第3巻 第4章 大結界の秘密(3)
死の森の中央、外界のざらついた気配を遮る結界の内側に、澄み切った青が広がる。陽は高く、光の筋が水晶の噴水に触れるたび、七色の薄膜がふわりと生まれては消える。風はやわらかく、花壇の月光花から立つ香りをそっと拾い、肌を撫でた。葉の裏をくぐる気流が蝶の羽を持ち上げ、きらめく軌道を描く。音は少ない。滴の落ちる音、剪定鋏の歯が軽く触れ合う乾いた響き。湿り気のある石畳に素肌を近づけると、ひんやりとした温度差がわかる。
「……ここ、一本」
白亜の石畳に影が二つ。片膝をつくアレスがピンセットで細い雑草を摘み取り、空になった掌で影の形を確かめる。光の角度と影の輪郭。縁のにじみ具合まで計算に入れる癖が抜けない。
「次は剪定鋏、それとも霊水かしら」
鈴を転がすような声が間近に届く。銀の髪を後ろで結った竜姫エララが、豪奢な木箱を抱えて立つ。ひと呼吸ぶん離れた位置。邪魔にならず、必要な時には指先が届く距離。
「霊水を。三滴でいい。星屑草の根が夜に入った時、光量が月光花と比べてコンマ二パーセントほど沈む。そこだけ薄く感じると、全体の余韻が崩れる」
「三滴ですね。……はい」
ガラス瓶の口にスポイトを差し、透明な液を吸い上げる。手渡しの瞬間、白い指先がアレスの皮膚に触れた。エララは息を飲み、微かに笑う。胸で何かが跳ねた音を隠すため、視線を霊水に落とす。指先の温度が離れがたい。
「助かる」
アレスは星屑草の根元へ、一定の間隔で滴を落とした。一滴、二滴、三滴。土が吸い、葉脈に淡い光が走る。昼の光に紛れるほど控えめな輝きだが、夜になると違いが出る。小さな仕事の積み重ねが、眺め全体の質を決める。
「あなたの手は、いつ見ても迷いがありませんね」
「ここは私の領域だから。内側にあるものは、すべて目が届く範囲で整えたい。乱れがあるなら、先に触れておくべきだ」
「その言葉、とても好き。……外はざらついた匂いがしますものね。ここは澄んだままでいてほしい」
「外は外、ここはここだ。私の好む形で残す」
エララは微笑み、アレスの横顔を見上げる。鼻梁の影、薄く汗を浮かべた額、風に揺れる前髪。呼吸に合わせて胸もとが上下し、そのたびにシャツの布が小さく鳴る。ほんの触れた指先に残る熱が、じわりと溶けて広がる。
「ねえ、さっきから蝶が同じ軌道を描いている。……誘導?」
「風の流れを少しだけ導いた。動線が重なる箇所に光が落ちるように」
「ふふ。あなたの手の中で、空まで道ができるのね」
「大げさだよ。庭に来るものはすべて客だ。客に座る席を用意するのは主人の仕事だろう」
「だったら私は、いちばん近い席に座っていたい。……いえ、立ってお手伝いするのがいちばんいいかもしれない」
冗談めかして笑い、エララは木箱から別の道具を取り出した。磨かれた金属の冷たさが、掌の熱を少しだけ奪う。
「霊水、落とし方はこれで十分?」
「完璧だ。君が持ってくる道具も、置き方も、予想がつく。ありがたい」
「役に立てるのが嬉しいだけ。ねえ、今夜はどんな夜になる?」
「……『星降る夜の幻想曲』。噴水の天頂で光が一度だけ止まる。そこから広がる虹が、月光花の輪郭を薄くなぞる。星屑草の光点は直線でなく、ゆるく曲げてある。見る人の呼吸が整う」
「聞いただけで胸が静まる。見届けさせてくださいね」
エララの笑顔は柔らかい。だがその裏側で、胸の奥に沈む濃い影がゆっくり転がる。砂時計を握りつぶすような衝動。彼の視界の中心に、自分だけを入れてほしいという欲望。庭も、光も、風も、すべて彼の眼差しから遠ざけて、自分だけを映してほしい。
(ここを丸ごと抱えてしまえたら。腕の輪で囲って、鍵をかけて。そうすれば、誰にも触れさせないで済むのに)
指先が空を掻いた。自制を戻すように、息を吐く。アレスの好きな景色を乱したくない。ここを血の色で染めることなど論外。彼に悲しい顔をされるくらいなら、心の底での渇きを百回噛み殺すほうがいい。
時間が跳ね、陰が短くなった。太陽が中天を通り過ぎる頃、アレスは腰に手を当て、ひとつ息を落とす。
「……よし。今夜は十分に期待できる」
「お疲れさま。冷たいお茶、淹れてある。東屋に行こう。額、拭かせて」
白藤の蔓が絡まる東屋へ移動する。木陰の温度は低く、肌の上で汗が一気に引く。エララは純白の絹のハンカチを取り出し、背伸びしてアレスの額に触れた。布が汗を飲む音がわずかにする。彼は視線を逸らし、照れた笑みを浮かべる。
「ありがとう。君がいると、作業が早い。気が配られているから」
「言葉よりも、役に立てる場をいただけていることのほうが嬉しい。はい、お茶。ミントを少し強めに」
アレスは一口含み、喉を通る涼しさに目を眇める。香りが鼻腔を抜け、緊張がほどける。椅子に背を預け、瞼を落とす。
