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第7巻 第2章 結界のほころび(3)

白金の炎が、竜の娘の爪先でぱち、と咲いた。湿った森気の中、熱がわずかに肌を刺す。甘い樹液の匂いに、焦げの苦みが混じる。


「ご命令を。これを解き放てば、半径十里は一息で蒸発します」

エララは囁き、唇の弧だけで笑う。尾の黄金鱗がさざめき、背後で空気が乾いた。薄氷が薄く張るような気配が、音もなく広がる。


黒紫の霧が、地を滑る。触れた草がしゅう、と縮れて黒くなり、風は鉄の味を運んだ。空には鉛が垂れ込め、遠雷の唸りが腹の底を震わせる。森の中心、世界が穿たれた穴は、夜の墨を溶かしたような闇の深さだ。


アレスの肩が掠かに震えた。寒さのせいではない。鼻腔に刺さる焦げの臭気、指先にまとわりつく細かい煤の粉。目の前の景色が、光の角度も影の輪郭も台無しにされている。その事実だけが、彼の体温をわずかに上げる。


「……汚い」

落とした声は、静かな水面に石を落とすみたいに広がった。


エララの竜耳がぴくりと動き、頬に熱が差す。彼の横顔に影が落ちるたび、彼女の尾は、抑えきれない癖で天を指した。


アレスは視線を落とし、片膝を地に。焼けた芝を指先で摘む。繊維がばらける手触り。土は湿り、とろりと重い。

「待て。今のは駄目だ」

「……理由を」

「灰だ。灰が庭に降る。芝の目地に入ると、雨のたび、黒い筋が浮いてくる」

彼は焦げを光に透かし、淡い日差しの色で断面を測った。

「白薔薇の根元に黒い染み。想像するだけで胸が悪い」


エララは喉を鳴らすのを抑え、瞼を伏せる。彼が吐く一語一語が、彼女の血を甘く熱くする。


穴の底から、影が立つ。三メートルを越える背、六対の黒翼。顔は口だけが裂けて、眼はない。指は二十、くねる。湿った皮膜が擦れる音に、森の鳥も虫も黙る。


「久しいな、人の子よ」

男声も女声も、嬰児の泣きも老人の掠れも、同じ言葉を吐く。耳ではなく骨に響く声。


「我は、世界を滅ぼしに来た。山も海も空も、森も湖も、すべて、無へと戻す。生命という汚濁を消す。それが悲願であり――」


「三日。いや、根までいってるな。最短でも一週間」

アレスは地面に視線を置いたまま独り言の調子で続ける。焦げた芝を置き直し、土を指で掘る。湿りと粒の粗さが、舌の裏に苦さを呼ぶ。

「倉庫に野芝の種はある。問題は土の酸性度だ。瘴気で狂ってる。中和剤を撒いて、表土を入れ替えて、それから根張りの様子を見て――」


「……人の子、我の言葉が耳に届いておらぬと見える」

魔王の口が三日月を描く。


「届いてる。だが、要点はこっちだ」

アレスは立ち、手帳を閉じ、蒼の目で穴を射る。眼差しは魔王の顔を通り過ぎ、足元へ。

「その穴を塞げ」

「……何を?」

「言っただろう。そこ。紫の穴。今すぐ閉じろ」


「理由を聞こうか、人の子よ」

「庭だ」

アレスは指で示し、呼吸を浅くする。瘴気の鉄臭が鼻に絡むのを、無意識に避ける癖。

「私の庭の空間設計では、そこに東の泉水を置く。真上の月光が水面で砕けて、西の白薔薇に帯を投げかけるように設計している。そこにこんな汚い穴を開けられて、平然としていられると思うな」


