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第4巻 第2章 内政チートと景観整備(1)

「……酷いものだ」


乾いた音が、喉の奥から落ちる。怒気でも哀哭でもない。磨き込んだ硝子に灰を投げつけられたときの、熱が引いた手のひらに残る感覚に近い。


アレスは片膝を土へ下ろし、指先で黒土を撫でた。朝露がまだ残るはずの粒は、やけに重い。掌にわずかにまとわりつく湿りの下で、砕けた鉱物粉が舌触りの悪い砂利に変わっている。鼻腔に立つのは、雨上がりの森に混じる鉄の酸味。焦げた皮革の匂いも微かに滲む。王国軍が残していった痕跡だ。


「青藍華が、十二……月光蘭が、二十三……」


彼は折れて転がる茎を拾い上げ、その切口を爪で確かめる。繊維はまだ水を保ち、花弁の色素が指先に淡く移る。ひとつひとつの固有名を、死者の名簿を読み上げるように、落ち着いた声で数える。


「それから……黒翡翠薄香、五。森影百合は……三、いや四か」


自分に聞かせるように呟くと、背後で衣擦れが小さく鳴った。鈴の音に似るが、冷えを含んだ音。振り返らずとも誰かはわかる。


「アレス様」


そこまで言って、声は一拍置く。呼気が地面の冷たい層に触れて霧になるほど近い位置に、エララが立つ気配。彼女の足音は軽い。だが周囲の温度が、ひとしずく落ちた。


「……何の用だ、エララ」


低い問い。手は、まだ土の上だ。


「お顔が、眠れていない目をしているの。少し、楽に」


「必要ない」


切断。短く、乾いた刃。アレスが顔を上げる前に、腕に滴る音が耳に入る。ぽたり、と濃いものが土を打つ音。


見れば、白に光を返す布地が、膝から下でじわりと赤く染まっていた。色は鮮烈。けれど、その源は竜の高貴な血ではない。彼女の前腕に刻まれた爪痕から零れた赤。肌はとっさに再生を始め、縁から薄く氷が張る。沁み出るものと凍るものがせめぎ合い、細い銀の毛に光が刺さる。朝の角度は低い。髪の一筋一筋が鋭く光った。


「土は喉を潤すものがないと乾くの。竜の血は肥に……書に、そうあったの。わたしのものなら、惜しまない」


エララは笑った。口角が上がるのに、瞳の焦点が遠い。微笑の奥で、吐息が白く揺れ、空気がきしむ。彼女の背で、見えない鱗が一枚、冷たく鳴った気がした。


「麗しくないな、その姿は」


アレスの声もまた静かだ。突き立てられるのではなく、静水に石を投げたときの、密やかな落下。


エララは肩をすくめ、小さく頷いた。手首に巻きつく血を袖で押さえ、すぐに袖口を整える。髪に触れ、摘まみ、乱れを解く。動作は練習のように丁寧。整える指先の震えだけが、別の熱を物語る。


「すぐに、整える。アレス様に合う景色しか、ここに置かないの。あの人たちみたいに、騒ぐ音は似合わないもの」


「そうだな」


余計な言葉は拒む。目は花壇に戻る。折れた茎、潰れた蕾、踏み荒らされた土。その上に左手をかざし、呼吸を一度整える。空気は冷たい。胸の奥に吸い込んだ湿りが、喉に心地よく当たる。


「……第七階梯、『再構築』」


囁きは風より弱い。だが応えるものは大きい。翡翠に似た淡い光が、指の腹から漏れ出る。液体のように見えて、触れれば熱も冷たさもない。光が土へ沈むと、眠っていたものが目を覚ます気配が四方から立ち上がる。砕けた魔石が浮き、粒子の順番がひっくり返り、層がすり替わる。折口に薄い膜が張り、どこに何が繋がっていたかを、精密でない言葉の外で理解させる力が流れた。


