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第3巻 第2章 ざまぁと断絶(5)

「……報告は、以上で間違いないのだな」


ひと声で、石造りの広間に積もった沈黙が崩れた。


重い扉は外の光を拒み、天井のシャンデリアが冷たい輝きを撒くばかり。壁の隅に溜まる影は払われず、石と蝋の匂いが鼻腔を刺す。ここは王城の最奥——グランデリア王国の最高意思決定機関、円卓の間。色褪せた巨大なタペストリーに、剥がれかけた栄光が薄い膜となって張り付いている。


上座の玉座に、ハインリヒ・フォン・グランデリア王。五十半ば、深い皺の奥に覗く眼光は刃物のような冴え。王衣の硬い布が擦れ合う音がわずかに響き、傍らの王笏は冷たい金属の光で室内の温度を一段下げる。


「は、はい。相違ございません、陛下」


末席で頭を垂れた情報長官が、重ねた羊皮紙を両手で支え、滲む汗を布で拭う。数ヶ月に及ぶ潜伏の末に集められた報告。紙の匂いに、失われた命の残滓は混ざらない。


円卓の中央には王国全土の立体地図。山脈の稜線が薄い影を落とし、河川は銀糸のように光を引く。北の果て、濃い緑の塊——死の森。王国の版図の外側で口を閉ざす禁域。その中心に、見慣れぬ半球の印が浮かぶ。


「信じがたい話だな」軍務大臣が言葉を失う。頬の白い傷が言葉を引き締め、驚愕と畏怖がその下で揺れる。「あの死の森の深部に、そこまで強固な結界が展開されているというのか。それも——一人の手で?」


「左様にございます」情報長官が続ける。「半球状の巨大な防壁です。外界の干渉を断ち、内部の環境を自在に制御する閉域。森の魔物が群れを成して押し寄せても、破られた記録は一度もございません。表面に触れたものは……塵に還ります。悲鳴も残さずに」


ざわめきが円卓を走る。


「結界を築いたのは、『アレス』と名乗る若い結界師です」情報長官の声がわずかに揺れる。「本人は内部を『非の打ちどころのない箱庭』と呼称し、その風景に並々ならぬ執着を示している模様。防御は、その眺めを守るための手段に過ぎないと」


「眺めを守るため?」軍務大臣が拳を円卓に落とす。短い衝撃。「戯言だ! そんな理由で規格外の防御を——」


「だが現に、あらゆる侵攻を阻んでいる」財務大臣が顎を撫でる。「あの技術を国境に展開できれば、東方帝国の圧力は——」


「国境の防衛線は薄氷。帝国の魔導兵器は重い。だが、あの結界が我らのものとなれば——」


「静まれ」


低く落ちた王の声音に、部屋の温度がもう一段下がる。ハインリヒがゆるりと立ち上がり、地図上の死の森に太い指を落とす。石の上に、重い音が二度、三度。


「そいつが何のために結界を張ろうと、我らには関係ない。重要なのは、その技が王国にとって極めて有益な兵器になる——ただそれだけだ」


冷えた言葉。情と呼べる温度はどこにもない。計算だけが骨組みになって立つ。


「陛下、つまり——」


「手に入れる。いかなる手段でも。あれを掌に置く以外に、王国の生き残る道はない」


ハインリヒの瞳の奥に別の地図が広がる。帝国を跪かせ、大陸の色を塗り替える夢想。


「ただ、陛下」情報長官が遠慮がちに口を挟む。「報告では、アレスの傍に竜の少女が常に付き従っているとのこと。その力は規格外で、彼に近づく者には容赦がないとも」


王は鼻で笑う。


「竜が一匹。王国騎士団は飾りか? 宮廷魔導師は玩具か? それに、相手は風景に心を砕く変人だ。交渉の余地はある。力づくでも構わん」


「直ちに精鋭を編成し、死の森へ使者を送ります」軍務大臣が頷く。「王国の庇護下に入るよう要求を。それが叶わなければ——」


「実力行使だ。術式の核でも術者本人でもいい。どちらかを必ず我らのもとへ」


「はっ!」


声が揃う。円卓を囲む面々の視線に、欲望が露骨に乗る。彼らの脳裏には、あの結界を中核に据えた無敵の要塞の図。アレス個人の意思は紙の余白にも載らない。彼が守る風景もまた、誰の眼にも映らない。


「……待っていろ、アレス。お前の磨き抜かれた防壁、王国が存分に使ってやる」


王の唇が歪む。石壁がその笑い声を拾い、鈍く反響した。


---


彼らは知らない。相手がただ腕の立つ結界師ではないことを。風景を乱す者は誰であれ、権力者であれ、大軍であれ、徹底して刈り取る——美へ帰依した狂信者。その傍らには、燻るような金の瞳を持ち、敵意の匂いだけで口角を上げる竜姫が立つ。