魔王の翼がぎこちなく揺れた。


「世界を滅ぼす、と? 聞いた。だが、世界がどうでも私には関係が薄い。山が崩れようと海が干上がろうと、人がどうなろうと、好きにすればいい」

アレスは一歩踏み出した。足元の枯れ葉が、細かく割れて乾いた音を立てる。周囲の空気がささやくように硬化し、透明な菱形片が光を受けて舞う。


「ここだけは違う。私の庭は、私が寸分の狂いもなく掌握している聖域だ。そこに、趣味の欠片もない手口で穴を開け、瘴気を漏らす? 不愉快だ」


「……人の子。我は世界を滅ぼすのだ。庭というものは世界の一部。世界が消えれば――」

「逆だ」

アレスは鼻で笑い、同じ距離感の声で言う。

「世界が私の庭の一部だ。庭を保つために世界がある。借景が崩れるなら私が作り直す。だが、庭の真ん中に雑な穴を開けるのは別の話」


二歩目。光が彼の頬の滑らかさを沿って落ち、髪の銀に紫が混ざる。結晶化した空気が微音で渦を描く。


「もう一度言う。塞げ。漏れた瘴気は回収しろ。焼けた芝の補償は別項目。土の中和費もだ。滅ぼしたいなら、境界の外でやれ。境界の図は後で送る」


「……」

エララは両手を胸の前で組み、息を細く吐いた。指先からこぼれる冷気が、白い花びらの幻を散らす。瞳孔は細く絞られ、頬に熱が宿る。


虚無からの音だけが、しゅう、と漏れる。召喚の裂け目に群れる骸骨と肉塊の影は、動かない。魔王の口がようやく動いた。

「正気か」

「もちろん」

アレスは肩をわずかに竦める。

「お前の穴の開け方はひどい。幾何学的意識がない。次元の裂け目は、もっと精緻な多角形で開くべきだろう。それはただの破れ。子供の落書き未満」


翼がびく、と跳ねる。


「……貴様、我に――」

「話を戻す」

アレスは手帳を開いて、ペン先を舌で湿らせる。羊皮紙が指に吸い付く感触が心地よい。

「損害賠償の項目。土壌汚染、芝焼失、景観の毀損。それから精神的苦痛。紫の景色を見せられた分は、最大値で」


エララが微笑む。笑みは柔らかいが、背に宿る魔力が薄い氷の粒になって空気に滲む。


魔王は空気を歪め、翼で突風を叩きつけた。湿った風が土を巻き上げて走る。

アレスの前で透明の面がひとりでに現れ、砂粒ひとつ触れられない。

「やめろ。土埃が立つ」

アレスは眉間に皺を寄せる。

「石像が汚れる。朝、エララに磨かせたばかりだ。傷でもついたら、お前の翼で拭うことになる」


エララは首をかしげ、唇の端だけで笑ってから、言葉を選ぶようにゆっくり言う。

「その翼、使い道を見つけるなら、もっと別の……いえ。今は黙っておきますね」

彼女の足元で霜がきらりと光った。


「……我を無視するな」

魔王の声が地の底を鳴らす。

虚無の穴から、骸骨が剣を掲げ、肉塊が吠え、眼球の群れがうごめく。黒い潮が溢れようとした。


「うるさい」

アレスは指を鳴らした。


軽い音が空気の膜を弾く。瞬時に、透明な立方体が穴を囲む。内側に、空気の揺らぎが閉じ込められる。


「何だ――」

魔王が拳を打ちつけても、面は沈む気配がない。金属的な響きすら起きない。眷属の刃も、ただ滑った。


「ここは私の庭」

アレスは手帳をしまい、氷のように冷たい視で穴越しの影を見る。

「許可なく騒ぐな。芝を踏むな」


「我を誰だと――」

「知らない。興味がない」

アレスは踵を返した。コートの裾が泥を避けるように軽く翻る。

「エララ、帰る。今日は手入れの気分じゃない。穴の処理は後で私が図面から組み直す。とりあえず、立方体の中は真空に」


「承知」

エララはひざまずくような所作で手をかざす。指先から音もなく力が漏れ、立方体の内側から空気が引き抜かれていく。圧が消え、声も消えた。もがく影が、ぱくぱくと口を開閉するだけの人形になる。