「五分だけ目を閉じる。風がちょうどいい」
「どうぞ。ここは私が護る。音も風も、あなたの邪魔をしないよう整える」
エララは椅子の背後に回り、空気を撫でる。葉擦れの音が遠のき、東屋の内側だけが小さな別天地になった。アレスの呼吸はゆっくり規則正しくなり、唇がわずかに開く。
「……アレス」
彼の名を呼ぶ声が自分のものとは思えないほど小さい。伸ばした指が頬に触れる。体温が指先から腕へ移る。黄金の瞳の奥に、掬った水のような光が揺れる。
「あなたを丸ごと抱いていられたら。血も、肉も、息も、ぜんぶ混ぜ合わせて。私の中に沈ませて」
囁きは甘やかだが、息の根に熱い芯がある。赤い果実に噛みつく前の舌の位置を確かめるように、視線が唇に落ちる。首筋に顔を寄せれば、脈が皮膚のすぐ下で打っているのがわかる。牙を立てる想像が、喉を焦がす。
顔を寄せたその瞬間――
ピリ、と空気が裂けた。
静けさの膜の向こう側で、遠く細い棘が擦れる音。死の森の外縁に近い場所。結界の表皮に、異質な魔力が触れて形を測ろうとする気配。糸先が針で探るような不躾さ。
エララの目から温度が抜け、黄金の色が硬質に変わる。白藤の葉がふるえ、蔓がきしむ。空気が収縮し、東屋の中の温度がひと息ぶん下がった。
(……汚い手。眠りを乱す気配は、壊す)
アレスの寝顔へ視線を戻し、口もとだけを緩める。指先で髪の先を整え、囁きの音量をさらに落とす。
「少し行ってくる。すぐ戻る。良い夢の続き、見ていて」
椅子の陰が揺れ、エララの姿が薄くなる。空間の継ぎ目を軽く踏み、音を残さず跳ぶ。風さえ、彼の眠りを揺らさない。
死の森の境界。濃い木陰の切れ目に、黒装束の男たちが膝をついていた。息をひそめ、目は森の奥へ向いている。王国の暗部から放たれた密偵。最近この森の内側から異常な魔力が立ちのぼると聞き、構造を探るために来た。
「おい……見えるか。奥が妙に明るい。空気の重さまで違う」
「報告にあった通りだ。森全体の質感が変わっている。術式の規模が桁外れ……誰が張った。宮廷魔術師長でも無理だぞ」
「上からは構造の解析を命じられている。どうにか糸口を掴め。中に何か隠れていれば、褒美は固い」
欲の匂いが混じった笑いが漏れ、彼らは結界の表面へ向けて探査の術を伸ばした。その瞬間――
「その手、触れないで」
氷に触れたような声が、頭上から落ちる。男たちは首を跳ね上げ、空を見た。
月光の色を背に、黒髪の少女が浮いていた。可憐な顔立ちに似合わない黒い瞳孔の収縮。背に広がる巨大な翼。頭頂の角が、雲を刺す。圧は言葉の外側で皮膚に貼りつき、喉が勝手に細くなる。木々が軋み、葉裏の小さな虫たちが一斉に静まる。
「な、何者だ。竜人か……?」
「名乗る時間、要る?」
エララは右手を少しだけ持ち上げた。空気の層が圧縮され、無数の薄い刃となる。光を反射して見えるほど薄い刃。配置は狭間を縫うように散らし、逃げ道を塞ぐ。
「全員構えろ! 前衛、盾! 後衛、拘束魔法を!」
リーダー格の男が叫ぶ。仲間は武器を構え、詠唱を口の中で転がし始める。遅い。エララの視界では、彼らの動きは泥の中。
「目障り」
ただ一言。次の瞬間、真空の刃が嵐になった。空間の縫い目が切り取られ、音が追いかけてくる。男たちの叫びは途中で切れた。結界の外側の土が赤く染まり、葉に飛沫がつく間も与えない速度。彼らの防御は、紙の厚み。
静寂が戻る。風が一度だけ方向を変え、すぐに元に戻る。エララは視線を落とし、冷ややかに現場を一瞥する。胸の内側に針のような痛みはない。あるのは、邪魔な音が片付いたという事実だけ。
「……匂い。入れたくない」
指を弾く。白銀の炎が広がり、血も肉も装備も、色を残さず無へ返す。熱は短く、残滓は風に混ざって散った。痕跡を消し、空気の層を入れ替える。風向きを調整し、庭へ向かう流路から厄介な匂いを外した。
翼と角を引っ込め、呼吸を整える。口もとに微笑みを作り、空間を一歩またぐ。東屋の近くへ薄く現れる。白藤の陰に涼やかな空気が戻っている。
アレスはまだ眠っている。頬に落ちる影の形が先ほどと同じなのを見て、エララは胸に温かいものを抱いた。椅子へ戻り、何事もなかったかのようにそっと座る。指についた熱を確かめるように、彼の頬にふれる。指先は柔らかく、微かな汗を吸ったばかりの絹の香りが残る。
日は少し傾きはじめ、影が伸びる。高く澄んだ空の色がゆっくり深まってゆく。今夜、この庭はまた別の顔を見せる。二人は肩を並べ、次の作業へと歩を進めた。エララの足取りは軽い。心は、アレスという名の灯に満ちている。
五分前と同じ静けさ。同じ光。同じ風の角度。
何も変わっていない。彼の世界は、一度も乱れていない。
エララは膝の上で指を組み、目を閉じた。唇の端に、血の味がまだ残っている。




