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第3巻 第3章 人間の王国からの使者(2)

午後の光は薄絹のように斜めに差し込み、アステリアの臨時宮邸の白壁を撫でる。風は今日、海からではなく内陸の森から吹いてくる。草と苔の冷たい湿りに混じって、かすかに金属を擦るような乾いた鋭さ——それは結界の呼吸だ。リーゼロッテは窓の格子に指先を触れ、感覚だけを外界へ伸ばした。


 遠く、死の森を覆う「星降る領域」のきらめきは、昼でも見える。微細な星砂の粒が空気に溶け、目には見えない流れが光の角度をわずかに変える。それらはアレスの手になる結界が生きている徴だった。


 卓上には三通の書簡が横たわっている。真紅の封蝋に金の紋章が押された二通は王都からの官信。三通目は、朱に黒を混ぜた奇妙な色の封蝋が用いられており、印の刻みが浅い。見慣れた王家の双頭鷲ではなく、古い呪符のような交差模様。王女は、それに触れずにいる。指の温さが封の隙から漏れる気配まで想像できるのに、手は動かない。動かせば、見てはいけないものの輪郭がはっきりしてしまう。その予感だけが身体を固くする。


 扉を叩く控えめな音。王女は視線だけで許しを与えた。入ってきたのは侍女長のミラ。銀線を織り込んだ黒髪をきちんと結い上げ、指先に紙の粉を残している。伝令の回る日は、彼女の指はいつも白くなった。


「王女様。海路の伝書はこれで最後でございます。陸路のものは夕暮れまでには届くかと」


「ありがとう、ミラ。……それを、そこに」


 王女はすでに封を切った二通の書簡の上に、ミラが持ってきた小ぶりの木箱を置かせた。砂と塩気の匂い。海の匂い。


「顔色が優れません、殿下」


「海風のせい……と言いたいところだけれど、ここに吹いてくるのは森の呼吸ね」


 自分の声が、思った以上に乾いている。湿りを含んだ情けや迷いが、熱だけを残して蒸発したかのような感じがした。


「あの方から……アレス様からは、何か」


 ミラの問は、祈りに近かった。その名を口にするだけで、この臨時宮邸に張られた見えない網が、わずかに軋む。王都の耳がこの遠い辺境まで伸びてきている。王女は視線だけでミラを制した。


「彼からの直接の文はないわ。彼は言葉を飾らない人でしょう? 飾らない人は、書き残すことを好まない」


「あの領域は、殿下にとって——」


「よして。誰のためでもないの、あれは。彼のためで——それが、いちばん正しい」


 自分の口から出た言葉があまりに早く、鋭かったので、王女は自分自身に驚いた。ミラはほんのわずかにまぶたを引き、沈黙する。王女は、こんなふうに苛立ちを見せるのは珍しいのだと自覚し、息を整えた。筆返しに触れ、インク壺の蓋を開ける。濃い黒が、画布のようにある。


---


 最初の官信は、形式にのっとった丁寧な要請だった。王都近衛第二隊が近々アステリアに入る。辺境安寧視察の名目で、治安の移譲準備を行う。王女は地方豪族や商人ギルドを招集し、視察団を迎える体制を整えるように——


 尚書の文だ。筆の運びの癖まで目に浮かぶ。命令ではない。要請の語調で柔らかく、しかし拒む余地のない構文。次の文は、王弟派の宰相が自ら書いたもの。簡潔で、言葉が少ない。王女の身の安全を第一に考え、宮邸の警備を強化せよ。必要であれば、現地の結界師の協力を仰げ——


 そこで言葉が引っかかった。現地の結界師。彼の名は出さず、彼の技だけを指す。協力を仰げとは、つまり協力を使えということだ。使うためには、手綱がいる。彼を使う? 王女は腹の底が不快に波立つのを感じた。


「黒い封蝋の文は、見たのですか」


 ミラの視線が、まだ手つかずの第三の書簡に吸い寄せられている。王女は答えずに、封蝋を見つめた。


 黒朱の封蝋は、特別な手紙にだけ使われる。王都の公的な記録に残らない、しかし意思だけは鋭く残る種類の命令。受け取った者の胸の内にのみ証拠が残り、その胸が裂かれ言葉が出たときにだけ名が残る——それは毒でもあり、楔でもある。


