「お前との婚約は破棄する」と言われましたが、私は井戸管理課の職員なので、まず記録簿を確認させていただきます ~前世の水道局員、忘れ井戸の底から十二年分の鍵を引き上げる~
「セリーヌ・ダウェル。お前との婚約は破棄する!」
大広間の中央で、ユルゲン・ヴァルテ伯爵令息が叫んだ。
楽団の弦が止まる。百人ぶんの視線が、一斉に私へ集まった。彼の隣には従姉妹のミレイユが、蜂蜜色の巻き毛を揺らして寄り添っている。
「この女は忘れ井戸に私の誓約鍵を投げ捨てた。契約魔法を汚した大罪人だ!」
会場がどよめいた。
忘れ井戸。嘘をついた者、誓いを破った者の誓約鍵が、ひとりでに沈んで消える古い魔法井戸。貴族の婚約は誓約鍵という金属札を二枚鋳造し、両家で一枚ずつ保管することで成立する。鍵が沈めば、その者が誓いを破った証。他人の鍵を投げ込むなど、契約魔法そのものへの冒涜とされている。
なるほど。重罪だ。
私は腰の革鞄に手をやった。
「——では、記録簿を確認させていただきます」
取り出したのは、革表紙の水位記録簿。朝の点検から持ち歩いているものだ。表紙の端は井戸縄で擦れ、インクの染みが三箇所。
「お姉様……あの、夜会に、帳簿をお持ちになっているの?」
ミレイユが目を丸くする。
「職務中ですので」
私はページを繰った。石筆で引いた罫線、日付、水位、天気。十二年ぶんの、同じ書式の繰り返し。
——前世。日本の市役所水道局、漏水調査係の瀬里奈。三十四歳。深夜の配管点検中にマンホールへ落ちて死んだ。六歳でその記憶を思い出したとき、真っ先に考えたのは「ああ、昨日の検針データを引き継げなかった」だった。我ながら救いがない。
だが、おかげでこの十二年、私は一日も記録を欠かしていない。
「ユルゲン様。あなたの誓約鍵が沈んだ日付を、正確に仰っていただけますか」
「……は?」
「日付です。水位記録と照合いたしますので」
ユルゲンの顔が赤くなった。
「三日前だ! 三日前の夜、この女が井戸に——」
「三日前、ですね。……承知いたしました」
私はその頁を開いた。開いて、止まった。
心臓が、ひとつ、鈍く鳴る。
「お姉様、どうして……わたくし、何も悪いことはしておりませんわ」
ミレイユが涙ぐんで呟いた。
その顔を見て、私は記録簿を閉じた。
ここで何を言っても、意味がない。夜会は証拠を検める場所ではない。声の大きい者が正しい場所だ。それは前世の議会でも、この国の社交界でも変わらない。
「失礼いたします」
一礼して、背を向ける。
「待て、逃げるのか! 弁明もせずに!」
「いいえ」
私は振り返らずに答えた。
「明日の朝六時に、井戸の蓋を開けねばなりませんので。……水は待ってくれませんから」
背中に罵声が飛んだ。グラスの割れる音。誰かの笑い声。
外へ出ると、雨上がりの夜気が冷たかった。石畳に薄く水が張っている。
私は鞄の中の記録簿を、上から軽く押さえた。
三日前の頁。水位、〇・三リン上昇。降雨なし。流入なし。
——鍵一本ぶんの、変動。
つまり彼の鍵は、あの夜会の三日前に、すでに沈んでいた。
誰も投げ込んでなどいない。彼自身が、自分の意思で誓いを破ったのだ。
「……水は嘘をつかない」
呟いて、歩き出す。帳簿も嘘をつかない。嘘をつくのは、人間だけだ。
*
翌朝六時。王国水源管理局・忘れ井戸管理課。
局舎の裏手、煉瓦造りの平屋。看板の文字は半分剥げている。三十年前から剥げているらしい。
「水は待たんからな。……さあ、蓋を開けるぞ、セリーヌさん」
ハーヴェ爺さんが井戸の蓋を押し開けた。七十二歳、勤続三十年。背は曲がり、指は井戸縄で潰れて節くれ立っているが、巻き上げ機の扱いだけは誰より速い。