「……いい子だ」

アレスのつぶやきに、エララは目を細くした。言葉ではなくその調子だけで、胸の奥が満たされていく。


死の森の中心は、急になった。遠くの雲の重さが少しだけ軽くなる。風が変わり、湿りが薄まる。そこにあるのは、銀髪の結界師の、偏執的な美意識だけ。


アレスは振り向かない。足がまっすぐ館へ向かう。背中は無防備で、頑なだ。指先にまだ、土の湿りが残っている。


「エララ」

「はい」

「穴の直径は目測で五メートル。深さは裏側まで通ってる。塞ぐだけでは平凡だ」

「では?」

「利用する」

アレスの目がわずかに明るむ。光が瞳の底に粒となって踊る。

「瘴気は有害だが、見方を変えればエネルギー源。特殊な結界で濾過して、純粋な魔力に変換する。その力で、穴の上に噴水を上げる」


「噴水……」

「夜には、魔力を光の粒に変えて噴き上げる。星屑みたいな光が散って、白薔薇を照らす。月がなくても、光は降る」


エララは両手を打った。尾が喜びにあわせて揺れる。

「素敵。穴すら飾りに変えてしまうなんて」


「当然の処置だ」

アレスの口元に短い笑み。

「破壊だけの発想は安い。本当は、その後に何を創るかが肝だ」


結界から遠ざかるにつれ、空の紫が薄まる。湿った土は香りを返し、鳥の影が枝をかすめた。


「植物の選定が要る」

アレスは歩きながら、掌で空気を撫でるように言葉を並べる。そこに見えるものを形にしている手の動き。

「瘴気に強い種。魔力を吸って光る月光草、空間の歪みを安定させる星屑の苔。模様は幾何にする。噴水の光と共鳴させる」


「月光草と星屑の苔は、東の果ての霊峰に……」

「自生している。明日、お前が採りに行く。根を傷つけるな。群落の縁から、必要な分だけだ」

エララは一礼し、嬉しさに肩を震わせた。受け取った命が、何よりの褒美。


「土台の石は」

アレスは顎に指を当てる。指に僅かな土のざらつき。

「普通の大理石では退屈。濾過の結界を組み込むから、魔力の通りが良い黒曜石を芯に、白金石で装飾。黒と白の対比が光を引き立てる」


「どちらも高価で、集めるのが難しい」

「金の問題ではない。質の問題だ。霊峰から戻ったら、石材商に一斉に連絡を。最高級だけを買う」


「はい」

エララは胸の前で指を組み直した。指先に薄い冷気がまた灯る。小さな霜がすぐに消え、跡形も残さない。


「機は熟した」

アレスは空を見る。薄雲の切れ間から、一条の陽が落ちる。風が乾き、匂いが変わる。

「滅びの前振りが、庭を美しくするための材料になるとは。神は時に面白い配牌を寄越す」


「まずは測量ですね」

「そうだ。穴の縁の厚み、地盤の硬さ、光の入り方。測量具を準備しろ」

「すぐに」


二人の声は、森の静けさに溶ける。足取りは軽い。


背後の立方体の中で、魔王は口を開閉しながら、無音の咆哮を繰り返す。目がない顔を、足元の穴へ向ける。はじめの予定では、世界を染める瘴気が詩になるはずだった。現実にあるのは、箱の内側に反射する自分の影だけ。空気がない。音がない。時間だけが、冷たい水のように指の間から零れる。