「ミラ。外の廊に誰もいない?」


「はい。私の耳に入る足音は、いまはありません」


 王女は立ち上がり、窓を半ば閉めた。光が少しだけ薄くなり、部屋の空気の輪郭がくっきりする。卓上の黒朱の封蝋に、ようやく指が伸びた。蝋の表面は期待を裏切って温かくも冷たくもない、ただの固さだった。指の腹に刻印の凹凸が触れ、彼女は爪でその縁を持ち上げる。蝋が、泣いたように割れた。


 紙は薄い。香がわずかに焚きしめられている。王都の側仕えが送る香だ。読み始めた瞬間、彼女の視界は紙の白から剥がれ、遠い宮廷の廊に連れていかれたようだった。石床に光が流れ、青いタペストリーが冷たい。


 殿下——そこから先の文は、礼節を極端に削った直截だった。アステリアにおける御身の所在は王国の正統性の象徴であり、その御名をもって「不具の結界師」およびその協力者に対する拘束令を発する用意を進めよ、と。王都は、アレスの結界を王国の管理下に置く。理由は、王国の航路の安全と資源の確保のため——結界が放つ星砂は海図にない潮を呼び、外洋船の針を狂わせる恐れがある。また、星砂の採取について無秩序な私掠を防ぐためにも国王の名による規制が必要だ——


 天文の学者が書いたのかと思うほど整った理屈だった。読みやすい。読みやすいほど、冷たい。さらに先を目で追い、胃のあたりが甘く痺れるような感触。拘束令の執行役として、王都から秘密裏に「監察使」が派遣される。監察使は王女の名を借り、その名の背に力を借り、実行の正当性を完成させるだろう。王女に求められているのは、同意の印のみ。反対は許されない。黙殺も許されない。印を押す手は彼女のものだが、その手の筋を動かす糸は、王都の黒い部屋に繋がっている。


 王女は思わず椅子の背をつかんだ。木の硬さが背を押し戻し、身体がかえって前に出た。紙の上の字が跳躍する。脳裏に浮かぶのは、アレスの顔ではない。彼が張る結界の縁が、砂の上に書いた円のように——誰かが靴先で無造作に踏みつけて壊す、そんな光景だ。


 そしてすぐに、別の顔が浮かぶ。


 銀に光る瞳。竜の血のうちに煌めく、あの光。エララ。彼女はアレスに近づく者を排除する。美を愛し、その美に触れようとする指先を容赦なく切り落とす。その彼女の爪が、王都の書簡の端にすら触れていないことが、奇妙に王女を安堵させ、同時に恐怖させた。


「殿下……?」


「これは、私への命ではなく、私の名を餌にした罠よ」


 声が、自分のものとは思えないほど落ち着いている。ミラは一歩、近づいた。


「どうなさるのですか」


「どうしようもない……そう言ってしまえば楽でしょう。でも、楽にはしないわ」


 王女は封を切った三通の書簡を丁寧に重ね、再び窓へ歩いた。半ば閉じた格子の隙から、星砂の光が淡く漏れてくる。まだ陽は落ちきってはいない。夕刻の前の、もっとも影が長い時刻。その影の上に、薄い星の欠片が落ちている。


 結界は息をしている。王都の陰謀はそれに触れようとしている。触れた瞬間、どちらが壊れるのだろう。王女は自問した。この薄さを、誰がいちばんよく分かっているか。おそらく、アレスだ。そして、エララだ。二人は同じ風の匂いを嗅いでいる。美と破壊の匂い。その風に、王都の煙を混ぜるのは愚かだ。


---


 扉がふたたび叩かれる。今回は調律された、規範の音。ミラが目で問う。王女は微笑の形だけ作り、頷いた。入ってきたのは、王都から派遣された文官——いや、昨日までの肩書きでは文官であった者だった。衣は灰色、生地は質素だが仕立は良い。痩せた顔に笑みの影を固定し、目の奥は濡れていない。


「殿下。お邪魔いたします。王都の御前からの補足の口達でございます」


「長旅、ご苦労さま」


 王女は椅子に戻り、招きの手で彼を座らせた。文官は座らない。立ったまま、言葉を整える。


「王都のご懸念はひとえに、殿下の御身の安寧に尽きます。現下、アステリア周辺には不穏な流言がございます。結界の出す光が、魂を惑わせる、と。ゆえに敬虔な民は距離を取り、敬虔ならざる者は、その星砂を集めて邪を富とする」


