第2巻 第5章 四天王襲来と絶対防壁(4)
王女が去った。
それだけのことなのに、庭が鳴っている。
アレスは通路の入口に立ち、白砂の上を見下ろした。敷砂利は踏まれていない。靴底の泥は境界で落とさせた。旗は外で下げさせた。声は必要最低限に絞らせた。それでも、残っている。人の匂い。視線の重み。言葉が空気に刻んだ、微かな歪み。
「……ここ」
膝をつく。白砂の一角、石灯籠の影。王女が立った場所。砂粒の配列が、ほんの半粒ぶん、ずれている。彼女の体重が空気を押し、空気が砂を押し、砂が隣の砂を押した。連鎖は目に見えないが、彼には見える。見えてしまう。
金の熊手を取り出し、角度を測る。月光の入射と砂粒の反射率。ここは十七度。隣は十九度。二度の差が、光の帯に段差を作る。段差は影を生み、影は深さの錯覚を呼び、錯覚は視線を引っかける。引っかかりは、美ではない。
三度、熊手を引く。砂が鳴る。月が揺れる。光の帯が均され、段差が消える。
「あと、ここ」
石灯籠の根元。苔の表面に、息の湿気が残っている。王女が身を屈めたとき、吐息が苔に触れた。苔は水を吸い、色が一段濃くなった。周囲との差は、人の目には分からない。だが彼の目は人の目ではない。彼の目は、この庭のために作り直された器官だ。
指先で苔の表面を撫で、余分な水分を吸い取る。指が冷える。冷えた指を袖で拭い、次の場所へ移る。
「アレス様」
声。背後。振り向かなくても分かる。エララの気配は、冷たい水の底から浮かぶ泡のように、静かに、確実に、彼の皮膚に届く。
「起きていたのか」
「眠れないの。庭が騒がしいから」
「騒がしい?」
「あなたが騒がしい。膝をついて、砂を直して、苔を撫でて。その音が、わたしの耳に届く」
エララは裸足で苔の上に立っている。黒い髪が肩から流れ、月光を吸って青く光る。瞳の金が、暗闇の中で獣のように浮かぶ。
「あの女の匂い、まだ残ってる」
「匂いではない。配列の乱れだ」
「同じことよ」
エララは彼の隣にしゃがみ、白砂を覗き込んだ。彼女の息は冷たく、砂の表面に薄い霜が走りかける。アレスが指で弾くと、霜は消えた。
「消すの? 全部?」
「全部消す。朝までに」
「朝までに、ね」
エララは顎を手に乗せ、彼の横顔を眺めた。熊手を引く手の動き。砂を読む目の動き。彼女はその動きのひとつひとつを、舌の上で転がすように味わう。
「あの王女。どう思った?」
アレスの手が止まった。止まったのは一瞬で、すぐに動き出す。だが、その一瞬を、エララは見逃さない。
「思うことは、ない」
「嘘」
「嘘ではない。評価はある。思いはない」
「じゃあ、評価を聞かせて」
アレスは熊手を置き、立ち上がった。月を見上げる。月の位置は、今夜は三度ほど西に寄っている。明日の朝、光の角度が変わる。それに合わせて、東の苔の斜面を二寸削る必要がある。
「声が静かだった」
「それだけ?」
「足音が軽かった。砂を踏む圧が均一で、偏りがない。歩き方に教育がある。視線の動きも悪くない。一点に留まらず、全体を撫でるように見る。鑑賞の作法を知っている人間の目だ」
エララの唇が、薄く引かれた。笑みとも、それ以外とも取れる形。
「褒めてる」
「事実を述べている」
「アレス様が事実を述べるとき、それは褒めてるの。興味がなければ、事実すら口にしない」
アレスは答えなかった。代わりに、通路の奥へ歩き出した。王女の一行が通った経路を、逆に辿る。一歩ごとに、空気の層を指で確かめる。ここに声の残響がある。ここに衣擦れの振動がある。ここに、馬の息の熱が、まだ薄く漂っている。
すべてを、消す。
