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「お前との婚約は破棄する」と言われましたが、私は井戸管理課の職員なので、まず記録簿を確認させていただきます ~前世の水道局員、忘れ井戸の底から十二年分の鍵を引き上げる~

作者: uta
掲載日:2026/10/15

「セリーヌ・ダウェル。お前との婚約は破棄する!」


大広間の中央で、ユルゲン・ヴァルテ伯爵令息が叫んだ。


楽団の弦が止まる。百人ぶんの視線が、一斉に私へ集まった。彼の隣には従姉妹のミレイユが、蜂蜜色の巻き毛を揺らして寄り添っている。


「この女は忘れ井戸に私の誓約鍵を投げ捨てた。契約魔法を汚した大罪人だ!」


会場がどよめいた。


忘れ井戸。嘘をついた者、誓いを破った者の誓約鍵が、ひとりでに沈んで消える古い魔法井戸。貴族の婚約は誓約鍵という金属札を二枚鋳造し、両家で一枚ずつ保管することで成立する。鍵が沈めば、その者が誓いを破った証。他人の鍵を投げ込むなど、契約魔法そのものへの冒涜とされている。


なるほど。重罪だ。


私は腰の革鞄に手をやった。


「——では、記録簿を確認させていただきます」


取り出したのは、革表紙の水位記録簿。朝の点検から持ち歩いているものだ。表紙の端は井戸縄で擦れ、インクの染みが三箇所。


「お姉様……あの、夜会に、帳簿をお持ちになっているの?」


ミレイユが目を丸くする。


「職務中ですので」


私はページを繰った。石筆で引いた罫線、日付、水位、天気。十二年ぶんの、同じ書式の繰り返し。


——前世。日本の市役所水道局、漏水調査係の瀬里奈。三十四歳。深夜の配管点検中にマンホールへ落ちて死んだ。六歳でその記憶を思い出したとき、真っ先に考えたのは「ああ、昨日の検針データを引き継げなかった」だった。我ながら救いがない。