「邪を富とする者は、いつの世にもいるでしょう」


「はい。しかし、そこに境が必要です」


「境なら目の前にあるわ」


 王女の視線は窓の外に向かった。文官は視線を追いかけ、わずかに目を眇めた。結界の光に目が慣れていないのだ。慣れてしまうと、あの光は呼吸のように感じられる。吸う息と吐く息。だが慣れない者には、あれはただの眩しさ——目に刺さる針のようにしか感じられない。


「境とは、目に見えるものではなく——」


「境とは、人が線を引くという意思よ」


 文官は口を閉じ、皮肉にも敬意と見える一礼をした。場の空気がわずかに冷えた。


「殿下。王都より、監察使が——」


「来るのでしょう。遠路をねぎらう布団を用意しなければ」


「監察使は人混みを嫌います。彼は……目が利く。人を避けるのです」


 彼が、の主語の輪郭が曖昧だ。王女はその曖昧さが故意であることを見抜いた。監察使は、公には存在しない職。彼は「見ない者」として存在する。それでも彼は見る。見すぎる者は、見たものに飲まれる。王女の肌の上を、細い冷たい蟻が這う。


「王女殿下のお名前を借りて、現地の人心の安定を図るのが私の務めにございます。どうか、殿下の大いなるお心を——」


「わたくしの心は小さくて、整えることしかできないの」


 言い終えると、自分の言葉が急に幼く聞こえ、後悔した。しかしそれは彼への言葉ではなく、自分自身へ向けた告白だった。王女は短くため息をつき、話を切り替えた。


「港の倉庫は、土地の名士たちに預けてあるわね。視察団のために整えるのは、そこまで。兵の宿営地を市壁の外に設けて。中は——祭の準備をするのよ」


「祭、でございますか?」


「この地の守りに、感謝を」


 文官の眼差しに、瞬間、薄い裂け目が走った。彼はそれをすぐに縫い合わせ、苦笑のような表情を作る。


「殿下は、お優しい」


「優しさと、踊りと、歌。それで混乱を鎮められるなら、安いものだと思わない?」


 文官は何かを呑み込み、頭を下げた。退出の礼もそこそこに、足音だけを残して去っていく。扉の閉まる音が、大きく響いた。


 ミラが、息を吐きながら近づいた。


「祭を?」


「時間が必要なの。港に、兵を一晩立ち止まらせるだけの時間。踊り手の足が疲れ、酒樽が空になり、星が二度、二度だけ頭上を過ぎるまでの時間——その間に、私は手紙を出す。二通」


「二通?」


「ひとつは、王都に。『了解した』と。もうひとつは——」


 王女は窓に向かって起立したまま、言葉を切った。名を呼ぶことは、呪に触れるのと同じだ。アレス。彼に直接は送れない。彼は、そういう網から自分を外すことに熟練している。ならば、彼の耳に入る別の風に乗せる必要がある。王女は、思いのほか静かに、自分の心が整っていくのを感じた。


「この庭の縁に住む老猟師がいる。夜に笛を吹く人。彼の耳に入れば、風はすぐに森に潜る」


「殿下、それは……危険すぎます」


「危険なのは、私の名よ。私の名が届く先は、いつだって危うい」


 ミラは黙った。彼女の沈黙は、いつも正直だ。反対すべきところで口をつぐむのは、主の背中に決意の骨が見えてしまったときだ。王女は微笑んだ。


「すべてを守ることはできない。それを理解しているのは、アレスだけだと思う。彼は美を完全にするために削る。捨てるとき、彼はためらわない。だから、彼の領地は傷だらけにならない。私の世界は、裂け目だらけよ。縫い合わせることのほうが多い。笑ってしまうわね」


「殿下……」


「笑ってるつもりよ」


 喉の奥で、笑いと小さな嗚咽が交じった。王女は首を振り、卓上の黒朱の封蝋の文をもう一度見た。焼いてしまえば、煙はほどなく消える。灰は風に紛れる。だが王都の黒い部屋の眼は、それによって目をつぶることはない。むしろ、逸れた煙の行方を追ってくるだろう。


「ミラ。黒朱の文は——箱に入れて。鍵を二重にして。合言葉は、私が忘れるくらい古い歌にしよう」


「かしこまりました」


「それから……椿油を。髪を編み直したい」


 ミラは少し驚いた顔をして、すぐに頷いた。


---


 整えること。整えることが、王女の唯一の武器である。形を整え、崩れそうなものに手を添える。誰にも見えないところで端をきちんと折り、外に見える面を滑らかにする。戦場に出ない女の戦い方。宮廷はそれを卑しいと笑い、同時にそれに頼る。


