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第4巻 第5章 独立宣言(2)

紫黒の瘴気が森を撫で回すたび、舌に苦い金属の味が乗った。湿った土の匂いが歪み、葉の縁から落ちる滴が小さく弾ける音だけが耳に刺さる。空気が重い。指先にまとわりつくものがある。踏み出す前に靴底が嫌なきしみを覚えた。


「クヒヒ……いい匂いだなぁ。肺の裏側を撫でるこの痺れ。どうだ、結界師。お前の箱庭、もう半分は溶けたぞ? 見ろよ、白樺の皮に咲いた紫の花。苔石の艶も見事だ。腐りゆく息づかいってのは、こうしてこそ絵になる」


六本の腕がばらばらに広がり、指先が森のあちこちを示す。半人半蜘蛛の異形、毒のゲルドが笑った。笑いは粘つき、体温を奪う。彼自身が撒いた霧の中心で、王の席にふんぞり返る気配。


風が止んだ。鳥の声は最初から無い。虫の羽音まで消えた。アレスの背後で空気の層が薄く揺れて、声という声が吸い込まれていく。


「……」


アレスは立つだけだった。革靴のつま先が黒い泥を踏みそうになった瞬間、泥は壁にぶつかったみたいに弾かれて散る。指先の温度が一度だけ下がる。周囲数センチの空間が異様に密で、なめらかだった。


「アレス……」


小さく息を飲む音。彼の真横、エララの肩がわずかに震えた。栗色の髪の隙間から赤い鱗が浮かび、頬を伝って首筋まで縫い付けられていく。瞳孔がひゅっと細くなる。喉が一度だけ上下し、舌先で乾いた唇を湿らす。


「下がって。あの蜘蛛は、わたしが」


「いい」


短い。乾いた石が水面に落ちるみたいな声だった。


その冷たさに、エララの肩がまた小さく跳ねた。普段の彼なら、どんな戦いでも目の端に遊びを残す。血飛沫の弧を見て、散った葉の向きを眺め、角度を調整するあの癖。いま、その影が消えている。


灰青の瞳から色が引く。薄いガラスみたいに中身が見えなくなった。ゲルドに向ける視線は、敵を見る目でも獲物を見る目でもない。ここではない場所に置かれた何かをまっすぐに片付ける、そんな目。


ゲルドの長い脚が一本、床を叩いてから硬直した。


「なんだ、その目は……」


「ゲルド、と言ったな」


アレスが一歩、前に出る。


「ひとつだけ」


二歩目。空気の密度が変わる。耳の奥でふっと圧が抜ける。


「私は不揃いを許容する。風に折れた枝も、夜のうちに転がった石も、季節を間違えた花も、時に面白い」


三歩目。光が指先に乗った。


「だが」


四歩目で右手が上がる。淡い銀が灯り、薄い紋が浮かんでは消える。詠唱はない。息をするみたいに、意志が術に変わる。


「私の庭を、汚すな」


ぱん、と一つの音。銀の輪が地表すれすれに走り、同心円になって広がった。一波、二波、三波。輪の肌に触れた紫が、火に油を落としたみたいに一瞬明るくなり、すぐ細かい粒にほどけていく。ひゅう、とガラスが擦れる高い音。空気に混ざった粉が、夜明けの光を受けてきらりと跳ねる。


「な、なん……」


ゲルドが声を変えた瞬間、アレスの後ろの空間がわずかにたゆむ。皮膚でわかる。森という森に張り巡らされた線が、一本の弦に強く巻き上げられていく。


「これ以上は、だめ」


エララが一歩詰め寄る。腕を伸ばしかけて止める。手の甲に細い氷が走る音がした。


「その規模で出力を上げたら、反動が来る。あなた自身に」


「黙っていろ」


アレスは横を見ない。


「私の景観に触れたのは私だ。片付けは私がやる。これは……美の問題だ」


最後の語が低く降ろされる。


エララは眉間に指を当て、深く息を吸った。頬に浮いた鱗がゆっくり収まる。瞳だけが燃える。彼にとっての「美の問題」がどういう意味か、知っているからだ。世界が傾いても優先する領域。止めたところで、彼の背中は動きを止めない。


「還れ。《浄化の白溟》」


吐息のような一言。言葉と同時に、世界が脱皮したみたいに白くなった。


白樺の幹を覆っていた黒い苔がぱらぱらと落ちる。剥がれた下から、銀がのぞく。爛れた葉脈に冷たい緑が戻ってくる。小川の肌が上流から順にほどけ、石に当たる音が立ち戻る。空気の温度が一つ上がり、鼻腔を刺していた金属臭が色褪せる。