だが、おかげでこの十二年、私は一日も記録を欠かしていない。


「ユルゲン様。あなたの誓約鍵が沈んだ日付を、正確に仰っていただけますか」


「……は?」


「日付です。水位記録と照合いたしますので」


ユルゲンの顔が赤くなった。


「三日前だ! 三日前の夜、この女が井戸に——」


「三日前、ですね。……承知いたしました」


私はその頁を開いた。開いて、止まった。


心臓が、ひとつ、鈍く鳴る。


「お姉様、どうして……わたくし、何も悪いことはしておりませんわ」


ミレイユが涙ぐんで呟いた。


その顔を見て、私は記録簿を閉じた。


ここで何を言っても、意味がない。夜会は証拠を検める場所ではない。声の大きい者が正しい場所だ。それは前世の議会でも、この国の社交界でも変わらない。


「失礼いたします」


一礼して、背を向ける。


「待て、逃げるのか! 弁明もせずに!」


「いいえ」


私は振り返らずに答えた。


「明日の朝六時に、井戸の蓋を開けねばなりませんので。……水は待ってくれませんから」


背中に罵声が飛んだ。グラスの割れる音。誰かの笑い声。


外へ出ると、雨上がりの夜気が冷たかった。石畳に薄く水が張っている。


私は鞄の中の記録簿を、上から軽く押さえた。


三日前の頁。水位、〇・三リン上昇。降雨なし。流入なし。


——鍵一本ぶんの、変動。


つまり彼の鍵は、あの夜会の三日前に、すでに沈んでいた。


誰も投げ込んでなどいない。彼自身が、自分の意思で誓いを破ったのだ。


「……水は嘘をつかない」


呟いて、歩き出す。帳簿も嘘をつかない。嘘をつくのは、人間だけだ。


 *


翌朝六時。王国水源管理局・忘れ井戸管理課。


局舎の裏手、煉瓦造りの平屋。看板の文字は半分剥げている。三十年前から剥げているらしい。


「水は待たんからな。……さあ、蓋を開けるぞ、セリーヌさん」


ハーヴェ爺さんが井戸の蓋を押し開けた。七十二歳、勤続三十年。背は曲がり、指は井戸縄で潰れて節くれ立っているが、巻き上げ機の扱いだけは誰より速い。


私は黄銅の水位計を下ろし、目盛りを読む。


「水位、四尺二寸七リン。前日比プラス〇・一。夜半の雨量ぶん。異常なし」


「四尺二寸七リン、プラス〇・一、異常なし」


爺さんが復唱する。耳は遠いのに、数字の読み上げだけは三十年で一度も聞き違えたことがない。


事務室に戻ると、竈から湯気が上がっていた。


「あんた、また飯食ってないだろ。ほら、椀。豆は数えて入れてるからね。足りないと誰かが損するんだよ」


マルタさんが椀を突き出す。六十五歳、庶務兼備品管理兼湯沸かし係。でっぷりした体に、湯気の匂いのする前掛け。


「……いただきます」


豆のスープ。塩と、少しの豚脂と、硬いパン。


十四年前、六歳の私がこの部署に放り込まれた日——正確には、子爵家から厄介払いされた日——最初に椀を出したのがこの人だった。それから十四年、マルタさんは私に何も聞かなかった。家のことも、婚約のことも、夜更けまで他家の申請書を代筆している理由も。


ただ毎日、椀を二つ出し、ハーヴェ爺さんが来ると三つ出した。


「昨日、何かあったかい」


「婚約を破棄されました。会場中の方に大罪人と呼ばれました」


「……ふうん。じゃあ、パンもう一切れだね」


パンが増えた。それだけだった。


私はスープにパンを浸して食べた。温かい。


それで十分だと思っていた。


——そこへ、使いの者が来た。


「セリーヌさん。使いの者が来とる。……辞令じゃ」


羊皮紙を受け取り、私はまず書式を確認した。前世からの癖だ。


「拝見します。……本日付をもって免職。局長印、あり。起案者欄、署名なし」


指でなぞる。理由欄。


「理由欄が、空白ですね。本来なら差し戻し案件です」


「自分の首の紙に赤入れる職員が、どこの世界にいるんだい」


「……おりませんね。癖です」


竈の火がぱちりと鳴った。


ハーヴェ爺さんが、私の手から辞令を取った。


皺だらけの手が、羊皮紙をゆっくりと握り潰す。


「貸しなさい。……セリーヌさん。あんた、底ざらいの申請書、書けるかね」


事務室が静まり返った。


「……爺さん。それは百年に一度の手続きです」


底ざらい。忘れ井戸の底を浚う行政手続き。必要なのは王印でも剣でもない。過去三年ぶんの水位異常記録と、落下鍵数と台帳記帳数の不一致の証明と、正しい書式の申請書三通。


「知っとる。三十年、順番が回ってこんことも知っとった。それでも記録だけは取り続けた」


爺さんは、節くれ立った指で机を叩いた。


「必要になった日に、書類が足りんのは恥じゃ」


それが、この人の三十年だった。


私は、十四年を思い返した。


ユルゲン家の水利権申請書を代筆した。第三項の読み方すら彼は知らない。ダウェル家の井戸税を帳尻合わせした。ミレイユの転記ミスを四度、記録から除外した。除外処理の書式すら、私が書いた。