「……おかえり」


アレスは誰にともなく言った。土の弾力が、指先にほんの少しだけ昔の記憶より柔らかい気がして、鼻の奥が痛くなる。その痛みとともに、別の声が胸の裏に蘇る。


『アレス、世界は美しくなくてはならないのよ。美しさだけが、人を生かすのだから』


母の声だ。灰にまみれた王都の裏通り。煤の匂い。薄い壁越しの笑い声。最後に手渡された小さな野薔薇。『あなたは庭師になるべき子だわ』と、笑っていた唇の乾き。


「母上」


口の形だけで呼ぶ。エララはその動きに反応し、首を傾げた。


「誰か、呼んだの」


「いや」


短い否定。光はさらに深く染み込み、折口の繊維が継がれ、新しい薄皮が生まれる。青藍華の花弁が一枚、ゆっくり形を取り戻す。深い藍に針のように散る微細な輝き。陽光を受けて、色が濃くなる。世界の音が変わる。月光蘭が揺れ、ちりん、と澄んだ音をひとつ落とした。その音が結界全体に広がり、戻り、また広がる。耳ではなく胸骨の内側で、波紋が幾重にも触れる。


「アレス様……」


エララはその音に目を細め、地に膝を落とした。石畳に額が触れかける直前で止める。そこにある冷えを掌で感じ取りながら、何かを祈る者の体勢に入る。翼は畳んだまま。細い肩の上で肩甲骨がわずかに動く。


「王国は」


アレスの声が土の匂いに混じる。


「王国は、何も理解していない」


「何が」


「この庭をな」


言葉は尖っていない。だが、そこに熱はある。エララの睫毛の端が、ぴくりと震えた。


「彼らは、この箱庭を脅威と呼んだ。死の森を覆う、未知の結界。制御不能の魔術師」


「案外、似た言葉を聞いた記憶があるの。火を怖がる村、翼を隠させようとした学び舎」


エララの声は柔らかい。爪が先ほど刻んだ傷を、もう一度なぞる。血は止まっているのに、なぞることで痛みが戻る。彼女の頬に笑みが浮かび、その頬で日差しが跳ねた。


「彼らが恐れたのは、私の力ではない」


アレスの視線が、修復された花に流れ、戻る。朝の光が葉の縁の毛にかかり、小さな影を地に落とす。細い影が揺れ、形が変わる。


「自分たちの城や玉座より、ここが美しいからだ」


言った瞬間、青藍華がふっと香りを強めた。湿りを帯びた、冷たい紙をめくったときのひんやりした匂いに、蜂蜜ほどではない甘さが一滴混じる香り。嗅いだ者の舌の裏に、水がたまるような濃さ。


「それで足で踏みにじるって、変な話ね」


「変で当然だ」


言い捨て、彼は目を閉じる。箱庭の隅々までが自分の呼吸と同じ速度で動く感覚が、背骨に沿って長く伸びる。森の北端で葉擦れが一つ。南の池で鯉が跳ねる音が二。東で何かが土に触れる、軽い靴音。重ねて、遠く遠く、油の乗る指が紙を滑る音が、なぜだか耳の奧に張り付いた。


「……うるさい」


その一言で、箱庭の外から忍び込んだ動物の気配が、棘に触れたように方向を変える。北の気配が、音もなく消える。東の靴音が、一歩だけ退く。


エララがくす、と笑いを漏らした。笑うと同時に、空気が一度だけこわばる。周囲の草の端に霜の結晶が一つ、立つ。すぐに溶ける。彼女は何もしていない、という顔で首を傾ける。


「もう、許さん」


アレスの囁きは淡い。だが、それを聞いたエララの背に透明な震えが走る。頬に落ちかけていた髪を耳にかけ、唇を閉じ、視線だけをアレスに縫い留める。


「もう、誰にも邪魔させない」


「うん」


返事は短い。頷きは深い。彼女の翼の付け根がわずかに開く。まだ広げない。広げるのは、そのときと決めている。


アレスは立ち上がり、手を払う。修復された花壇が朝の光を受ける。三年かけて漸近した図が、今日に限ってすっと手の届く範囲に来た。色のバランスも、茎の高さも、互いの影の落ち方も、痛いほど正確。風が通り抜ける筋が一本生まれ、香りが弱く揺れる。踏み荒らされた痕跡はここにない。


「皮肉だな」


彼は小さく独り言を落とす。


「相手の乱暴さが、私をここまで引っ張る」


「口に出すのは珍しいの」


エララが目を伏せる。彼の言葉はいつも少ない。その少なさに慣れた舌が、今の声の温度に過敏になる。


「エララ」


呼ばれて、彼女の身体がしなやかに動く。膝から立つ動作が滑らかで、裾が遅れて揺れる。両の手が胸の前で重なり、指がほどける。彼女の目の縁が濡れているのに、涙は落ちない。表面張力が頑張っている。