王国の思惑は、そのまま死の森を巻き込む炎へと形を変え、最終的に自分たちの喉笛に手をかけるはずだ。だが、目の前の利得に目が灼けた者たちに、未来の輪郭は見えない。


空気は重い。血がまだ流れぬうちから、舌の裏に金属の味。


---


王城の地下深く。極秘の実験場で、金属が冷える音と魔力のざらついた唸りが交差する。


「陛下、こちらが最新鋭の魔導兵器——『魔導砲』でございます」


軍務大臣が銀灰の巨体を示す。長く伸びた砲身の内部で、魔力の心臓が淡い鼓動を刻む。油の匂いが濃く、職人たちの目の下には影が落ちている。


「これが」王は近づき、掌に金属の冷たさを受ける。


「威力は従来の比ではありません。どんな結界も貫けるはずです」軍務大臣の声に確信が混じる。


「よろしい。量産に入れ。派遣部隊に配備しろ」


「畏まりました」


二人の唇が同じ方向に歪む。思惑という同じ記号の形に。


---


王都の酒場では、別の笑い声が泡に紛れる。


「おい、俺、死の森行きに選ばれたぜ」


「馬鹿言うな、あそこは化け物の巣だ」


「心配すんな、こっちには魔導砲があるんだ。相手は結界師一人だろ? 楽勝だ」


「はは、帰ってきたら一杯奢れよ」


木のテーブルにこぼれた酒が手の甲を濡らす。誰も知らない。緑の闇の奥で待つのが、兵の想像を越えた世界だと。


訓練場は砂埃と汗の匂いに満ちる。


「気合を入れろ! 行き先は死の森だ!」


レオンハルトの声が風より速く走り、兵士の背筋に鞭を落とす。剣を振るたびに筋肉が軋み、何人かが膝をつく。


「今日の訓練はここまで」


号令ひとつで、どっと地面に身体が落ちた。胸が上下し、砂を吸い込んでむせる者もいる。


「レオンハルト様、士気は高く保たれています」副官が報告すると、剣聖が短く頷く。


「良い。どんな敵でも斬り伏せる」


彼の剣は数え切れぬ修羅場で黒光りを覚えた。だが彼はまだ知らない。刃が届かぬもの、斬るという概念が無意味化する壁が世にはあることを。自信は支えであると同時に、目隠しにもなる。


---


死の森の外縁。王国の密偵たちは落ち葉の軋む音さえ呑み込み、息を浅く刻む。


「隊長、結界表面に魔力の微細な揺らぎを捉えました」


「解析しろ」


魔導具が青い光を漏らしはじめる。森は静か。小鳥も虫も、境界では声を引っ込める。


「揺らぎは内部の供給線に繋がっている可能性があります。規則は一定」


「よくやった。本国へ送信を——」


最後まで言えずに口が止まった。


空間が撓む。音が、その場の中心から剥がれて消える。彼らの位置が世界から切り取られ、靴、指、表情が、記録の欄から削除される。罠。誘導のための細波。誰かの指が湖面に一筋を描き、そこに集まる目を待っていた——そんな構図。


それでも報告は走った。途切れる直前、最初の解析だけが本国へ滑り込む。王都の机上に「弱点」の二文字が届く。背中を、誤った方向へ押す力。


---


円卓の間に戻れば、空気は相変わらず重い。


「陛下、帝国の動きが活発化しております。国境での小競り合いも増加。全面戦の可能性も高まっています」外務大臣が眉を寄せる。


「だからこそ急がねばならぬ」王の返答は刃。


「しかし、派遣部隊の準備と魔導砲の量産が——」


「急かせ。方法は問わん」


怒声が落ち、返事が一音に縮む。「はっ」


「派遣部隊の指揮官は誰に」軍務大臣が問う。


「剣聖レオンハルトだ」


王の即答に、幾つかの顔に安堵が走る。「彼ならば」「必ずや」「勝利は確実」——称賛に似た祈りが、かえって危うさを孕む。


ハインリヒは、目的のために犠牲を秤にかける時、針がどちらへ傾くかを迷わない。秤皿に人命が載っていても、数字の列にしか見えないのかもしれない。


次々に署名がされ、封蝋が押され、伝令が走る。派遣部隊の編成。魔導兵器の量産。結界の「弱点」を穿つこと。行き先は一つ。狙いも一つ。


大臣たちは利得の皮算用に余念がない。財務大臣は技術の売買で潤う未来を指折り数え、法務大臣は王都に防壁を展開して反体制派を封じ込める案で紙を埋める。外務大臣は結界を外交の札として振り回す図を脳裏に描き、胸を張る。彼らの言葉のどこにも、アレスという一人の名はなく、記号だけが踊る。


