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第1巻 第1章 追放と出会い(2)

鎧の金具がひとつ鳴るたび、湿った針葉の闇が音を飲み込んだ。背中を見せた勇者たちは、黒い樹間へ消えていく。


「アレス、すまない」


振り返りざま、勇者が短く言う。頬の筋肉が固い。


「君の結界は強い。けれど……行軍に合わせない美しさは、いまの私らには重い」


「言いにくいことを口にしてくれて助かる」


アレスは肩だけで息をした。


僧侶が目を伏せる。


「君は身を削って景色を整える。戦では泥も血も手で掴む。君の手をこれ以上……」


「汚したくない、か」


アレスが言い換えると、僧侶はうなずいた。


斧を担いだ戦士は、視線を森へ投げたまま口を開く。


「役目は果たした。ここまでだ、アレス。恨むな」


「恨まない」


アレスは首を振った。唇の動きだけで言葉を置く。


「了解した。追放の文言は簡潔で美しい。感謝する」


勇者は眉を寄せる。


「……その言い回しはやめてくれ。胸が痛む」


「痛みは正しい場所に置けば、形になる」


「だから、それが重いんだ」


戦士が舌打ち混じりに吐き、背を向けた。


僧侶が最後に囁く。


「生きて。私たちは前へ行く」


「生きる」


アレスは頷き、彼らの歩調に合わせるのをやめた。金具の音が遠ざかる。枝葉が滴る。


彼らが消えた闇に、言葉だけが残った。


「……追放」


舌の裏で音を転がし、喉で響きを確かめる。


「いい響きだ」


肩甲に積もっていた見えない重みが、衣擦れの音とともに落ちた。直線の時間から逸れて、曲線へ戻る。


鼻腔へ濃い匂いが押し寄せる。腐葉土の鉄、どこかで死んだ小動物の酸、朽ちた根の湿りに混じる薄い甘さ。冷たい空気が頬を舐め、露の粒が光を拾う角度を変える。黒樫の皮膚めいた縦縞、露の点。倒木にまつわる灰青の地衣。ゆるやかな小径の弧と、左右非対称に立つ木立のあいだを抜ける風。見えない稜線。