私は黄銅の水位計を下ろし、目盛りを読む。
「水位、四尺二寸七リン。前日比プラス〇・一。夜半の雨量ぶん。異常なし」
「四尺二寸七リン、プラス〇・一、異常なし」
爺さんが復唱する。耳は遠いのに、数字の読み上げだけは三十年で一度も聞き違えたことがない。
事務室に戻ると、竈から湯気が上がっていた。
「あんた、また飯食ってないだろ。ほら、椀。豆は数えて入れてるからね。足りないと誰かが損するんだよ」
マルタさんが椀を突き出す。六十五歳、庶務兼備品管理兼湯沸かし係。でっぷりした体に、湯気の匂いのする前掛け。
「……いただきます」
豆のスープ。塩と、少しの豚脂と、硬いパン。
十四年前、六歳の私がこの部署に放り込まれた日——正確には、子爵家から厄介払いされた日——最初に椀を出したのがこの人だった。それから十四年、マルタさんは私に何も聞かなかった。家のことも、婚約のことも、夜更けまで他家の申請書を代筆している理由も。
ただ毎日、椀を二つ出し、ハーヴェ爺さんが来ると三つ出した。
「昨日、何かあったかい」
「婚約を破棄されました。会場中の方に大罪人と呼ばれました」
「……ふうん。じゃあ、パンもう一切れだね」
パンが増えた。それだけだった。
私はスープにパンを浸して食べた。温かい。
それで十分だと思っていた。
——そこへ、使いの者が来た。
「セリーヌさん。使いの者が来とる。……辞令じゃ」
羊皮紙を受け取り、私はまず書式を確認した。前世からの癖だ。
「拝見します。……本日付をもって免職。局長印、あり。起案者欄、署名なし」
指でなぞる。理由欄。
「理由欄が、空白ですね。本来なら差し戻し案件です」
「自分の首の紙に赤入れる職員が、どこの世界にいるんだい」
「……おりませんね。癖です」
竈の火がぱちりと鳴った。
ハーヴェ爺さんが、私の手から辞令を取った。
皺だらけの手が、羊皮紙をゆっくりと握り潰す。
「貸しなさい。……セリーヌさん。あんた、底ざらいの申請書、書けるかね」
事務室が静まり返った。
「……爺さん。それは百年に一度の手続きです」
底ざらい。忘れ井戸の底を浚う行政手続き。必要なのは王印でも剣でもない。過去三年ぶんの水位異常記録と、落下鍵数と台帳記帳数の不一致の証明と、正しい書式の申請書三通。
「知っとる。三十年、順番が回ってこんことも知っとった。それでも記録だけは取り続けた」
爺さんは、節くれ立った指で机を叩いた。
「必要になった日に、書類が足りんのは恥じゃ」
それが、この人の三十年だった。
私は、十四年を思い返した。
ユルゲン家の水利権申請書を代筆した。第三項の読み方すら彼は知らない。ダウェル家の井戸税を帳尻合わせした。ミレイユの転記ミスを四度、記録から除外した。除外処理の書式すら、私が書いた。
波風を立てない。それが仕事を続けるコツだと思っていた。
前世でもそうだった。苦情窓口で頭を下げ、残業記録を自分で削り、誰も見ない検針データを十二年取り続けた。
——それで、マンホールに落ちて死んだ。
誰も、私が何を記録していたか知らないまま。
喉の奥が、十二年ぶりに熱い。
「……必要なのは、過去三年ぶんの水位異常記録と、落下鍵数と台帳記帳数の不一致の証明と、正しい書式の申請書三通」
「そうじゃ。……書けるかね」
「書けます」
声が、自分でも驚くほど静かに出た。
「十二年、それだけをやってきました」
マルタさんが、黙って椀にスープを注ぎ足した。
「……ほら、注ぎ足しだよ。泣くなら、食ってから泣きな」
