあるのだから、無理に直さなくともよろしいわ。私はこの字が好きよ。」

悠美は嬉しかった。先生と同じ。

「でも、先生のような字になるようにもっと練習します。何だかおおらかで優しい字ですから…。」

聡子は微笑んだ。

「あら…あなたは何だか、私と同じ空気を感じるのよ?ではあなたも、おおらかで優しいのね。」

聡子からは、癒しのオーラが出ているようだった。聡子には、また優しそうな、若い頃はそれはイケメンだっただろうという、歳を取ってもまだ美しい顔立ちの、夫までいた。その男性も、悠美をまるで娘のように可愛がってくれた。二人には子供が居ないのだという。それでも幸せそうな二人に、悠美は心の底から癒されていた。

そうして、聡子の話す穏やかで優しく、美しい日本語を聞くうちに、悠美は日本のそういった所を見つめて、身に付けて、何か仕事をしたいと思うようになった。

貯金は、仕事ばかりで使う間がなかったので、少しはある。でも、奨学金の返済を考えると、やはり勉強や習い事ばかりにかまけてもいられない。

休職にしていた会社を退職し、悠美はスーパーのパートの仕事を探した。申し訳ないが、父にもう一度扶養に入れてもらい、パートタイマーとして働き、習い事に時間を確保して、奨学金の返済と、習い事の授業料、そして小遣いを稼ぐ事にしたのだ。

母はまだ、鬱病を発症してから数か月しか経っていないからととても心配していたが、悠美はなんでも出来るような気がしていた。いや、やらなければならないと思った。そうでないと、どんどん回りに置いて行かれて、自分の世界だけが古く固まってしまう、そんな気がしたのだ。

それで、スーパーの午前中の仕事を見つけて来て、そこに応募した。面接の時に退職の理由を聞かれたが、鬱病のことは言わなかった。採用されなくなってしまうと懸念したからだった。悠美は昨今の皆と同じように、ただそれが向いていなかったので、自分を磨くためと言って、面接を終えた。

そして、採用されたのだった。

最初は緊張したが、スーパーの裏方の仕事は、とても楽しかった。パートさん達は娘のような年頃の悠美を、とても可愛がってくれていた。失敗しても素直に謝れば、誰でもあることと笑い飛ばしてくれた。一見きつそうなことを言っていても、その言葉の裏に愛情があるのが感じ取れた。時給で、正社員の頃から考えると半分以下になっていた給料でも、働くのが全く苦にならなかった…お金ではない、環境と人の気持ちなのだと、悠美は心底思っていた。


働き出して半年ほど経った頃、同僚のパートさんが言った。

「悠美ちゃん、長期休暇どこにする?」

シフトを決めているようだ。この会社では、パートタイマーにも半年に一回、有給を加えた長期休暇を取ることが義務付けられていた。

「どこでもいいですけど。」

悠美は答えた。特に予定もない。友達とも、前の会社を辞めてから、鬱病になったとは言えなくて、疎遠になっていた。友達のほうも、悠美が呆気なく会社を辞めたと思っているので、あまり良い気はしなかったらしく、連絡もそう頻繁には来なくなっていた。実はゴールデンウィークの旅行も、退職前に約束していた。だが、今となっては、彼女らが望む旅行を同じ金額を出して参加するとは言えず、休みが取れなかったと断ってしまっていた。

「うーんじゃあ、忙しいからゴールデンウィークは避けて、適当に入れとくね?」

悠美は頷いた。

「はい。」

その日は着付け教室の時間が迫っていたので、どうでもいいやと特に何も考えずに答えて、悠美は慌てて退社した。

そして、後日、ガッツリ平日を押さえるようにして、五日間の連休が入っているのを知った。

平日なので、家族も休みはない。サービス業の友達も、居るには居るが、最近は連絡を取っていない。せっかくの休みなのだから、せめて一泊でも旅行に行って、リフレッシュしたい。

一人旅…。

悠美の脳裏にそんな思いがよぎった。海外は自信もお金もないし、そんなところで鬱病の症状なんかが出たら困る。じゃあ、やっぱり国内かな。

そして、休みの初日、本当に思い付きで、最寄りの新幹線停車駅まで鞄を持って出て、料金を見て、ホテル代や食事代を差っ引いて所持金と見あう駅まで、何の計画もなく切符を買い、新幹線に乗って来た。

そして降り立った駅が、ある城下町だったのだ。

そして、今は何だか思いに反して険しくなっていく山道を登っている…。

悠美は、少し後悔し始めていた。

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