「ところで」

アレスがふと思い出したように振り向く。靴底が湿った泥を軽く押し、わずかな跡が残るだけ。

「損害賠償の件、忘れるな。土壌の中和費、芝の補植費、景観の回復に要する職人の工賃。精神的苦痛は上限で請求する」

「明細、私がまとめます」

エララは鞄から薄い板状の魔道具を取り出す。表面に浮かぶ文字を、指先で滑らせる。滑らかな石の手触りと、冷やりとした感触が心地よい。

「『芝の焼失』、『白薔薇への影響調査』、『光の帯の乱れによる鑑賞妨害』。このあたりも項目に入れておきますね」

「良い判断だ」


羊皮紙にペン先が触れる音が、森に残る。カリ、と乾いた。次の瞬間、またカリ。一定のリズムは、終末の気配を無視して滑っていく。


「アレス様」

エララは歩を合わせ、横顔を盗み見る。呼びかけたあとの言葉は、ひと呼吸置いてから出た。

「今日の空、少しだけ青が戻ってきましたね」

「当然だ。あれを閉じ込めた」

アレスは目を細める。光の角度を測る癖が、自然に出る。薔薇園のどの葉に、どの時間に、どれほどの光が落ちるべきか。頭の中で、輪郭が鮮やかに浮かぶ。


「帰ったら、噴水の図面を引く。光の粒の散り方と水の高さを合わせる必要がある。月がない夜のためのバランスを取る」

「調和の取り方は、いつもの比率ですか?」

「いや、今回は違う。星屑の苔が光を持つ。普段の比率では眩しくなる。少し落として、影の濃さで奥行きを出す」


エララは頷き、歩幅を半歩だけ広げる。踵で泥を跳ねないように、地面を撫でるように歩いた。尾の先に乗る薄い冷気が、草の穂先を白く撫でて消える。


「魔王のこと、忘れていませんか」

「忘れていない」

アレスは振り向かずに言う。声は平坦だが、息の温度が少し上がる。

「箱の中で冷静になる時間を与えてやっている。出てきたら、穴の塞ぎ方を教える講義を受けてもらう。あの雑な破れ方を放置されると、景色の線が乱れる」


エララはふふ、と声を喉の奥で転がした。笑いに合わせて霜がぱらりと舞い、光を食む。

「講義代も、請求に入れておきますね」

「忘れるな」


森の縁に出るころ、風は乾き、鉄の匂いはほとんど消えた。雲は鉛から薄灰へ、時折、陽が差す。石畳の冷たさが靴底を通して伝わる。館の白壁が遠くに見えた。


「噴水の基部、曲線にするか?」

アレスは独り言のようにつぶやき、すぐに答えを出す。

「直線だ。直線に曲線を絡ませる。月光草の列は半径を変える。見る角度によって、光がずれる。退屈しない」


「材料の搬入ルートも確保しないと」

「裏門だ。古い樫の北。あそこなら荷車が通れる。踏圧で根が傷まないよう、板を敷く」

エララは頷きだけで応えた。従順というより、彼の呼吸と同じ速さで動くための確認。尾の先で草の穂を撫で、


「業者は要らないかもしれない」

アレスはふと立ち止まり、指で空に線を引く。空気に白い跡が残るような錯覚。目はその線の先を追う。

「自分でやる。図面も結界も、全部。時間はかかるが、出来が良い」


「お手伝いは」

「当然、してもらう。霊峰から帰ったら、まず石を磨け。白金石は傷が目立つから、布は柔らかいものを。水は温い方が良い」


「はい」

エララは目を伏せ、そのままひと呼吸黙る。嬉しさが溢れるのを、笑みに変えず仕草に変える。爪の先で空をひとなぞり、冷気を消した。言葉にしない従順。それ自体が告白に近い。


「帰ったら、薔薇の剪定も。黒い筋が一本でも見えたら、茎ごと落とす」

「承知。剪定鋏は研いでおきました」

「良い」


魔王のいる箱は、森の奥の闇に沈んでいく。光はその表面で反射し、四角い輪郭だけが遠目に白い。


「エララ」

「……はい」

「今日、手を汚した。帰ったら洗う。砂糖とレモンを混ぜた水で」

「準備しておきます」


アレスは黙り、指先の土を拭う。砂が皮膚をかすめる音が、かすかに聞こえる。


「アレス」

「何だ」

「さっきの『汚い』、とても素敵でした」

エララは笑っていない。ただ、目の縁がわずかに湿って見える。背後で氷の粒が一瞬だけ踊り、すぐに融けた。


「当然だ」

アレスは視線を正面に戻す。白壁が近づき、扉の金具が光る。陽が当たり、金属は温かそうに見えた。


館の前庭に入ると、石畳に陽が差す角度が変わる。薔薇の葉の縁に光が乗り、一枚一枚、違う表情を見せる。風は穏やかになり、遠くで小さく水の音がした。昨日、磨いたばかりの小噴水の舌が優しく動いている。


「さて」

アレスは扉に手をかけず、庭をひと巡り見渡した。視線が触れるたびに、葉の裏の細い葉脈まで輪郭が立つ感覚。

「忙しくなる」


エララは頷き、扉を押す。金具の冷たさが掌に移る。廊下の香りは、磨き上げた木の甘さと、石鹸の柑橘。床に置かれた靴の音が軽い。


遠く、立方体の中では、魔王がただ、無音のうちに足踏みを続ける。彼の長い時間で編んだ言葉も儀式も、箱の内で薄く薄く圧縮されていく。世界を覆うはずの声は、いまや羊皮紙にカリと刻まれる音に負けている。


「測量具」

アレスは手を伸ばす。エララが差し出す金属の箱は、冷たい。蓋を開けると、光を測る薄い板と、糸の張力で距離を測る小さな枠。手に馴染む重さ。


「行くぞ」

「ご一緒に」

二人の影が伸び、廊下に溶けた。外では、風がまた一度、白薔薇の花弁を揺らす。雲が切れ、青が広がる。


魔王という存在は、二人にとって、庭の改装を始める小さな合図でしかない。今、この館には、カリカリとペンが走る音と、湯の沸く微かな響きしかない。終末は箱に収まり、庭は今日も完璧へ近づく。

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