波風を立てない。それが仕事を続けるコツだと思っていた。


前世でもそうだった。苦情窓口で頭を下げ、残業記録を自分で削り、誰も見ない検針データを十二年取り続けた。


——それで、マンホールに落ちて死んだ。


誰も、私が何を記録していたか知らないまま。


喉の奥が、十二年ぶりに熱い。


「……必要なのは、過去三年ぶんの水位異常記録と、落下鍵数と台帳記帳数の不一致の証明と、正しい書式の申請書三通」


「そうじゃ。……書けるかね」


「書けます」


声が、自分でも驚くほど静かに出た。


「十二年、それだけをやってきました」


マルタさんが、黙って椀にスープを注ぎ足した。


「……ほら、注ぎ足しだよ。泣くなら、食ってから泣きな」


「泣いてはおりません。たぶん」


私は石筆を削り、新しい羊皮紙を広げた。


生まれて初めて、誰かに頼まれたのではない紙を、自分の意思で埋める。


第一項、申請目的。


——忘れ井戸底部堆積物および沈降物の全数確認並びに台帳整合。


 *


問題は、数字だった。


落下鍵数は、こちらにある。十二年ぶんの水位記録簿から、〇・三リン前後の説明不能な上昇を全て拾えばいい。前世で漏水調査をやった人間には、むしろ得意分野だ。


配管の漏れは、深夜二時から四時の最小流量に出る。誰も水を使わない時間帯に流量がゼロにならなければ、どこかで漏れている。同じ理屈で、雨も流入もないのに水位が上がったなら、何かが沈んだ。