「彼らの靴跡は、線が太すぎる」


アレスは膝を折って泥に触れた。冷たさが指腹へ乗り、粒の数を数えるみたいに感覚が走る。


「粗い。景観が裂ける」


指で踏み荒らされた痕をなぞるたび、体の内側のどこかで、音叉が正しい音に戻る。


「ここは、死の森の端。乱れているが、素質はある」


立ち上がりながら、彼は低くつぶやいた。


「直す価値がある」


耳の奥に、さっきの声がまだ残っている。勇者の「すまない」、僧侶の「汚したくない」、戦士の「ここまでだ」。それぞれの音色を、掌に並べるように眺める。


「君たちは善人だ」


アレスは空へ向けて淡く笑った。


「善意は風に弱い。救うのは構図だ」


つま先のあたりに、小さな膜を落とす。透明な張力が泥の表面を掬い上げる。指が走ると、広がっていた線が細く整い、水面に模様が戻るような静かな動きが広がった。


「……戻れ」


それだけで充分だった。極小の手当が世界の表皮を撫でる。腐朽はそのまま、ただし適切な位置に置く。


「汚れは消さない。ただ、輪郭を与える。無闇に拡がるものは閉じる。箱庭に」


風向きが変わった。葉の銀が裏へ返る。浅い霧が地を這い、露の珠が列を作る。空気が膝に触れ、胸の手前で温かく転じる。


「追放された。これで、誰の足音も、わたしの線を踏まない」


自分に言って聞かせる声が、湿りへ吸われる。


「ありがとう。勇者」


喉に細い音が生まれた。叫びではない。鳴き砂のような、止められない響き。


思考の内側で、新しい景色の境界が立ち上がる。木々を囲む円。毒気の溜まる窪地を手懐ける四角。風の通り道に沿って並ぶ楕円。


「ここからだ。わたしはわたしの速度で、わたしの尺度で、世界を整える。死は素材。腐りは色。恐れは陰影。すべて、箱庭へ沈める」


彼は足を半歩だけずらした。足裏が拾う地形の勾配が変わる。視線の高さがわずかに違って見える。その微差が効く。


「戻ろう。出発ではなく、帰還だ。わたしは景観へ帰る」


言い切った瞬間、胸の奥で散っていた疲労が順番を整え、静かに溶ける。


闇に消えた背中へは、もう目を戻さない。彼らの悲壮は別の画題だ。ここでは不要。


アレスは風の筋を読む。露の列を辿る。最初の一歩の位置を選ぶ。


「ここ」


泥は汚れない。足音は散らない。森が彼を受け入れる。完璧ではない。だが、向かうべき先がある。


「この余白が、喉を潤す」


短く笑った。


「自由だ。わたしは自由だ」


歩みは遅い。速さは要らない。地平はそのままに、壁はまだない。だから正確に設置できる。空間を撫で、風を折り、音を薄く延ばす。ひとつひとつの要素に番号を振る。番号は秩序を呼ぶ。呼吸が落ち着く。


「追放は、祝福だ」


言葉が夜の湿りへ沈む。胸の中の歓喜は、泣くのをやめて笑う。


誰にも触れさせない。誰にも乱させない。世界は、彼の線を待つ。


足を運ぶたび、記憶が薄い霧のように皮膚の内側から立ち上がった。追放という語の滑らかな輪郭を指先でなぞると、必然のように浮かぶのは、旅の情景の悪意だった。


「急げ、間に合わない!」


あの夜、誰かが叫ぶたび、音は輪郭を壊した。


「待て。風下だ。火をずらす」


アレスは焚き火に手をかざし、炎の舌の形を整える。


勇者が首を振る。


「今は燃えればいい」


「燃えるだけではだめだ。影の落ち方が敵を呼ぶ」


戦士が笑う。


「敵は火に寄る。寄るなら斬るだけだ」


「斬る前に、目が死ぬ」


アレスは鍋の底へ石を差し込み、揺れを止めた。布の端を見て、結び目へ指をやる。


「結び直す。風の向きと傾斜を」


僧侶が手を伸ばす。


「手伝うよ。……でも、形ではなく、心が大事だ」


アレスは視線を鍋の縁へ落とした。


「心は形で呼吸する」


声は小さい。誰の鼓膜も素通りする。


地面へ薄い結界の網目を降ろす。足跡が無闇に交差しないよう指導線を引く。ほんの数息。戦士が斧を無造作に置いた重みで線が凹む。僧侶が水桶を蹴って、静かな反射面が泡立つ。勇者が結び目を乱雑に締め直す。


「今は形じゃない、機能だ」


「機能は形の中に宿る」


アレスが返しても、耳は忙しい音で塞がれている。


「アレス、石ころを並べるな。夜が明けない」


戦士の声は苦笑まじりだ。


石はただの点ではない。呼吸の単位だ。だが彼の手は、粗い息吹で上書きされる。


戦闘の記憶は、さらに酷い色調だ。


「撃て!」


「避けろ!」


「押せ!」


音が重なるたび、空気が荒れる。火球は楕円の伸びを無視して直線で空を裂いた。氷槍は並び順を持たず、地へ雑に突き刺さる。光の術は照明の作法を知らず、苔の緑を白く焼く。剣は音楽の拍を持たない。打つ、避ける、踏む――それぞれの動詞が不規則にぶつかる。