「はい」


「お前の血を、少し、貸してもらおう」


静かに。命令ではない、お願いでもない。ただの事実として並べられた単語が、彼女の胸にぶつかる。


エララの喉が一度鳴る。次の瞬間、表情が陽に当たった果実みたいに明るくなった。


「うれしい。うれしいの、うれしい」


言いながら彼女は手首を上げ、爪先を立てた。ためらいはない。肌が割れる音は小さい。金色の滴が一滴、地に落ちる。続けて二滴。空気が音を失う。


「わたしのもの、全部持っていってほしいくらい」


「足りる分だけでいい」


アレスは土の上に手を差し出し、溢れる金色を受け止めた。温度は不思議だ。熱いのでも冷たいのでもない。ただ、指の腹に触れたところに、身体の重みが集まるような濃さがある。血の匂いは、鉄ではない。乾いた草に陽が当たる匂いと、晴天の前にだけ出る風の匂いに似る。


「結界の拡張に使う」


彼の言葉は次の行に行く前に終わる。


「この森を、王国から切り離す」


静かに。ただそれだけを、彼は言った。



エララは頬に両手を当てて、笑いながら泣き出した。涙は大粒。頬を滑り落ちるそばから陽に当たり、虹色に光る。涙の光が彼女の翼に落ち、翼がそれに応えて開く。薄い膜が朝日に透け、鱗の継ぎ目が虹をほどく。


「すごい。すごいの、アレス様」


「落ち着け」


「うん、落ち着く。落ち着くね」


頷きながら、彼女は口元を固める。足先が土を感じ、重心を少し下げる。泣いているのに戦える、と身体が言っている。彼女の視線はアレスの手に吸い寄せられ、そこにある金色にまた揺れる。


「痛むか」


「気持ちのいい痛みって、あるの。これは、それ」


「そうか」


アレスの手は再び土に触れ、金色の血を薄く塗る。塗るというより、沁み込ませる。点が線になる。線が面になる。森全体の肌に、新しい層が生まれる感覚が、皮膚の裏から伝わる。森が一枚の楽器になった気がして、彼は息を調える。一定のリズムを与えるだけで、音が整う。


エララは静かに笑う。唇に人差し指を立てる。黙って、と言葉にせず目で言う。それに応じて、周囲の風が音を消した。遠くの葉が擦れる音が一度引き、すぐに戻る。彼女の足元の土に、霜の華が一輪、細く咲いた。彼女はそれを見ない。見ないで、ただ笑う。


「王国の地図官、困るかな」


エララがふと、肩を揺らす。


「困れ」


アレスは即答した。そこに余分な感情は乗らない。乗らないのに、冷たくもない。決定、だけだ。


「でも、境界って綺麗ね」


「綺麗でなくては意味がない」


「そうだね」


彼女が嬉しげに同意し、膝を折る。掌を土に当て、目を閉じる。ドラゴンの血が地に染みる音を、耳ではなく骨で聞く。聞きながら、彼女の背の翼が完全に開いた。虹がさらに広がる。朝の光が羽の縁で散り、花壇の花弁に小さな色の粒を落とす。


アレスは花壇の縁に視線を落とす。青藍華の花びらが一枚、風に撫でられて持ち上がる。境界のところまで行き、見えない何かに触れて止まり、やがて内側へと戻ってきた。戻るべき場所へ戻るということ。場所があるということ。


彼はほんの少しだけ口角を上げた。笑い慣れない筋肉が、ぎこちなく動く感覚が自分でもおかしい。けれど、その違和感は悪くない。


「アレス様」


エララが小さく呼ぶ。声は濡れているが、揺れない。


「何だ」


「この場所に、名前は要るの」


「必要なら、つける」


短く、それだけ。彼女は視線を落とし、笑って頷く。彼の答えに、もう少し言葉が欲しいのだろうが、それ以上求めない。欲望を飲んで、代わりに手を握る。握った手が冷える。彼女の手のひらから、薄い氷の気配が滲む。それでも、彼は手を離さない。