「泣いてはおりません。たぶん」
私は石筆を削り、新しい羊皮紙を広げた。
生まれて初めて、誰かに頼まれたのではない紙を、自分の意思で埋める。
第一項、申請目的。
——忘れ井戸底部堆積物および沈降物の全数確認並びに台帳整合。
*
問題は、数字だった。
落下鍵数は、こちらにある。十二年ぶんの水位記録簿から、〇・三リン前後の説明不能な上昇を全て拾えばいい。前世で漏水調査をやった人間には、むしろ得意分野だ。
配管の漏れは、深夜二時から四時の最小流量に出る。誰も水を使わない時間帯に流量がゼロにならなければ、どこかで漏れている。同じ理屈で、雨も流入もないのに水位が上がったなら、何かが沈んだ。
十二年ぶんで、三十一件。
問題は、記帳数のほうだ。
「セリーヌさん、台帳は別棟です、別棟の保管庫の、第四層です!」
飛び込んできたのは、ノエル・ブリク。十七歳、記録保管庫の見習い書記。そばかすと眼鏡と、インクで汚れた指。昼になると豆のスープを一杯もらいに来る坊やだ。
「第四層。二十年以上、誰も開けていない棚ですね」
「そうです、そうです。鍵は保管庫長が持ってて、でも今日は、今日は不在で——」
「坊や。食ってから喋りな」
マルタさんが椀を差し出す。
ノエルは三口でスープを飲み干すと、眼鏡を押し上げた。
「……ごちそうさまです。あの、ぼく、数えます」
「一人で百年ぶんですよ」
「数えるのは、得意なんです」
彼は走って出ていった。本当に走るのが速い。
*
私は三通の申請書を書いた。
一通目、底ざらい実施許可申請。二通目、堆積物一時搬出許可。三通目、監察官立会い要請。
書式は頭に入っている。十四年、他家のぶんばかり書いてきたのだから。
ただし今回は、代筆ではない。申請者欄に書く名前は、セリーヌ・ダウェル。私の名だ。
石筆が、一度だけ止まった。
——書いておきなさい。日付と、量と、天気。それだけでいいの。
誰の声だったか。
灰青の目。石筆を削る音。十五年前に消えた人。
『井戸に身を投げた不貞の女』として家の歴史から抹消された、私の母。
私はその話を、一度も信じたことがない。けれど証明する手段がなかった。
「……日付と、量と、天気」
呟いて、書き進める。
*
翌朝。
事務室の扉が勢いよく開いた。
ノエルが、鼻の頭を真っ黒にして立っていた。
「百十九です。三回数えました。三回とも百十九でした」
手に、照合表の束。
百年ぶんの、落下記帳の総数——百十九。
「……こちらの水位記録から拾った落下件数は、十二年ぶんで三十一。過去分を足せば、確実に百十九を超えます」
私は三通の申請書の末尾に、照合担当の欄を書き足した。
「不一致、証明完了。ノエルさん、ここに署名を」
「……え。でも、見習いの書き込みに署名は、許されてなくて」
「それは慣習です。照合担当欄は、書式に存在します。あなたが数えたのに、あなたの名前が無いほうが、書類として不正確です」
ノエルは震える手で石筆を取り、
「ノ、エ、ル・ブ、リ、ク」
と、一画ずつ書いた。
それから椅子に座って、三十分ほど動かなかった。
「坊や。椀、もう一つ出しといたよ。座って冷ましな」
*
申請書三通は、その日のうちに宰相府へ上がった。
受理したのは、宰相付き監察官。名を、レオン・アルムガルド。
『アルムガルドに書類を見られたら終わり』と社交界で囁かれる男。十九歳で三つの伯爵家を帳簿一冊で潰したという。
彼は三通とも、最後まで読んだ。
そして一字も直さず、受理印を捺した。
——百年ぶりの底ざらいが、許可された。
*
底ざらいの朝、忘れ井戸の縁に、男が腰掛けていた。