十二年ぶんで、三十一件。


問題は、記帳数のほうだ。


「セリーヌさん、台帳は別棟です、別棟の保管庫の、第四層です!」


飛び込んできたのは、ノエル・ブリク。十七歳、記録保管庫の見習い書記。そばかすと眼鏡と、インクで汚れた指。昼になると豆のスープを一杯もらいに来る坊やだ。


「第四層。二十年以上、誰も開けていない棚ですね」


「そうです、そうです。鍵は保管庫長が持ってて、でも今日は、今日は不在で——」


「坊や。食ってから喋りな」


マルタさんが椀を差し出す。


ノエルは三口でスープを飲み干すと、眼鏡を押し上げた。


「……ごちそうさまです。あの、ぼく、数えます」


「一人で百年ぶんですよ」


「数えるのは、得意なんです」


彼は走って出ていった。本当に走るのが速い。


 *


私は三通の申請書を書いた。


一通目、底ざらい実施許可申請。二通目、堆積物一時搬出許可。三通目、監察官立会い要請。


書式は頭に入っている。十四年、他家のぶんばかり書いてきたのだから。


ただし今回は、代筆ではない。申請者欄に書く名前は、セリーヌ・ダウェル。私の名だ。


石筆が、一度だけ止まった。


——書いておきなさい。日付と、量と、天気。それだけでいいの。


誰の声だったか。


灰青の目。石筆を削る音。十五年前に消えた人。


『井戸に身を投げた不貞の女』として家の歴史から抹消された、私の母。


私はその話を、一度も信じたことがない。けれど証明する手段がなかった。


「……日付と、量と、天気」


呟いて、書き進める。


 *


翌朝。


事務室の扉が勢いよく開いた。


ノエルが、鼻の頭を真っ黒にして立っていた。


「百十九です。三回数えました。三回とも百十九でした」


手に、照合表の束。


百年ぶんの、落下記帳の総数——百十九。


「……こちらの水位記録から拾った落下件数は、十二年ぶんで三十一。過去分を足せば、確実に百十九を超えます」


私は三通の申請書の末尾に、照合担当の欄を書き足した。


「不一致、証明完了。ノエルさん、ここに署名を」


「……え。でも、見習いの書き込みに署名は、許されてなくて」


「それは慣習です。照合担当欄は、書式に存在します。あなたが数えたのに、あなたの名前が無いほうが、書類として不正確です」


ノエルは震える手で石筆を取り、


「ノ、エ、ル・ブ、リ、ク」


と、一画ずつ書いた。


それから椅子に座って、三十分ほど動かなかった。


「坊や。椀、もう一つ出しといたよ。座って冷ましな」


 *


申請書三通は、その日のうちに宰相府へ上がった。


受理したのは、宰相付き監察官。名を、レオン・アルムガルド。


『アルムガルドに書類を見られたら終わり』と社交界で囁かれる男。十九歳で三つの伯爵家を帳簿一冊で潰したという。


彼は三通とも、最後まで読んだ。


そして一字も直さず、受理印を捺した。


——百年ぶりの底ざらいが、許可された。


 *


底ざらいの朝、忘れ井戸の縁に、男が腰掛けていた。


黒髪を短く刈り、冬の灰のような目。長身。宰相府の官服。


そして、干し肉を齧っていた。


「……監察官様。そこは井戸の縁です。危険ですが」


「落ちたら上げてくれ」


即答だった。


「官服の肩に苔がついております」


「知っている」


彼は肉を飲み下した。


「……申請書は良かった。第二項の但し書きが特にな。搬出物の返還条件を先に切ってある。揉めるのはいつもそこだ」


「……最後まで、お読みいただけたのですね」


「読まない監察官は監察官ではない」


短く、無駄がない。皮肉ではなく、事実だけを置く喋り方。


彼は井戸の底を覗き込んだ。


「俺は十二の冬、この局の裏手にいた。父が失脚してな、行き場がなかった」


「……それは」


「婆さんが椀を出した。名前も聞かずに。豆のスープだった。……豆が、数えて入っていた」


灰色の目が、少しだけ動いた。


「以来、俺は記録を取る者を敬う。改竄する者は潰す。——始めてくれ、ダウェル記録係」


 *


巻き上げ機が軋む。


「巻き上げるぞ。……ふむ、五十年前の泥じゃな、これは」