「ば、ばかな! 俺様の毒は千年残る! 祟りと呪いの結晶だぞ!」


ゲルドの声は上ずる。霧が彼の脚にもまとわりつく。銀の粒が節から生まれ、砂のようにこぼれた。


「うるさい」


アレスは反応しない。目は別を見ている。視線の先、山肩の古い桜。樹皮に残った毒の塊がほろほろ崩れて、うっすら色づいた蕾が顔を出した。風がないのに、房がかすかに揺れる錯覚。アレスの口角がほんの少しだけ、上がる。


その時だった。


ぐらり。


足元の石が柔らかくなる感覚。世界の水平線が左に滑る。指が額へ上がろうとして、途中で止まる。


(……なぜ、ここに立つ)


思考の糸が一本切れる音がした。霧だ。頭の内側に白いもやが立つ。少し前のことはある。毒を払っている最中、四天王の蜘蛛、ゲルド、対峙。だが、その手前が抜けた。今朝、誰と何を話した。昨晩、何を口にした。今日、なぜここに来た。


霧が数枚の薄い膜を剥いでいく。剥いだそばから光に昇った。


「……アレス?」


エララの声が遠い。息が詰まる音が混ざる。世界で一番愛しい背中が一ミリ沈む。彼女の世界がそれだけ揺れた。


「エララ」


アレスが言った。視線は桜に向けたまま。


「お前の名は、エララで合っているか」


時間が止まる。彼の言葉に挟まれた空白が永遠に伸びた。


エララの瞳が針のように細くなる。頬の鱗が逆立つ。指先が衣の裾を握りつぶした。


「合っています。わたしはエララ。……あなたが呼ぶ名は、それだけ」


声は震えない。にこりと微笑んだ。笑みの裏で、足元に白い霜が小さく広がる。音のない約束。彼の耳にだけ届くような高さで、子守歌の調子で、言葉を重ねる。


「そうか」


アレスは短くうなずく。


「……少し、疲れた」


その一言は初めてだった。エララは目を伏せ、爪の先で自分の掌を押した。体温を保つために。


その間にも白は増幅する。ゲルドの脚が一本、二本と節でほどける。粒子が肩から零れて、彼の輪郭が薄くなる。


「やめろ、やめてくれ! 俺様は四天王だぞ! ここで終わっちゃ――」


「ああ、そうだ。お前がいた」


アレスがようやく振り向く。


その目はさっきまでの冷たさとは別物だった。うつろ。必要な情報だけを拾う目。残すものと捨てるものの境界を一瞬で引く視線。


「覚えておく必要は、ないな」


右手の指を弾く。


乾いた音。一本の銀線が頭から尾まで縦に落ちた。音がなかった。左と右が、ただ“ずれる”。崩壊の余韻さえ発生しない。ゲルドは銀の砂になって浮かび、風もないのに薄く散った。


同時に、白は役目を終える。霧が完全に晴れた。白樺は銀に光り、山桜は息をし、小川は澄んだ音を取り戻す。短く切りそろえた緑の毛布に足裏が沈む感覚が帰ってくる。空の色が青かった。


「……これでいい」


アレスが低くこぼす。次の瞬間、膝の力が抜けた。地が近づく。


「アレス!」


エララが飛び込む。腕で支え、胸に抱える。彼の重みが肩に落ちる。頬に手を添える。額に触れる。首筋で脈を数える。熱はない。傷もない。だけど、どこかが空になっている。音が一つ抜けた楽器のよう。


「ねえ、聞こえる? エララよ。何度でも言う。エララ。あなたの、エララ」


言いながら、彼の耳たぶに唇が触れる位置を探す。息が触れて、皮膚が少しだけ粟立つ。呪文のように繰り返す。祈りの形で封をする。


アレスが目を開ける。焦点が一度泳ぎ、彼女に落ち着いた。


「……エララ。庭は」


「無事。あなたの……設計した図面どおり、細部まで戻ってる」


「そうか、よかった」


目蓋が閉じる。呼気が規則的に落ちる。


エララはその寝息を頬で受けながら、指先を地に置いた。冷えた土の感触。木の根の皮膚。失われる音の代わりに、それを確かめる。奥歯がきしむ。舌の裏に鉄の味が戻る。


「……取らせない」


彼の喉に耳を寄せたまま、声を落とした。地の奥に吸わせる調子。


「あなたから何かを連れていくものは、誰であっても、何であっても」


言い切ったあと、ふっと笑う。笑みは柔らかい。彼の髪に頬をすり寄せる。肩越しに見える桜の蕾が、小さく震えた。


風がひとつ吹き抜ける。さっきまで死んでいた森が、息を吐き出した。白樺の葉が重なり合って鳴る。それは心拍の音に似ていた。空の角度が午後の色に変わる。光が銀の幹を撫でて、影が地を浅く走る。


