第3巻 第1章 落ちぶれた勇者(1)
三日が経った。
アレスは結界の西縁に立ち、苔の斜面を見下ろしていた。斜面は外界との境界に面している。境界の向こうは死の森の黒い幹。こちら側は、彼が十七ヶ月かけて育てた苔の絨毯。
「ここに、窓を作る」
声に出したのは、設計を確定するためだ。声にすれば、空気が形を覚える。空気が覚えれば、結界が応じる。結界が応じれば、あとは手を動かすだけでいい。
窓。
透明な壁。外から内が見える。内から外も見える。だが、音は通さない。匂いも通さない。風も通さない。触れることもできない。視線だけが、双方向に行き来する。
「素材は……」
彼は指先で空気を摘んだ。結界の膜を構成する粒子のうち、光を透過するものだけを選り分ける。粒子は彼の指に従い、薄い板状に並ぶ。並んだ粒子の隙間を、さらに細かい粒子で埋める。埋めた隙間の表面を、光の屈折率が均一になるまで磨く。
一枚の板ができた。掌ほどの大きさ。持ち上げると、向こう側の黒い森が歪みなく見える。
「歪みがない。いい」
だが、まだ足りない。この板を通して庭を見たとき、庭の色彩が正確に伝わらなければ意味がない。彼は板の表面に、色補正の層を一枚重ねた。苔の緑が、板を通しても板を通さなくても、同じ緑に見えるように。花の紅が、同じ紅に見えるように。
「色は合った。次は——」
「光の角度」
声。横から。エララが苔の上に寝そべっている。頬杖をつき、彼の作業を眺めている。裸足の指先が、苔の端を軽く蹴る。
「朝と夕方で光が変わるでしょう。窓の向きが固定なら、時間帯によって見え方が変わる」
「分かっている。だから、窓の角度を時間に応じて変える機構を入れる」
「面倒ね」
「面倒ではない。必要なことだ」
エララは目を細めた。彼の横顔を、猫が日向を眺めるように見ている。
「ねえ、アレス様」
「何だ」
「その窓、外の人間に見せるために作ってるの?」
アレスの手が止まった。板を持ったまま、エララを見下ろす。
「見せるため、とは」
「外の人間が覗いて、『きれい』って言うために。それが目的?」
アレスは板を苔の上に置いた。置いた板の縁が、苔の繊維と接する線を確認する。線は滑らかだ。段差がない。
「違う」
「じゃあ、何のため?」
「私の庭が、どの角度から見ても美しいことを、証明するためだ」
エララは瞬きをした。一度。二度。それから、ゆっくり笑った。
「……それ、誰に証明するの」
「誰にでもない。事実として、そうであることを確認する。窓は鏡だ。外から見た庭が、内から見た庭と同じ美しさを保っているなら、私の仕事に抜けがないということになる」
「つまり、窓は——あなた自身のための検査装置」
「そう言ってもいい」
エララは苔の上で寝返りを打った。黒い髪が扇のように広がり、苔の緑の上に夜の川が流れたように見える。
「王女は喜ぶかしら。『窓をください』って言ったのに、もらえたのは検査装置だなんて」
「彼女が何を喜ぶかは、私の設計の範囲外だ。窓は窓として機能する。外から見える。中には入れない。それが彼女の求めた条件だ」
「条件は満たしてる。でも、意図が違う」
「意図は伝える必要がない」
エララは笑い声を立てた。小さく、冷たく、だが本物の愉しさを含んだ笑い。
「あなたって、本当に——」
言葉を切り、彼女は立ち上がった。苔についた髪を払い、アレスの隣に立つ。彼の手元の板を覗き込む。板の向こうに、死の森の黒い幹が見える。歪みなく、正確に。
「わたしも、この窓から見ていい?」
「君は中にいる。窓の内側から外を見ることになる」
「それでいい。外がどれだけ醜いか、確認したいの」
「外は醜くない。外は、整えられていないだけだ」
エララは首を傾げた。
「それ、同じことじゃない?」
「違う。醜さは意図の結果だ。整えられていないのは、意図の不在だ。不在は罪ではない。ただ、私の領域ではないというだけのことだ」
「……あなたが手を伸ばせば、外も整えられる」
「伸ばさない」
「なぜ」
「際限がなくなる」
アレスは板を持ち上げ、斜面の一角に嵌め込んだ。苔の縁に沿って、板の輪郭が消える。正面から見れば、そこに板があることは分からない。横から見れば、薄い光の線が一筋走る。それだけだ。
「見えない窓」
エララが呟いた。
「見えなくていい。機能していればいい」
「でも、王女は見つけられるの? 見えない窓を」
「見つけられる人間だけが、見る資格がある」
エララは唇を尖らせた。不満とも、感心とも取れる表情。
「意地悪ね」
「意地悪ではない。選別だ。この庭を正しく見る目を持つ者だけが、窓の存在に気づく。気づかない者は、そもそも見る必要がない」
「王女は気づくと思う?」
アレスは答えなかった。代わりに、二枚目の板を作り始めた。一枚目と同じ手順。粒子を選り分け、並べ、隙間を埋め、磨く。だが二枚目は、一枚目より角度が三度違う。午後の光に合わせた角度。
エララは彼の作業を眺めながら、苔の上に座り直した。膝を抱え、顎を乗せる。
「気づくわよ、あの女」
「なぜそう思う」
「振り返らなかったから。あなたがそう言ったでしょう。振り返らない人間は、決意で来る。決意で来る人間は、探すの。見えないものを」
アレスの手が、一瞬だけ速くなった。それから、元の速度に戻った。
「……そうかもしれない」
「そうよ。だから、わたしは嫌なの」
「嫌でも、窓は作る」
「知ってる。あなたは、嫌なことでも美しければやる人だから」
アレスは三枚目の板に取りかかった。三枚目は夕暮れの光用。赤みを帯びた光が板を通過するとき、苔の緑が黄色に転ばないよう、補正の層を厚くする。
日が傾き始めている。斜面の苔が、西日を受けて金色に縁取られる。その金色が、板を通してどう見えるか。彼は板の向こう側に回り、外から覗いた。
苔は緑のままだった。金の縁取りも、正確に再現されている。
「……いい」
彼は頷いた。小さく、自分だけに向けた頷き。
エララが背後から、彼の肩越しに板を覗いた。彼女の息が彼の首筋にかかる。冷たい。
「きれいね。——あなたの庭は、どこから見ても、きれい」
「当然だ」
「当然、ね。——でも、それを確認したかったんでしょう?」
アレスは答えなかった。答える必要がなかった。
窓は三枚。朝用、昼用、夕用。夜は窓を閉じる。夜の庭は、彼とエララだけのものだ。外の目は要らない。
「夜は閉じるのね」
「夜は閉じる」
「よかった」
エララの声に、初めて安堵が混じった。彼女は彼の腕に頬を寄せ、目を閉じた。
西日が沈む。斜面の金色が消え、青い影が苔を覆う。三枚の窓は、苔の中に溶けて見えなくなった。明日の朝、光が戻れば、また現れる。
アレスは最後に、窓の周囲の苔を指で撫でた。板の縁と苔の境界に、髪の毛一本分の隙間がある。その隙間を、苔の繊維で埋めた。
完璧だ。
明日、王女が来るかもしれない。来ないかもしれない。どちらでもいい。窓はそこにある。見つけられるなら、見ればいい。見つけられないなら、それまでだ。
彼の庭は、窓があってもなくても、美しい。
それだけが、唯一の真実だ。