消すのは、嫌悪ではない。復元だ。庭を、昨日の状態に戻す。昨日の庭は完璧だった。今日、人が通った。明日、また完璧にする。それだけのことだ。
「ねえ」
エララが後ろからついてくる。裸足の音はしない。彼女の足は、苔を踏んでも苔が気づかない。
「あの王女、また来ると思う?」
「来るだろう」
「なぜ分かるの」
「帰り際に振り返らなかった。振り返る人間は、未練で来る。振り返らない人間は、決意で来る。決意は未練より強い」
エララは黙った。しばらく黙って、それから、低く笑った。
「あなた、人を見てないふりして、見てる」
「見ているのではない。配置として認識しているだけだ。彼女がこの空間に入ったとき、色彩の構成が変わった。銀の髪が苔の緑に対して補色に近い位置にあり、外套の灰が石灯籠の影と同系色で溶けた。つまり、彼女は——」
「配色として、許容できた?」
アレスの足が止まった。
月が雲に隠れ、庭が一瞬暗くなる。暗闇の中で、エララの金の瞳だけが光る。猫のように。竜のように。
「……許容という言葉は適切ではない」
「でも、排除しなかった。あなたは排除できたのに、しなかった。勇者のときは、三歩目で落としたのに」
「勇者は靴底に泥をつけたまま入った。声が大きかった。剣の金具が光を乱した。あれは——論外だ」
「王女は論外じゃなかった」
「論外ではなかった」
エララは彼の背中に額を押し当てた。冷たい。彼女の体温は人より低い。竜の血が、熱を内側に閉じ込める。
「わたしは、論外じゃないものが嫌い」
「知っている」
「知ってて、許すの」
「許すのではない。判断を保留している。彼女が次に来たとき、何を持ち込むかを見る。持ち込むものが庭を汚すなら、そのとき排除する。汚さないなら——」
「汚さないなら?」
アレスは振り返った。エララの顔が、すぐそこにある。金の瞳。黒い髪。唇の端に、霜の粒が一つ光る。
「汚さないなら、風景の一部として、配置する」
エララの瞳が細くなった。笑っているのか、怒っているのか、彼には判別がつかない。彼女の感情は、彼にとって常に美しい謎だ。解く必要のない謎。解かないことが、二人の間の均衡を保つ。
「配置、ね」
「そうだ」
「わたしも、配置?」
「君は違う」
即答だった。熊手を持ち直す間もない速さで、言葉が出た。アレスは自分の即答に、わずかに眉を上げた。
エララが笑った。今度は明確に笑った。冷たい息が白く光り、夜の空気に溶ける。
「よかった。——じゃあ、わたしは何?」
「君は、庭そのものだ」
エララは目を閉じた。長い睫毛が頬に影を落とす。月が雲から出て、その影が銀に染まる。
「……それ、今まで言われた中で、いちばん怖い言葉」
「怖い?」
「庭は、あなたが毎日手を入れるもの。毎日、直すもの。毎日、完璧にするもの。——わたしも、そうされるの?」
アレスは答えなかった。答える代わりに、熊手を砂に戻し、最後の一筋を引いた。砂が鳴る。月が揺れる。光の帯が、完璧に、元の位置に戻る。
「……朝だ」
東の空が、薄く白んでいる。彼が夜通し直した庭は、昨日と寸分違わぬ姿で、朝を迎えようとしている。王女の痕跡は、もうどこにもない。
エララは彼の肩にもたれ、目を閉じたまま、囁いた。
「消えたわね。全部」
「全部消えた」
「でも、あなたの中には残ってる。配色として。——それが、いちばん消えないのよ」
アレスは答えなかった。
東の空に、最初の光が差す。星が一つ、消える。彼はその消え方が気に入らず、指を一度鳴らした。星は消え直した。今度は、美しく。
庭は完璧だ。
明日もまた、完璧にする。
そして明日、たぶん、銀の髪の女が、また境界に立つ。