黒髪を短く刈り、冬の灰のような目。長身。宰相府の官服。
そして、干し肉を齧っていた。
「……監察官様。そこは井戸の縁です。危険ですが」
「落ちたら上げてくれ」
即答だった。
「官服の肩に苔がついております」
「知っている」
彼は肉を飲み下した。
「……申請書は良かった。第二項の但し書きが特にな。搬出物の返還条件を先に切ってある。揉めるのはいつもそこだ」
「……最後まで、お読みいただけたのですね」
「読まない監察官は監察官ではない」
短く、無駄がない。皮肉ではなく、事実だけを置く喋り方。
彼は井戸の底を覗き込んだ。
「俺は十二の冬、この局の裏手にいた。父が失脚してな、行き場がなかった」
「……それは」
「婆さんが椀を出した。名前も聞かずに。豆のスープだった。……豆が、数えて入っていた」
灰色の目が、少しだけ動いた。
「以来、俺は記録を取る者を敬う。改竄する者は潰す。——始めてくれ、ダウェル記録係」
*
巻き上げ機が軋む。
「巻き上げるぞ。……ふむ、五十年前の泥じゃな、これは」
ハーヴェ爺さんが縄を引く。三十年、この日のために記録を取り続けた男の手が、縄を掴んで離さない。
「層が三つ見えます。上から、新しい砂、黒泥、それから粘土。……泥は嘘をつきません。順番に積もりますので」
籠が上がるたび、泥と一緒に、金属が鳴った。
ちゃり、と。
「三十二、三十三、三十四……鍵です、鍵が出ます!」
見物人が集まってきた。百年に一度の底ざらい。噂を聞いた貴族たちが、馬車で乗り付けてくる。
その中に、ユルゲン・ヴァルテがいた。ミレイユがいた。
「ふん、百年ぶりの底ざらいとは大層なことだ。せいぜい自分の罪を掘り出すがいい、セリーヌ」
そして——痩せた顎の、神経質に指を動かす男。
父だ。ダウェル子爵、ギルド・ダウェル。
十四年で、私の名を呼んだ回数は両手に収まる。代わりに書類だけは毎年届いた。『これを頼む』の一言と共に。
目が合った。父は、すぐに逸らした。
昔から、人の目を正面から見ない人だった。
「……百四十五、百四十六、百四十七。百四十七です。三回数えました。三回とも百四十七でした」
ノエルの声が止まる。
泥まみれの鉄札が、井戸端の布の上に並べられていく。
百四十七本。
台帳の記帳数は、百十九本。
レオンが、低く言った。
「台帳記帳数、百十九。実数、百四十七。……全員、動くな」
*
「こ、これは何かの間違いだ!」
ユルゲンが声を張り上げた。声が大きいほど、彼は自分が正しいと信じ込める男だ。
「そこにある私の鍵は、先日の夜会の夜に、セリーヌ・ダウェルが投げ込んだものだ! そうだろう、ミレイユ!」
「は、はい。わたくし、見ましたわ」
私は記録簿を開いた。
「では、確認させていただきます」
「——またその帳面か!」
「職務中ですので」
私は該当の頁を、開いたまま持ち上げた。
「夜会の三日前。四の月、十一日。降雨なし。流入堰、閉。井戸への流入は一滴もございません」
「だ、だから何だと言うんだ」
「水位、〇・三リン上昇しています」
井戸端が、静かになった。
「この井戸の水面積から逆算しますと、〇・三リンの上昇に必要な体積は、およそ一リット六分。誓約鍵一本の体積と、ほぼ一致します」
私は桶に水を張り、鍵を一本つまみ上げて、落とした。
黄銅の水位計が、わずかに動く。
「……ご覧ください。〇・三リン。同じです」
ざわ、と人々が動いた。
「ユルゲン様。あなたの誓約鍵は、夜会の三日『前』に沈んでいます」
「——っ、ち、違う、それは」