ハーヴェ爺さんが縄を引く。三十年、この日のために記録を取り続けた男の手が、縄を掴んで離さない。


「層が三つ見えます。上から、新しい砂、黒泥、それから粘土。……泥は嘘をつきません。順番に積もりますので」


籠が上がるたび、泥と一緒に、金属が鳴った。


ちゃり、と。


「三十二、三十三、三十四……鍵です、鍵が出ます!」


見物人が集まってきた。百年に一度の底ざらい。噂を聞いた貴族たちが、馬車で乗り付けてくる。


その中に、ユルゲン・ヴァルテがいた。ミレイユがいた。


「ふん、百年ぶりの底ざらいとは大層なことだ。せいぜい自分の罪を掘り出すがいい、セリーヌ」


そして——痩せた顎の、神経質に指を動かす男。


父だ。ダウェル子爵、ギルド・ダウェル。


十四年で、私の名を呼んだ回数は両手に収まる。代わりに書類だけは毎年届いた。『これを頼む』の一言と共に。


目が合った。父は、すぐに逸らした。


昔から、人の目を正面から見ない人だった。


「……百四十五、百四十六、百四十七。百四十七です。三回数えました。三回とも百四十七でした」


ノエルの声が止まる。


泥まみれの鉄札が、井戸端の布の上に並べられていく。


百四十七本。


台帳の記帳数は、百十九本。


レオンが、低く言った。


「台帳記帳数、百十九。実数、百四十七。……全員、動くな」


 *


「こ、これは何かの間違いだ!」


ユルゲンが声を張り上げた。声が大きいほど、彼は自分が正しいと信じ込める男だ。


「そこにある私の鍵は、先日の夜会の夜に、セリーヌ・ダウェルが投げ込んだものだ! そうだろう、ミレイユ!」


「は、はい。わたくし、見ましたわ」


私は記録簿を開いた。


「では、確認させていただきます」


「——またその帳面か!」


「職務中ですので」


私は該当の頁を、開いたまま持ち上げた。


「夜会の三日前。四の月、十一日。降雨なし。流入堰、閉。井戸への流入は一滴もございません」


「だ、だから何だと言うんだ」


「水位、〇・三リン上昇しています」


井戸端が、静かになった。


「この井戸の水面積から逆算しますと、〇・三リンの上昇に必要な体積は、およそ一リット六分。誓約鍵一本の体積と、ほぼ一致します」


私は桶に水を張り、鍵を一本つまみ上げて、落とした。


黄銅の水位計が、わずかに動く。


「……ご覧ください。〇・三リン。同じです」


ざわ、と人々が動いた。


「ユルゲン様。あなたの誓約鍵は、夜会の三日『前』に沈んでいます」


「——っ、ち、違う、それは」


「誓約鍵は、持ち主が誓いを破った瞬間に、持ち主の意思と無関係に沈みます。誰も投げ込んでおりません。流入もありません」


私は記録簿を閉じた。


「つまりあなたは、私に婚約破棄を宣言する三日前に、すでに誓いを破っていた」


ユルゲンの顔から、血の気が引いていく。


「ユルゲン様……?」


隣で、ミレイユが一歩下がった。


「違うと仰るなら、三日前の夜、何をしていらしたかをお答えください。私は記録を照合するだけです」


沈黙。


前世の苦情窓口で学んだことがある。怒鳴り返してはいけない。ただ、記録を出して、黙って待つ。怒鳴る人間は、沈黙に耐えられない。


「……井戸の記録など、職員が書き換えればいい話だろう!」


来た。


井戸端が、凍りついた。


「ぼくたちは、そんなこと——」


ノエルが真っ赤になって立ち上がりかける。


「坊や。座っとれ。……言わせておけばええ」


ハーヴェ爺さんが、その肩を押さえた。


レオンが、ゆっくりと振り返った。


「水位は人が書くが、水は書かん」


静かな声だった。


「三日前の雨量は気象台の記録と照合済みだ。管理課の記録簿と一致している。書き換えるなら、気象台と、流入堰の開閉記録と、下流三箇所の水量記録を全て合わせねばならん。この部署の三人で、百年ぶんをか」


「そ、それは……言葉の綾で」


「いや。今の発言のほうが重い」


レオンは布の上の鍵を指した。


「ヴァルテ令息。あなたは今、『職員が記録を書き換える』という可能性を、自分から口にした。——記帳数、百十九。実数、百四十七。差分、二十八。二十八本ぶん、誰かが記帳を止めさせた。金を積んで」