 王女は自分の髪に指を入れ、ほどき、また結う。整えていく手の動きが、心拍をゆるめる。


 編み終えた髪は少し重くなり、その重さが頭を下げさせた。王女は椅子に座り、紙と筆を前に置く。まず、王都への文からだ。形式を守る。謹啓の字を美しく書く。筆を運ぶたびに、アステリアの街音が遠くに聞こえた。市場の呼声、鍛冶の槌、子供の笑い。そこに、骨に糸を通すように自分の名前を織り込んでいく。文官の耳が喜びそうな言い回しを選び、しかしその中に、わずかな空白を仕込む。空白は、そこに何かが入ることを予告する。何も書かないことで、何かがあることを知らせる。王女は、宮廷で見てきたすべての陰謀が、実はどれも空白の操り方に長けているだけだったことを思い出す。書かれたことではない。書かれていないものが、命を奪う。


 二通目の文は、心で書いた。老猟師の名を呼び、夜の笛の調べで合図を誘う。言葉は少なく、しかし風に乗る重さを持たせる工夫をする。昔、森の村で聞いた、子守唄の一節を混ぜる。迷い人のための歌。それに気づく耳は、森の側にしかない。王都の文官は、その旋律を知らない。


 筆先が紙から離れたとき、夜が近かった。窓の外、光の帯は鋭くなり、封じの内側は自らの存在を主張する。エララの名を、脳裏でふたたび誰かが囁く。彼女の炎は、嘘には燃えない。真実を乾かし、残すだけだ。王女は、その炎の前に自分の名前を掲げたらどうなるだろうと想像し、寒気を覚えた。


「殿下」


 ミラの声が扉の外からした。王女は顔を上げる。


「港からの信号旗です。王都の小型船が二隻、沖に。旗は……紺地に白の斜線。監察使の印にございます」


 時間は少ない。王女は頷き、書簡の封を蝋で閉じた。印を押す指先が、微かに震える。その震えを見たのは、自分だけだ。ミラにも、壁にも、星にも、誰にも見せない震え。


「祭の用意を急いで。港には音楽を。踊り手は街の若者たちを。酒は軽いものを。顔と名前が残らないように」


「はい」


「それから、あの老猟師の孫に、月の模様の帯を持っていって。夜の笛を忘れるな、っていう意味ね。彼にはそれが通じる」


「承知いたしました」


 ミラが去ったあと、王女は窓の前に立ちつくした。光の帯が、胸の中央に横切る。呼吸が浅くなっている。彼女は胸の内側に掌を当てた。鼓動は、思ったよりも穏やかだった。恐怖はいない。いるのは、冷たい怒りと、焦げるような焦燥と、奇妙な静けさだ。静けさは、アステリアの森の光に似ている。吸う、吐く、その間。王女は目を閉じ、その間に居続けようとした。


 背中の方で、小椅子の脚が床を擦る音がした。誰もいないはずなのに。振り向くと、そこには、薄青の羽根が一枚落ちていた。窓から入り込んだのだろうか。王都の伝書鳥は暗い色をしている。これは違う。森の鳥か。彼女はそれを拾い上げ、机の隅に置いた。軽い。羽根が風に震え、今度は音もなく床に落ちた。


 このうえで何を護るか、何を捨てるか。王女はその問いを、誰に向けるでもなく、その場に置いた。答えは、時間によってしか、形にならない。王女は自分の選ぶ時間を、少しだけ延ばすために祭を選んだ。滑稽かもしれない。しかし、笑いながら護れるものがあるなら、それは強い。泣きながら護ったものは、脆い。


---


 夜が完全に降りる前、王女は外套を羽織った。ミラには告げない。階段を降り、裏庭へ。庭は、質素だが手入れが行き届いている。草は短く、石は角が丸い。庭の端から、小路が市壁の外へ続いている。誰にも見られないように、彼女は小路をたどった。壁に開いた小さな門をくぐり、川沿いの道に出る。そこから見える彼の世界は、近い。星砂の細かな輝きが、まつげの先で爆ぜるようにきらめく。