「誓約鍵は、持ち主が誓いを破った瞬間に、持ち主の意思と無関係に沈みます。誰も投げ込んでおりません。流入もありません」
私は記録簿を閉じた。
「つまりあなたは、私に婚約破棄を宣言する三日前に、すでに誓いを破っていた」
ユルゲンの顔から、血の気が引いていく。
「ユルゲン様……?」
隣で、ミレイユが一歩下がった。
「違うと仰るなら、三日前の夜、何をしていらしたかをお答えください。私は記録を照合するだけです」
沈黙。
前世の苦情窓口で学んだことがある。怒鳴り返してはいけない。ただ、記録を出して、黙って待つ。怒鳴る人間は、沈黙に耐えられない。
「……井戸の記録など、職員が書き換えればいい話だろう!」
来た。
井戸端が、凍りついた。
「ぼくたちは、そんなこと——」
ノエルが真っ赤になって立ち上がりかける。
「坊や。座っとれ。……言わせておけばええ」
ハーヴェ爺さんが、その肩を押さえた。
レオンが、ゆっくりと振り返った。
「水位は人が書くが、水は書かん」
静かな声だった。
「三日前の雨量は気象台の記録と照合済みだ。管理課の記録簿と一致している。書き換えるなら、気象台と、流入堰の開閉記録と、下流三箇所の水量記録を全て合わせねばならん。この部署の三人で、百年ぶんをか」
「そ、それは……言葉の綾で」
「いや。今の発言のほうが重い」
レオンは布の上の鍵を指した。
「ヴァルテ令息。あなたは今、『職員が記録を書き換える』という可能性を、自分から口にした。——記帳数、百十九。実数、百四十七。差分、二十八。二十八本ぶん、誰かが記帳を止めさせた。金を積んで」
ノエルが照合表を広げる。
「未記帳の鍵の刻印、照合しました! ヴァルテ伯爵家、十一本。ダウェル子爵家、九本。……ミレイユ・ダウェル様名義、三本です」
「えっ」
ミレイユが顔を上げた。
「……わたくし、何も悪いことはしておりませんわ」
本気で言っている、とわかった。
「ミレイユ。あなたは一度でも、数えてみたことがありますか」
「な、何をですの」
「白紙のまま私に回した申告書を三年ぶん。転記ミスを四度。除外処理の書式を、二度」
私は彼女を見た。
「数えないものは、無かったことにはなりません。——井戸が数えていましたので」
彼女は、何を言われたのか理解できない顔で、黙った。
そして——
「……セリーヌさん。これは、沈んどらん」
ハーヴェ爺さんが、泥の中から一本の鍵をつまみ上げた。
*
「沈んでいない、とは」
レオンが問う。
私は爺さんの手元を見た。見て、息が止まった。
「……錆び方が、違います」
声が掠れた。
「沈降物は沈んだ順に積もります。黒泥層——十五年前の層にある鍵は、全て泥に『縦に』刺さっています。重みで、落ちた角度のまま沈みますので」
私は震える指で、その一本を指した。
「ですがそれは、横に寝ています。泥の『上』に。落ちたのではなく、後から置かれた——投げ込まれたものです」
前世で十二年、沈殿槽の底を覗いてきた。堆積物の沈み方は、言葉より正直だ。
「……誓いを守った者の鍵は、沈まない」
レオンが呟く。
「はい。沈まない鍵が井戸の底にあるなら、それは人の手で投げ込まれたということです」
ハーヴェ爺さんが、節くれ立った指で泥を拭った。
刻印が、現れる。
「……刻印が出た。アリス・ダウェル、と」
井戸端が、しん、となった。
「……母の、名です」
十五年前、『井戸に身を投げた不貞の女』として家の歴史から消された人。
「わしは、見とった」
「……爺さん」
「十五年前のあの日。わしは下っ端じゃった。誰かが夜中に井戸へ来て、何か投げ込んだのを見とった。……言えんかった。わしは、記録を取ることしかできんかった」