ノエルが照合表を広げる。


「未記帳の鍵の刻印、照合しました! ヴァルテ伯爵家、十一本。ダウェル子爵家、九本。……ミレイユ・ダウェル様名義、三本です」


「えっ」


ミレイユが顔を上げた。


「……わたくし、何も悪いことはしておりませんわ」


本気で言っている、とわかった。


「ミレイユ。あなたは一度でも、数えてみたことがありますか」


「な、何をですの」


「白紙のまま私に回した申告書を三年ぶん。転記ミスを四度。除外処理の書式を、二度」


私は彼女を見た。


「数えないものは、無かったことにはなりません。——井戸が数えていましたので」


彼女は、何を言われたのか理解できない顔で、黙った。


そして——


「……セリーヌさん。これは、沈んどらん」


ハーヴェ爺さんが、泥の中から一本の鍵をつまみ上げた。


 *


「沈んでいない、とは」


レオンが問う。


私は爺さんの手元を見た。見て、息が止まった。


「……錆び方が、違います」


声が掠れた。


「沈降物は沈んだ順に積もります。黒泥層——十五年前の層にある鍵は、全て泥に『縦に』刺さっています。重みで、落ちた角度のまま沈みますので」


私は震える指で、その一本を指した。


「ですがそれは、横に寝ています。泥の『上』に。落ちたのではなく、後から置かれた——投げ込まれたものです」


前世で十二年、沈殿槽の底を覗いてきた。堆積物の沈み方は、言葉より正直だ。


「……誓いを守った者の鍵は、沈まない」


レオンが呟く。


「はい。沈まない鍵が井戸の底にあるなら、それは人の手で投げ込まれたということです」


ハーヴェ爺さんが、節くれ立った指で泥を拭った。


刻印が、現れる。


「……刻印が出た。アリス・ダウェル、と」


井戸端が、しん、となった。


「……母の、名です」


十五年前、『井戸に身を投げた不貞の女』として家の歴史から消された人。


「わしは、見とった」


「……爺さん」


「十五年前のあの日。わしは下っ端じゃった。誰かが夜中に井戸へ来て、何か投げ込んだのを見とった。……言えんかった。わしは、記録を取ることしかできんかった」


彼は懐から帳面を取り出した。表紙の擦り切れた、古い水位記録簿。


「三の月、二十二日。深夜、水位〇・三リン上昇。降雨なし。流入なし。——『人影あり』と、書いてある」


三十年、彼が取り続けた記録。


必要になった日に、書類が足りんのは恥じゃ。


その日が、今日だった。


「……ノエルさん。では、その日に本当に沈んだ鍵は、どれですか」


ノエルが照合表を繰る。指が止まる。顔が上がる。


「……三の月二十二日の落下記帳、一本。刻印、ギルド・ダウェル」


誰も、何も言わなかった。


百四十七本の鉄札の前で、井戸端の全員が沈黙していた。


その沈黙の中心に、父が立っていた。


「……お父様」


「………………」


「沈んだ鍵が二本あれば、どちらが誓いを破ったかわからなくなる。そうお考えになったのでしょう」


父の指が、小刻みに震えている。


「ですが記帳は、本数ではなく名前で残ります。台帳を読めばわかることです。……お父様は、一度も書式をご覧になったことがない」


愚かだ、と思った。けれど、それ以上に——


「毎年、書類は届きました。『これを頼む』の一言と共に。十四年、私の名を呼ばれた回数は、両手に収まります」


私は、母の鍵を見た。


「弁明は、ございますか」


「………………アリス」


十五年ぶりに、父はその名を呼んだ。


人の目を正面から見ない癖のある人が、初めて、何かを正面から見ていた。


「……十五年目にして、初めて正面から何かをご覧になりましたね」


私は母の鍵を、両手で受け取った。


泥と錆と、十五年。


重かった。たった一枚の鉄の札が、どうしてこんなに重いのか。


——書いておきなさい。日付と、量と、天気。それだけでいいの。


声が、戻ってきた。


灰青の目。石筆を削る音。母も、水源管理局に出入りしていた。貴族の娘としては異例で、それが『不貞』の口実にもされた。


私に記録の取り方を教えたのは、この人だった。


「……水は、嘘をつかない。……ああ。最初にそう教えてくれたのは、母でした」


頬が濡れていた。十二年ぶりに、たぶん。


「……上着を使え。苔はついているが、乾いてはいる」


レオンが、無言で官服を脱いで私の肩にかけた。


「……宰相府の官服を、泥で汚してしまいます」


「構わん。報告書は俺が書く。……いや、訂正する。あんたが書け。照合は俺が引き受ける」


私は鼻をすすって、頷いた。


「……書式は、こちらで用意します。職務中ですので」


 *


底ざらい報告書は、三日かけて書いた。


本文十八枚、添付の水位照合表三十二枚、堆積層断面図四枚。前世でも、こんなに丁寧な報告書は書いたことがない。