 川を渡ると、老猟師の小屋がある。灯りはない。すると笛の音が、遠くで、一度、二度。彼女は足を止め、その音を数えた。合図だ。自分の送った言葉が、風に乗って森へ入った。森は答えた。アレスに届くかは分からない。それでも、彼女は、それで十分だと思った。自分の役割は、整え、繋ぎ、時間を稼ぐこと。それ以上は——設計された空間の守り手に任せるべきだ。彼は削り、捨て、形にする。彼女は結ぶ。役目の違いが、今夜ほど鮮やかに思えたことはない。


 帰途、王女はふと足を止めた。思考のどこかで、別の線が浮かび上がる。エララ。彼女は、これをどう受け止めるだろう。彼女の視界には、王都の陰謀は醜悪な色で見えるに違いない。また、王女自身の存在も——必要ない色として、消すべきしみとして。王女は、自分の手の甲を見た。白い。薄い青い筋が透ける。血は、王家の血だ。不純なものを抱えながら、純粋を求める血。笑ってしまいそうだった。


「私を選ぶのは、やめて」


 星砂に向かって、声にならない声で告げた。何に言ったのか分からない。王都にか、アレスの閉じた楽園にか、エララにか、自分自身にか。ただ、その言葉だけが出た。選ばれたいという欲は、陰謀の餌になる。王女はそれを喉の奥で噛み砕き、呑み込んだ。


 宮邸に戻ると、遠く港の方角で打楽器の音が鳴り始めていた。祭の予告だ。人々は理由を求めない。ただ踊る。夜が来る。彼女は書簡の箱を再び確かめ、鍵をかけ、鍵を腰の紐に結んだ。自分の名を呪にされないために。自分の名を、自分の手の届くところにつないでおくために。


 窓の外、小さな王国の光が、静かに揺れた。王女は、その光に向かって、まだ押していない印章を握りしめた。彼女の指先の熱が、封蝋の冷たさを想像している。印を押す。押さない。どちらでもなく、その間にある時間。彼女は、その間に立った。


 遠くで、また笛の音がした。今度は、森の奥から短く、鋭く。返答。王女は、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。彼女はまだ王女である。王女として、王女でないものを守ることができるか。王都の陰謀が、この庭の光を乱す前に。彼女の葛藤は、答えではなく、姿勢を選ぶことに変わっていく。それが、彼女の戦いの形だった。暗い王都の部屋に、彼女の姿勢は届かないだろう。届かなくてよい。届きすぎるものは、火にくべられる。


 夜空の最初の星が、領地よりも遅れて輝いた。星々は、誰のものでもない。王国の領分を越え、彼の光幕の規矩を越え、彼女の名すら越えて、ただそこにある。王女はその無所属の光に手を伸ばし、届かないことを確かめ、それから手を下ろした。自分の届くものに、だけ、印を押す。彼女は、その決意を胸に、机の上の印章を握り直した。印の底に彫られた家の紋が、指の腹に冷たく押し返す。その冷たさは、まだ彼女の皮膚の一部ではない。だからこそ、彼女はそれを、生きたまま使うことができるだろう。印は血ではない。血は、いつか捨てるものだ。彼女は、家を裏切ることを思い、家を守ることを思い、同時に呼吸した。


 今夜、祭が始まる。明日、監察使が陸に上がる。王都は陰謀を運び入れ、防壁の内側は光を保つ。王女はその間にある。間にいる者が、最初に裂かれる。彼女はそれを知っていた。知ったうえで、足を動かした。座して待つことは、裂け目の増加の別名だ。歩くことは、裂け目に橋を架ける最初の一歩だと信じるしかない。


 銅の鐘が遠くで鳴った。アステリアの夜は、海の夜よりも早く深くなる。王女は目を閉じ、鐘の音の余韻に、もういちど、自分の名を心の内で呼んだ。王女。王女であることの意味。その響きが、いつにも増して空虚で、そして重かった。彼女はその空虚さの中に、自分の選んだ蹠を押しつけて、立った。涙は出ない。出す暇がない。出せば、どこかで蝋が柔らかくなり、印が歪む。歪んだ印は、もう二度と使えない。


 窓の外の光が、風にかすかに揺れ、部屋に星屑の影が漂った。王女はその影を掴むふりをして、手を開いた。手のひらには何もない。それでよい。何もないから、置ける。彼女はそこで、天秤を一度だけ水平に保った。時間を買い、間を繋ぎ、名を貸さない。その上で、彼女は、紙に、短く、力強く印を落とした。印の音は、誰にも聞こえないほど小さかったが、彼女には、地鳴りのように響いた。


「あなたの邪魔をする者は、私が全部燃やすわ」

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