彼は懐から帳面を取り出した。表紙の擦り切れた、古い水位記録簿。
「三の月、二十二日。深夜、水位〇・三リン上昇。降雨なし。流入なし。——『人影あり』と、書いてある」
三十年、彼が取り続けた記録。
必要になった日に、書類が足りんのは恥じゃ。
その日が、今日だった。
「……ノエルさん。では、その日に本当に沈んだ鍵は、どれですか」
ノエルが照合表を繰る。指が止まる。顔が上がる。
「……三の月二十二日の落下記帳、一本。刻印、ギルド・ダウェル」
誰も、何も言わなかった。
百四十七本の鉄札の前で、井戸端の全員が沈黙していた。
その沈黙の中心に、父が立っていた。
「……お父様」
「………………」
「沈んだ鍵が二本あれば、どちらが誓いを破ったかわからなくなる。そうお考えになったのでしょう」
父の指が、小刻みに震えている。
「ですが記帳は、本数ではなく名前で残ります。台帳を読めばわかることです。……お父様は、一度も書式をご覧になったことがない」
愚かだ、と思った。けれど、それ以上に——
「毎年、書類は届きました。『これを頼む』の一言と共に。十四年、私の名を呼ばれた回数は、両手に収まります」
私は、母の鍵を見た。
「弁明は、ございますか」
「………………アリス」
十五年ぶりに、父はその名を呼んだ。
人の目を正面から見ない癖のある人が、初めて、何かを正面から見ていた。
「……十五年目にして、初めて正面から何かをご覧になりましたね」
私は母の鍵を、両手で受け取った。
泥と錆と、十五年。
重かった。たった一枚の鉄の札が、どうしてこんなに重いのか。
——書いておきなさい。日付と、量と、天気。それだけでいいの。
声が、戻ってきた。
灰青の目。石筆を削る音。母も、水源管理局に出入りしていた。貴族の娘としては異例で、それが『不貞』の口実にもされた。
私に記録の取り方を教えたのは、この人だった。
「……水は、嘘をつかない。……ああ。最初にそう教えてくれたのは、母でした」
頬が濡れていた。十二年ぶりに、たぶん。
「……上着を使え。苔はついているが、乾いてはいる」
レオンが、無言で官服を脱いで私の肩にかけた。
「……宰相府の官服を、泥で汚してしまいます」
「構わん。報告書は俺が書く。……いや、訂正する。あんたが書け。照合は俺が引き受ける」
私は鼻をすすって、頷いた。
「……書式は、こちらで用意します。職務中ですので」
*
底ざらい報告書は、三日かけて書いた。
本文十八枚、添付の水位照合表三十二枚、堆積層断面図四枚。前世でも、こんなに丁寧な報告書は書いたことがない。
末尾の照合担当欄には、ノエル・ブリクの署名。
実施責任者欄には、ハーヴェ・ロッツ。
「実施責任者欄……ふむ。わしの字は下手でな。ゆっくり書かせてもらうわい」
「どうぞ。五分でも十分でも」
老人は、五分かけて自分の名を書いた。
「……これで、引退できるわい」
「困ります。来年度の記録係が足りません」
「……ふむ。ではもう少しやるかね」
*
事務室に戻ると、湯気が上がっていた。
「あんた、また飯食ってないだろ。ほら、椀」
豆のスープ。硬いパン。
断罪の場に、この人は来なかった。事務室でスープを煮て、待っていた。
「……マルタさん。断罪の場には、来られませんでしたね」
「あたしは数えるのが仕事だからね。十四年で、あんたに四千二百十一杯」
彼女は帳面をめくった。備品出納と、何杯スープを出したかの記録。
「……多いですね」
「坊やには百六十八杯。爺さんは数え切れないから途中でやめた」