「ねぇ、アレス。わたし、覚えておく。あなたが忘れたものも。あなたが見ないふりをするものも。ぜんぶ」


囁く間、彼の肩にしがみついた指の力が少しだけ強くなる。足元に透明な霜が広がり、すぐ溶けた。目は笑っている。呼吸は穏やか。耳鳴りのような冷気だけがそこにあった。


「まさか、こんな形で代償が来るなんてね」


彼女自身に言い聞かせる言い方。誰にも向けていない。空に落とす言葉。だからこそ鋭い。


「やり方を考えよう。取り返す方法も。あなたの中で欠け始めたものを、わたしの外側で繋ぎ直すやり方を」


桜の枝が、音もなくほころぶ準備をする。花の皮膚が薄く緩む。芽の先に触れた光が、うすい桃色をほんのり灯した。小川の石は滑らか。水は冷たい。指を入れれば骨に伝わる冷えがある。


「ほら、聞こえる? 水の音。大丈夫」


エララは彼の耳元にそれだけを注いだ。音で繋ぐ。温度で繋ぐ。匂いで繋ぐ。彼の記憶が剥がれ落ちる速度を、指で押し留めるみたいに。


「四天王、ゲルド。片付いた」


森の奥から、遠い地鳴りが一度だけ響く。大きな重石が落ちた音。同時に、薄い影が広がる。目に見えない。それでも確かに、頭上を覆うほどの広さを持つ影が、静かに形を取った。


エララはそれを見上げない。見上げたところで意味はない。胸の上で眠る男の呼吸だけが、いま、世界の中心だった。


ゲルドの笑いの残滓は消えた。毒の匂いも薄れ、白樺の皮の甘い香りが鼻に戻る。土の湿り気が心地よい。指先が泥を掬って、こすり合わせると、細かい砂が音を立てた。


「ねぇ」


彼の頬に額を当てる。体温が移る。髪を指で梳く。一本一本の摩擦が心を落ち着かせる。


「あなたの庭、守ったよ」


耳のすぐそばで言葉がほどける。彼の肩の力がわずかに抜ける。


「次も守る。何度でも。方法は何だって使う」


笑いながら、誰にも見えない場所で指先が硬くなる。笑顔の奥で、目は薄く細められた。背後の空気が温度を落とす。氷の匂い。すぐに消した。


「だから、眠っていてもいい。少しだけね」


彼の呼吸が穏やかな波になって、エララの胸に当たった。波に同調するように、彼女の肩がゆっくり上下する。白樺の幹の影が二人を包む。影の輪郭が午後の光で柔らかくぼけた。


遠くで、鳥が一度だけ鳴く。戻ってきた小さな命の声。森が目を開けた。葉の裏で小さな虫が羽を震わせた音がした。


エララは目を閉じる。耳だけを開く。


「エララ」


息の隙間から、彼がわずかに呼んだ気がした。空耳かもしれない。それでも肯いた。


「ここにいる」


指を絡める。指先の骨の形を覚え直す。ちいさな皺の場所、皮膚の厚み、内側を流れる脈の速度。忘れられないものを、数える。


風景は戻った。白樺、桜、小川。配置は揺るがない。音の重なりが静かに積み上がって、森の呼吸に合う。光は斜めに射した。影が伸びる。


その美しさの中心で、一部が剥がれ落ち始めた。アレスという男の内側の、目に見えない何割か。今はまだ小さい。けれど、確実に始まってしまった。だからこそ、エララは笑った。ゆっくり。


「ねぇ、これから忙しくなる」


囁きは甘い。中身は鋭い。


「……準備をしよう」


遠くで、誰かの足音はしない。森は息を合わせ、庭は息を整えた。二人の周りだけが、時間から切り離された泡の中みたいに静かだった。


そして、泡の外で、影が広がった。音もなく。色もなく。記憶の名を持たない闇が、薄く、冷たく。


エララは目を開けた。笑みを整える。肩の力を抜く。彼の髪に一度だけ口づけを落とす。それから、空を見上げずに、足元の草の一本に視線を落とした。震えない草を見て、安心する。


「帰ろうか」


誰にともなく言う。彼の体を抱え直し、重心を確かめる。彼女の足元に霜がいっとき走って、消えた。


森が道を開ける音がした。葉が左右に揺れる。白い光が細く伸びて、二人の先を照らす。小川の水音が背中から追いかけてくる。


四天王、猛毒のゲルド。討伐は完了した。


同時に、この庭の上に新しい影が置かれた。名はまだない。けれど、確かにそこにある。彼の記憶のいくつかを奪っていく影。いま、この瞬間から。エララの肩に落ちた重みは、愛しい重みと、これから背負う全ての重みを重ねたものだった。

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