---


別の密偵隊が、先行隊の痕跡が唐突に途切れているのを知り、背中に薄い汗を流す。


「前隊はここで途切れています」


「罠の可能性が高い。だが、情報は要る」


隊長の声が低く沈む。魔導具を覗く瞳に、不安が鋭い針となって刺さる。森は彼らの鼓動だけを静かに拾う。


---


そして、死の森の深奥——防壁の内側。


音は柔らかく、光は澄む。風が葉を撫で、川の水脈が布のように折り重なる。足元には苔の緑が濃く、石は水を含んで艶やか。


「うむ。木々の配置も、川筋も——理想通りの姿だ」


アレスが立ち止まり、目を細める。手を伸ばすと、枝葉が指先を掠めた。柔らかく、冷たく、湿った感触。この世界の全ての角度が、彼の意図通りに整っている。


傍らに竜姫エララが寄る。


「今日も、言葉を失うほどの風景ですね」


彼女の声は小さく、満ち、温かい。


「君がそう言ってくれるなら、私の骨は軽くなる」


アレスが微かに笑む。エララは彼の腕に頬を寄せ、空気を嗅ぐ。水と土と、アレスの匂い。世界の形が、ふたりの会話で少しずつ整っていく。


「ねえ、アレス様」エララが空を見上げる。「あの星の下に、何か植えるつもりでしょう?」


「よく分かったな」アレスが掌で空を覆い、目を伏せる。「白い花を植えようと思っている。朝に開いて、夕に眠る花を」


「……素敵ね」


彼女の返事は柔らかい。


その時——遠くで、鉄が擦れる音がした気がした。


森は音を飲み、返さない。だが、空気の密度がほんの少し変わる。アレスの視線が南へ滑る。気配が一つ、また一つ、地平の向こうに生まれる。鼻腔に鋭い冷たさが走った。


「……来るか」


踵を返し、川筋の調整を終え、手を払う。封じの表面が、光の角度をわずかに変える。


エララの金の瞳が細くなる。口角が、ほんの少し上がる。微笑みと呼ぶには鋭すぎる弧。


「アレス様、お客様のようですね」


声は穏やか。だが、その指先から漏れた冷気が、足元の星苔を白く染めていく。


「ああ」アレスは振り返らずに答える。「迎える準備は、ずっと前からできている」


---


王国の列が森へ差し掛かった時、誰かの喉で唾が鳴る。砂が靴に入り、足首を擦る。旗が風に鳴り、馬の鼻息が白い。魔導砲の心臓が隊列の中で鼓動する。兵士の瞳は前だけを見るよう叩き込まれている。誰も振り返らない。誰も問わない。命令は空気と同じ。吸い込む。


誰もが信じたいものを信じる。王は兵器に、軍務大臣は秩序に、外務大臣は言葉に、財務大臣は数字に。酒場の兵士は仲間の笑い声に。レオンハルトは剣に。密偵は訓練に。エララはアレスに。アレスは光景そのものに。


それぞれの信が、やがて死の森の縁で出会う。擦れ合い、軋み、火が出る。火は風に煽られ、炎に変わる。その時、円卓の間で漂っていた血の匂いが現実のものに変わる。石壁は冷たく、反響は長い。


「……取りこぼすなよ」


王は誰に言ったのだろう。自分にか、世界にか。言葉は石に吸われ、形を失う。


夜更け、王は再び地下へ降りる。魔導砲の心臓が規則正しく音を立て、油の匂いが濃い。魔力の脈動が、王の胸の鼓動と重なる瞬間がある。その一致が彼の好物。世界が自分の鼓動に合わせて動き出した気がするからだ。


「アレス」王は名を呟く。「お前の行き届いた囲いを、壊してやる」


言葉は石に吸われる。返事はない。


返事は、石の裏側で育っている。


---


森の内側では、アレスが川の流れの角度を微調整する。朝と昼と夕の光の差し込み方を計算し、木陰の形を整え、花の開く時刻を揃える。視線は鋭く、同時に柔らかい。エララはその横顔を見つめ、彼の作る世界が世界そのものより優しいと本気で思う目を向ける。


光幕の表面は静か。触れた者だけが知る冷たさを抱えている。王国の兵士たちが対峙する時、最初に感じるのは風の音の無さかもしれない。次に、自らの呼吸が響きすぎること。最後に、歩み寄る間に溶けていく何か。名前が付く前に消えるもの。


王国の思惑は輪郭を持ち始める。同時に、それは己の喉を絞める縄でもある。縄は滑らかで、絞められる直前まで装飾のように見える。欲望は、眩い装飾を好む。


薄闇の円卓の間に戻る。大臣たちの唇は乾き、舌が時折覗く。紙の端を指で弾く音が小さく繰り返される。


「準備は?」


「進行中です」


「遅れは?」


「調整中にございます」


言葉が言葉の上に積まれ、塔になる。高い塔。基礎は見えない。


やがて、死の森を巻き込む巨大な戦いが始まる。炎が風景を舐め、血が土に吸われ、声が石に刻まれる。王国は自ら結んだ縄で喉を絞められ、足掻く。


だが、今はまだ、その縄の手触りが絹のように滑らかである時刻。指が、その滑らかさを愛でている時刻。


欲望は、いつだって絹に似せて姿を現す。

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