私はスープを飲んだ。塩が、いつもより少し濃い気がした。
「マルタさん。十四年前、どうして私に椀を出したんですか」
「六歳が腹減らしてりゃ、出すだろ」
「理由を、一度も聞きませんでしたよね」
マルタさんは、前掛けで手を拭いた。
「聞いて、あたしに何かできるかい? できないことを聞くのは、意地悪なんだよ」
椀が、もう一つ置かれた。
「そのかわり、毎日出した。帰ってくる場所があるってのは、そういうことさ」
扉が開いた。
レオンが、当たり前のように入ってきて、当たり前のように古い椅子に座った。
「婆さん。一杯くれ」
「はいよ。……あんた、どっかで会ったかい」
「さあな」
「顔はねえ、覚えないんだよ。何杯出したかは帳面につけてるけどね」
彼女は椀を出した。豆が、数えて入っている。
レオンは一口飲んで、しばらく動かなかった。
「…………」
「…………豆が、数えて入っている」
「当たり前だろ。足りないと誰かが損するんだから」
彼は、何も言わずに全部飲んだ。
*
その夜、私は洗濯物を干した。
官給の濃紺の作業外套。袖口が擦り切れている。泥を落とすのに三回洗った。
星が出ていた。
母の鍵は、机の引き出しにある。磨いたら、ただの鉄の札だった。高価でもなんでもない。
でも、それでいい。
明日も六時に、井戸の蓋を開ける。
水は待ってくれないから。
*
三ヶ月後。
ヴァルテ伯爵家は水利権を剥奪された。ユルゲンは領地の管理を任されたが、水利権申請書の第三項が読めず、三度差し戻されているという。
彼が失ったのは婚約者ではなく、十四年間ただで申請書を書いてくれていた人間だった。そのことに彼はまだ気づいていない。
ダウェル子爵家の名は、台帳から消えた。
消えたのは家名であって、娘ではない。
「……ミレイユから手紙が来ました。塩井戸の記録書式の問い合わせです」
「代筆してやるのかい」
「いいえ。第一項から第七項まで、書き方を丁寧に返しました。……塩井戸では、記録は自分でつけなければなりませんので」
私は忘れ井戸管理課・課長代理になった。給料は銀貨三枚増えた。
「セリーヌ課長代理! 署名、署名してきました! 今日で十二枚です、十二枚、十二枚!」
「ノエルさん。備品請求書に照合担当欄はありません」
「……すみません」
「ですが、受領者欄にはあります。そちらに書きなさい」
「はいっ!」
マルタさんは相変わらず豆を数えている。椀は四つになった。
*
井戸の縁に、男が腰掛けていた。
黒髪。冬の灰のような目。宰相府の官服の肩に、苔。干し肉を齧っている。
「……監察官様。そこは井戸の縁です。危険ですが」
「落ちたら上げてくれ」
「三ヶ月、一言一句変わっておりませんね」
「次の底ざらいは百年後だが」
彼は干し肉を飲み下した。
「……俺は毎月ここへ来る。監察のために」
「毎月ですか」
「毎月だ」
「では、監察記録簿を一冊、新しく用意する必要がありますね」
「用意してくれ」
私は水位計を引き上げ、目盛りを読んだ。
「水位、四尺二寸七リン。前日比ゼロ。降雨なし。異常なし。……底の石まで見えます。沈んでいるものは、もう何もありません」
底ざらいを終えた井戸の水は、十五年ぶりに澄んでいた。
「ではお茶を淹れます。職務中ですので」
「……ああ、頼む」
彼が、ほんの少しだけ、口の端を動かした気がした。
記録には残さない。
——いや。
残しておこう。
「四の月、二十九日。晴。来客一名。茶、二杯」
石筆を走らせながら、私は小さく呟いた。
「……記録しておきましょう。日付と、量と、天気。それだけでいいのだそうです」