「端整な線は敵の標的になる」


戦士が嘲るように言ったとき、アレスは答えた。


「無様な線は味方の視界を殺す」


返答は空へほどけた。


泥が跳ねる。血が混じる。鉄の味が空気へ滲む。汗と皮脂の酸。土の甘みが皮肉に鮮明になる。吐き気と快感の二重螺旋。


指が無意識に動く。結界の糸を薄く張る。飛沫の軌跡を一定の間隔へ収める。刃の通る道を曲線で誘導する。


「……曲げる」


囁きと同時に、剣の軌跡が一瞬だけ美へ触れた。だがすぐ、怒声で砕かれる。


「今は力を! 細工は後だ!」


勇者の怒鳴り声。正しい。だが正しいだけでは呼吸ができない。


耳へ入る叫びは破れた布。視界へ飛ぶ火花は無節の太鼓。鼻腔は雑味。舌の奥に鉄の苦味が溜まる。こめかみの内側で細い針が押し込まれ、眼窩の底で光がねじれて滞る。


「深呼吸しろ、アレス!」


誰かが肩を叩く。


「息は整っている」


それでも、景色の側が拒む。痛みが増す。言葉は形を与えられず、熱の塊になって揺れる。


夜、野営地の輪郭を正す。


「灰は風の目に沿わせる」


灰を掃き集め、石は最小限で最適な位置へ置く。火の高さを抑え、鍋の縁を撫で、円を回復させる。


「寝床は傾斜を読め。朝へ滑らないように」


地面に薄い線を引く。僧侶の祈りの円は見ていられない。半径と方位を正し、中心に印を置いて、薄く固定する。


翌朝、それは踏み荒らされている。


「悪い、踏んだ」


戦士が頭を掻く。


「見えなかった」


勇者が素直に謝る。


僧侶は相変わらず微笑む。


「形ではなく、心が大事だよ」


アレスは唇を閉ざす。沈黙の方が、景色を汚さない。


道行き。荷車の輪は間隔を守らず、轍は斜めに交わり、雨が降れば交点が泥の洞になる。刈り払われた枝は長さが揃わず、束ねられず、ただ積まれる。倒れれば適当に蹴り返される。斥候の旗は風と無関係に立ち、布の角は空へ無意味な語尾のように翻る。列のリズムが崩れる。


「旗は風を見る」


アレスは布の角をつまんで、向きを矯正する。


「そんな暇はない」


勇者の言葉は正しい。戦場に暇はない。


「暇は作るものだ」


そう言いかけて、やめた。言葉は風に散るだけだ。


透明な壁を細い道の脇に立てる。踏み外した足を戻す。雨粒の落ちる角度を微調整する。泥の粘度を均す。血の抜けた小さな動物の遺骸を、構図の隅へ収める。


「またやってるのか」


戦士が笑う。


「歩きやすいだろう」


「たしかに足は軽い」


勇者がぼそりと答える。


「でも、全部は無理だ」


「全部はいらない」


アレスは首を振る。


「要るところだけ。骨組みだけ」


整える。壊される。整える。壊される。柔らかな棘が皮膚を撫で続ける。


その旅は、最悪の眺めの連続だった。彼の審美を、砂を握った掌で逆撫でするみたいに。


それでも、耐えた。耐えるとは鈍ることではない。痛みを受け取る角度を選ぶ。最小限の破壊で済ませる。痛みの配置を覚え、傷の深さを測る。視線をずらす。壊れぬ部分を拾う。拾った欠片で、夜ごと、小さな美を作る。誰にも気づかれない小さな円。小さな線。小さな影。


そして今、追放。最悪の連続から外れ、最良の余白へ戻った。記憶は汚れの列であり、整理すれば素材になる。目を閉じると、乱雑がこれからの整序の肥料になるのを確かに感じる。騒音は沈黙へ溶け、乱暴な線は薄い指導線へ還り、無意味に散っていた傷痕でさえ、次の図面の注釈へ変わっていく。


胸の底から、透明な水が押し上がる感覚が湧いた。最悪の情景の記憶は、底に沈む泥。だが泥は、静かに降り積もれば層になる。層は地形になる。


アレスは歩みを止め、掌を土へ置いた。冷たさが皮膚へ触れる。皮膚から神経へ。神経から心へ。その途中で、はっきりした輪郭が生まれた。


部屋――そう、やっと作れる。


「部屋だ」


息みたいに低く言う。


「わたしの」


旅のあいだ、彼には部屋がなかった。野営地は宿りであっても、部屋ではない。部屋とは、外界のノイズが壁へ吸われ、角で折られ、床面——

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