「手が冷たい」


「嬉しいと、こうなるの。悪い癖」


「直せ」


「うん。努力する」


約束の形を取る言葉。すぐに守れる約束ではない。それでも、言葉にしておく。


「王国は動く」


アレスは空を見ながら言った。宰相の指の油の匂いが、いまだ耳の裏に張り付く。紙が擦れる音の後ろに、硬貨が積まれる音がある。遠い場所の気配が、結界の縁にわずかに触れる。


「来るなら、迎える」


エララの声は明るい。明るいが、その裏に冷たい鉤がある。彼女の背の翼が一度、大きく息をし、すぐに畳まれる。飛ぶのはその時だと知っている。今はここにいるのが正しい。


「何も恐れるな」


「恐れなんて、とうに忘れたの」


それに、彼女は笑う。小さく鼻を鳴らす。笑い声が花の香りに混じる。


「それより、アレス様の目の下の影がね。気になるの」


「寝れば消える」


「なら、すぐに。わたしが風をしておくの。外で何が揺れても、ここには届かないように」


「任せる」


二人の間に短い沈黙が落ちる。沈黙は居心地が悪くない。むしろ、朝露の落ちる音や、遠くの水が小さく跳ねる音がよく聞こえる。光が花弁の縁で折れ、小さな虹の欠片がまた生まれる。


「アレス」


突然、彼は自分の名前を自分で呼んだ。声に出す必要は本当はない。けれど、声に出したかった。箱庭に向けて、確認する。


「……これで、ここは守られる」


「うん」


エララが頷く。それ以外に何も言わない。言葉を重ねないのが、今は正しいとわかっているからだ。


彼らの足元で、土がようやく落ち着いた。金色の血の筋はもう見えない。吸い込まれ、混じり、土の香りに別の縁が加わった。鉄の酸味は消え、湿りをまとった木の皮の匂いと、深いところで発酵する甘い匂いが立つ。鼻腔がその香りを受け入れ、身体に深く染み込ませる。


花壇の向こう、木漏れ日の中で、小さな虫が羽を振動させた。音は細いが、はっきり届く。遠くの木の幹の皮が温度差で音を立てる。誰かの靴音はない。境界の向こうでは、風が別の法則で揺れている。


アレスは花壇の端に片手を置いた。土の冷たさが手のひらに吸い付く。左手の指先に残った金色の微かなぬめりを親指で拭い、顔に持っていき、その匂いをもう一度覚える。覚えることは、彼にとって行為の一つだ。匂い、温度、角度、音。小さな差異が、自分の場所を固める。


エララが立ち上がり、裾を払う。血で濡れた布地は、彼女の魔力で既に乾いている。乾いた布は少し硬い。その硬さに彼女の指が一度引っかかり、彼女はそれを笑ってごまかした。


「見苦しいところ、見せたかも」


「さっき整えると約しただろう」


「うん。だから、次は涼しい顔でいるね」


涼しいと言いながら、彼女の笑顔は少し熱い。その熱が空気を歪め始めたところで、彼女はふと、肩を落とすように息を吐いて抑えた。小さな氷の粒がぱらぱらと地に落ちて、すぐに消える。


「ねえ、アレス様。次の配置、わたしにも見せて」


「見せるまでもない。お前は感じる」


「感じているの。だから、言葉が欲しいだけ」


彼は一度だけ目を閉じ、言葉を探す。言葉は多くない。それでも、少しだけ。


「次は北へ、樹々を厚くする。風の道は一本だけ残す。池の脇に石を三つ、段差を作る。そこに新しい水を落とす。匂いが変わる」


「うん。いい匂いになるのがわかる。石は大きいのと、中ぐらいのと、小さいの」


「中と小でいい」


「わかった」


彼女が嬉しそうに頷く。頷きは子どものようにも見えるし、老いた竜が頷くようにも見える。どちらも彼女だ。


花壇の中で、月光蘭が小さく震える。音は澄む。一粒の音が、朝の空気を磨く。磨かれた空気が、指先をすべる。


アレスは息を一つ吐き、手を背に組んだ。視線は遠く、しかし箱庭から外れない。朝露がまだ降り落ちる前の一瞬が、ようやく、正面からこちらに向き直った。


朝露が、青藍華の花弁の上で星のように輝く。


設計された空間の、新しい一日が、始まろうとしている。

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