末尾の照合担当欄には、ノエル・ブリクの署名。


実施責任者欄には、ハーヴェ・ロッツ。


「実施責任者欄……ふむ。わしの字は下手でな。ゆっくり書かせてもらうわい」


「どうぞ。五分でも十分でも」


老人は、五分かけて自分の名を書いた。


「……これで、引退できるわい」


「困ります。来年度の記録係が足りません」


「……ふむ。ではもう少しやるかね」


 *


事務室に戻ると、湯気が上がっていた。


「あんた、また飯食ってないだろ。ほら、椀」


豆のスープ。硬いパン。


断罪の場に、この人は来なかった。事務室でスープを煮て、待っていた。


「……マルタさん。断罪の場には、来られませんでしたね」


「あたしは数えるのが仕事だからね。十四年で、あんたに四千二百十一杯」


彼女は帳面をめくった。備品出納と、何杯スープを出したかの記録。


「……多いですね」


「坊やには百六十八杯。爺さんは数え切れないから途中でやめた」


私はスープを飲んだ。塩が、いつもより少し濃い気がした。


「マルタさん。十四年前、どうして私に椀を出したんですか」


「六歳が腹減らしてりゃ、出すだろ」


「理由を、一度も聞きませんでしたよね」


マルタさんは、前掛けで手を拭いた。


「聞いて、あたしに何かできるかい? できないことを聞くのは、意地悪なんだよ」


椀が、もう一つ置かれた。


「そのかわり、毎日出した。帰ってくる場所があるってのは、そういうことさ」


扉が開いた。


レオンが、当たり前のように入ってきて、当たり前のように古い椅子に座った。


「婆さん。一杯くれ」


「はいよ。……あんた、どっかで会ったかい」


「さあな」


「顔はねえ、覚えないんだよ。何杯出したかは帳面につけてるけどね」


彼女は椀を出した。豆が、数えて入っている。


レオンは一口飲んで、しばらく動かなかった。


「…………」


「…………豆が、数えて入っている」


「当たり前だろ。足りないと誰かが損するんだから」


彼は、何も言わずに全部飲んだ。


 *


その夜、私は洗濯物を干した。


官給の濃紺の作業外套。袖口が擦り切れている。泥を落とすのに三回洗った。


星が出ていた。


母の鍵は、机の引き出しにある。磨いたら、ただの鉄の札だった。高価でもなんでもない。


でも、それでいい。


明日も六時に、井戸の蓋を開ける。


水は待ってくれないから。


 *


三ヶ月後。


ヴァルテ伯爵家は水利権を剥奪された。ユルゲンは領地の管理を任されたが、水利権申請書の第三項が読めず、三度差し戻されているという。


彼が失ったのは婚約者ではなく、十四年間ただで申請書を書いてくれていた人間だった。そのことに彼はまだ気づいていない。


ダウェル子爵家の名は、台帳から消えた。


消えたのは家名であって、娘ではない。


「……ミレイユから手紙が来ました。塩井戸の記録書式の問い合わせです」


「代筆してやるのかい」


「いいえ。第一項から第七項まで、書き方を丁寧に返しました。……塩井戸では、記録は自分でつけなければなりませんので」


私は忘れ井戸管理課・課長代理になった。給料は銀貨三枚増えた。


「セリーヌ課長代理! 署名、署名してきました! 今日で十二枚です、十二枚、十二枚!」


「ノエルさん。備品請求書に照合担当欄はありません」


「……すみません」


「ですが、受領者欄にはあります。そちらに書きなさい」


「はいっ!」


マルタさんは相変わらず豆を数えている。椀は四つになった。


 *


井戸の縁に、男が腰掛けていた。


黒髪。冬の灰のような目。宰相府の官服の肩に、苔。干し肉を齧っている。


「……監察官様。そこは井戸の縁です。危険ですが」


「落ちたら上げてくれ」


「三ヶ月、一言一句変わっておりませんね」


「次の底ざらいは百年後だが」


彼は干し肉を飲み下した。


「……俺は毎月ここへ来る。監察のために」


「毎月ですか」


「毎月だ」


「では、監察記録簿を一冊、新しく用意する必要がありますね」


「用意してくれ」


私は水位計を引き上げ、目盛りを読んだ。


「水位、四尺二寸七リン。前日比ゼロ。降雨なし。異常なし。……底の石まで見えます。沈んでいるものは、もう何もありません」


底ざらいを終えた井戸の水は、十五年ぶりに澄んでいた。


「ではお茶を淹れます。職務中ですので」


「……ああ、頼む」


彼が、ほんの少しだけ、口の端を動かした気がした。


記録には残さない。


——いや。


残しておこう。


「四の月、二十九日。晴。来客一名。茶、二杯」


石筆を走らせながら、私は小さく呟いた。


「……記録しておきましょう。日付と、量と、天気。それだけでいいのだそうです」

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